ワシントンDCにある名門黒人大学ハワード大学でトランぺッターのドナルド・バードの教えを受けていた学生たちが結成したジャズ・ファンク・バンドがブラックバーズ(The Blackbyrds)。学生ノリのやんちゃなファンクのサウンドがウケてデビューすると即大ヒット。
そんな名グループが、7月1日・2日にビルボードライブ東京で来日公演を行なう。それを機に彼らの伝説的な70年代の名盤について話を聞くことができた。取材を受けてくれたのはキース・キルゴー(Dr,Vo)とジョー・ホール(Ba, Vo)。キースはドナルド・バードの傑作『Black Byrd』や、2022年にリリースされて話題を呼んだ彼の発掘音源『Cookin' With Blue Note At Montreux』でも起用されていた、ドナルドのキャリアに密に関わったキーパーソンだ。
彼らがブラックバーズのことだけでなく、ドナルド・バードとの関係から、ハワード大学でのエピソードまで聴かせてくれた。ハワード大学はダニー・ハサウェイやロバータ・フラック、リロイ・ハトソンも通っていて、その時の彼を指導したのもまたドナルド・バードだった。そんなアメリカのソウルやジャズの歴史を読み解くための貴重な情報としても読んでもらえたらと思う。
ハワード大学で学んだこと
―ブラックバーズのメンバーは黒人大学のハワード大学の卒業生だと思います。ここでの経験について聞かせてください。
ジョー:音楽学部が属していたファインアーツ(純粋芸術)学部の建物の地下に練習部屋があってね。当時、ぼくらはほとんどの時間をそこで過ごしていたんだ。閉館時間を過ぎても、上の階の教室に集まって、朝日が登るまでみんなでジャム・セッションの日々だった。建物のどこかでは常に誰かが練習する音が聞こえていたから、ごく普通のことだった。ボーカルの子達がウォーム・アップをしていたり、ぼくがベースを練習していたり、廊下の向こうからケヴィン・トニー(ブラックバーズの鍵盤奏者、2024年死去)のピアノが聞こえてきたりね。だからすごくいいコミュニティみたいな雰囲気だったよ。とにかく放課後の活動はたくさんあったけど、日中の講義なんかはごく普通だった。教授の出す課題には順応する必要はあったけどね(笑)。
キース:そもそも僕は別の大学に通っていたんだけど、ドナルド・バードに会ってあいさつした時に「なんで君はハワードに通ってないんだ?」って言われてね。それでハワードに入った。キャリアを通じて、彼が常に大切にしていたのは教育と音楽だった。そんな彼から学べる環境にいたことは特殊だったと思う。
―ドナルドから学んだことをもう少し詳しく教えてください。
キース:まず彼は、常に聴く体勢だったっていうこと。常に新しいアイデアや流行っていることをチェックして、新しいアーティストを探していた。演奏しているのが誰であってもその音楽にじっくり耳を傾けていた。あとぼくら全員、とにかく練習しなければいけないってことを彼から教え込まれた。
そして、「音楽的な能力を幅広く探求すること」――つまり、作曲のしかた、楽譜の書き方、楽曲の構造の分析方法なども学ばされた。ドナルドはパリでナディア・ブーランジェ(※レナード・バーンスタイン、エグベルト・ジスモンチ、アストル・ピアソラらを指導した作曲家)に師事していたんだ。クインシー・ジョーンズも彼女から学んでいる。ブーランジェは理論の教師だったから、バードの教育も音楽理論にすごく重きを置いてたんだ。だからスクリャービン・コード(=神秘和音/Mystic Chord)が何かわかっていなきゃいけない。だから、ドナルドは理論には厳しかったよ。スクリャービン・コードはジャズでは四度堆積コードを指すよね。それを使ったソロの取り方も学んだよ。ドナルドはとにかくいろんなアプローチを生み出していた。
あと、彼からは音楽ビジネスについても多くを学んだ。
代表曲のひとつ「Mysterious Vibes」、1977年のアルバム『Action』収録
―当時のハワードではまだプログラムの多くがクラシック音楽寄りで、ジャズやソウルやファンクを教える仕組みは整っていなかったと思います。
キース:当時の大学におけるブラック・ミュージックって、レオンティン・プライス(※アフリカ系アメリカ人の世界的オペラ歌手)みたいなクラシック音楽のアーティストが学ぶようなプログラムだった。言うまでもないけど、僕たちが求めていたのはそういうものではなかった。誤解のないように言っとくと、僕はクラシックは好きなんだ。モーツァルトとかベートーヴェンとかね。
あと思い出すのは、僕は打楽器科だったんだけど、4年生の時のリサイタルでハイドンの曲をヴィブラフォンで演奏しなければいけなくて、ほんとにつらかった。適当に終わらせた後、ステージに戻ってモンクの「Round Midnight」で〆たから、たぶんなんとかなったけどね(笑)。
ジョー:実は僕の母も1930年代にハワード大学に通っていたんだけど、当時はキャンパスでジャズは禁じられていたそうだ。母はクラシックのボーカリストとして学んでいて、必然的に授業の内容もクラシックを基盤にしたものだった。でも僕の時代は両方あった。ジャズに関してはハワード大学にはドナルド・バードがいて、彼がジャズ学部を統括していた。だから僕が通っていた頃には学内でジャズ・バンドは定着していた。夜のジャム・セッションも可能だった。ジャムにはクラシックの学生も参加してたのを覚えているよ。
僕らはみんな共通して「自分はジャズをやりたいんだ。」って強く思っていた。でも、大学ではどの楽器を選択してもその指導を担当するのはクラシックの先生だった。
―大学ではなくて、自分たちでジャズやソウルやファンクを身に着けたと。
キース:そもそも、そういう音楽は学ぶよりも体験するものだから。「ファンクの授業」なんて言葉は聞こえはいいけど、そういうもんじゃない。大事なのは、その音楽に触れること。僕の例で言うと、僕の年上のいとこたちはみんな女子でね、土曜日になると集まってお互いの髪の毛を編んだりしてたんだけど、その時にはいつもモータウンがかかっていた。それに合わせてみんなでダンスしたもんだよ。僕は一番末っ子だったから、彼女たちのダンスの相手をしたんだ。スモーキー・ロビンソンを知ったのは彼女たちのおかげだ。
もう一つ忘れられないのは若い頃、ハワード大学の劇場でジェームス・ブラウンとマイルス・デイヴィスの両方を観たんだ。その二つの対バンなんて今じゃ信じられないよね。マイルスのバンドにはコルトレーンやキャノンボール・アダレイがいた(『Kind of Blue』のメンバー)。JBのバンドにもメイシオ・パーカーをはじめとした錚々たるミュージシャンが揃っていた。結局ね、歴史を振り返るとそういったミュージシャンたちってみんな同じなんだ。どんなジャンルの音楽でもGコードはG、というのが僕の考え方だ。違うのはそれをどう感じるか、それをどこに入れるかで、そのGの音色や音価自体は同じ。JBだって、他のミュージシャンのスタイルを取り入れていた。JBは「Super Bad」で〈Blow me some Trane, brother!〉って叫んでる。それにヴァンプを生み出したのはコルトレーンだ。「Acknowledgement」での〈Dom, dom, ding, ding, dom, dom, ding, ding〉(※コルトレーンがA Love Supremeと歌ってる箇所)って部分ね。あれはファンクそのものだよ。当時のミュージシャン同士って、今のような目に見える交流はしていなかったから、世間の認識では「これはジャズ、ああいう感じはファンク」って区別されていた。ところが実際には、みんな同じことをしていたんだ。歌か演奏かだけの違いみたいなもの。僕はそう分析してるんだ。
「Super Bad」で〈Blow me some Trane, brother!〉って叫んでるのは4:20ごろ
ドナルド・バードとの出会いと結成秘話
―ドナルド・バードが1973年に発表したアルバム『Black Byrd』は、ジャズとファンクを融合させた作品として高い評価を受けました。このアルバムに、キースさんも参加されていましたよね。
キース:元々『Black Byrd』に収録された曲はジャズ・トランペッターのリー・モーガンのために書かれたものだった。ところが彼は、残念なことに1972年にNYで殺されてしまった。だから、ほとんどの曲はリーが亡くなった頃には録音が終わってほぼ完成していた。ピアノを担当したのはクルセイダーズのジョー・サンプル。他にはウィルトン・フェルダーやチャック・レイニー、ハーヴィー・メイソンが参加していた。当時彼らはみんなモータウンでも演奏していた一流のスタジオ・ミュージシャンだった。プロデューサーはラリー・マイゼル。
マイゼルのスタイルは、ミュージシャンにあれこれ考える余裕を与えないんだ。ただ「その音楽を演奏する」ことに集中させられる。正直に言うと、あの頃、演奏してた曲の多くは、僕ら自身、現場では何をやってるのかよくわかってなかった(笑)。
―どういうことですか?
キース:スタジオに入ると、まずグルーヴが始まる。そこに僕はドラムビートを重ねていく。すると突然、マイゼルがカードを出すんだ。「Bに行け」って書かれたカードをね。「B? Bって何だろ?」「(その場で考え出した演奏をしてみてると)ああ、これがBかも。やあB、調子どうだ?」って感じでふさわしいアイデアが出てくる(笑)。そうやって即興で曲を作っていった。そんな方法を可能にしていたのは、全員が持っていた”経験”だったんだ。チャック・レイニーなんて、ジェームス・ジェマーソンみたいな超一流のオールドスクール・プレイヤーだったわけだからね。
―全員で即興的にいろんな演奏をして、それを録音して、後で編集したら曲ができるってことですか。
キース:そうそう、あのレコードの録音では、最初はドラムが入ってなかった。代わりにドラムマシンが使われていた。そこで後からハーヴィー・メイソンが呼ばれて、すべての曲をクリック・トラックに合わせて叩いたんだ。「Slop Jar Blues」「Black Byrd」「Flight Time」とか、全部そう。
―いわゆるジャズの録音とは全く違うやり方で作られていたんですね
で、マイゼルはそんな曲の中で”(リー・モーガンみたいに)ソロ演奏が上手い人”を探していた。それがドナルド・バードだったってわけ。そうやって『Black Byrd』が生まれ、そして、そこに参加していた僕たちはその後、ブラックバーズになったんだ。
キース・キルゴーが参加した、ドナルド・バード「Black Byrd」の1973年ライブ映像
―ブラックバーズの結成の経緯についてもう少し聞かせてもらえますか?
キース:まず背景として、当時ブルーノート・レコードは瀕死の状態だった(※1966年に米リバティー・レコードに買収され、創業者が経営から離脱。1970年にオフィスをNYからLAに移転。1979年にレーベルは事実上休止)。ヒット曲も出せず、売れてるアーティストもいなかった。そんなレーベルを救ったのが、僕たちが参加したアルバム『Black Byrd』だった。
グループの名前はみんなで決めたんだ。その頃、プロデューサーのオリン・キープニュースが若手のグループを探していた。僕たちはブラックバーズの名前が付く前から、ドナルドとずっと一緒にプレイしていた。ドナルドの『Cookin' With Blue Note At Montreux』はまさにぼくたちのグループとしての活動が始動した頃の録音なんだ。当時は編成によってドナルド・バード・セプテットとか、ドナルド・バード・カルテットって呼ばれていたね。そんな僕らのライブを観たレコード会社が「こいつらはすごいぞ、もしかしたらいけるかもしれない」って言いだして、ファンタジー・レコーズと契約できることになったんだ。
規格外のデビューと音楽的冒険
―1974年にはデビュー作『The Blackbyrds』がリリースされます。どんな作品にしようと制作したものですか?
キース:あの頃の僕らはただ祈るしかなかった(笑)。右も左もわからない状態だったからね。カリフォルニアのスタジオに向かっていたらドナルドから電話があって、電話越しにいきなりベース・ラインを歌われたんだけど、僕にはなんのことやら意味不明だったこともあったね。このアルバムはドナルドにとって初のプロデュース作で、スタジオにはラリーとフォンスのマイゼル兄弟もいた。一曲ずつ録っていったんだけど、僕らは一切質問もせず、淡々と「オッケー、録るよ」って感じで演奏したんだ。1カ月くらいカリフォルニアにいたんだけど、ある日、ドナルドから「誰かにこれを歌って欲しいんだ」って言われたんだ。その後、彼が歌詞を持ってきたんだけど、どう考えても言葉が多すぎるよねってなって、それをバンドのみんなでスケールダウンして完成したのが「Do It Fluid」。歌は僕が担当した。とても歌ってるとは言えないレベルだけど(笑)。父がそれを聴いて「何の特徴もないボーカルだな」って言ってくれた(笑)。まあ、そんなふうにできたアルバムなんだ。
―何もわからないまま作って、あのアルバムができたんですか。信じられない。
キース:あのアルバムは発売最初の週だけで125,000枚売れたんだ。あの当時、ジャズのグループのアルバムではあり得ない枚数だった。びっくりだったよ。その頃のぼくらはそういったことも含め、音楽業界のあらゆることに世間知らずで、セールスのことなんて考えてもいなかった。もっとうまく演奏して、もっといい曲を書く、そんなことしか考えていなかった。常に心は学ぶ立場。つまり僕らはマインドも学生だったんだよ。移動だって自分たちでトラックを運転してたし、ツアー中の部屋だって3人で一部屋をシェア。床で寝たこともあるしね。僕たちは音楽だけを追い求めていたんだ。
―同年に2作目の『Flying Start』を発表して、こちらも大ヒットしましたよね。
ジョー:この頃の僕らの状況はアルバムのタイトル通り。知名度も上がって、色々なところでライブをするようにもなっていた。「Walking In Rhythm」が思いがけず大ヒットしたことで、気づいたら人気が出てライブも増えて、更にいろんなことが動き出したんだ。
キース:僕らのアルバムの中で最もプログレッシブな作品の一つだったよね。おとなしい曲なんかなくて、ぶっ飛んでて、あのアルバムはヤバいんだ(笑)。でも、僕らはあの方向性に確信を持っていた。外野の評価を気にせず、とにかくプレイした。結果的にブラックバーズ史上、最もジャジーな作品になったんだ。
―「Walking In Rhythm」に関して何かエピソードはありますか?
ジョー:あの曲に初めて取り掛かった時、弾き始めたのはギターのバーニー・ペリーだった。一部アレンジを変えたりしたけど、曲のメインの部分は当初のアイデアをそのまま採用してる。それがたまたま大ヒットになったんだよね。
キース:そうそう。最初はどんな曲がどう仕上がるのかまったく想像がつかなかった。リリース後のある日、友達のドラマーのビリー・ハートから電話がかかってきて「お前、どうしたんだ?あの曲にボサノヴァのビート乗せてるけど(笑)」って言われたんだ。あの時はあれがボサノヴァのビートだったことさえ自分にはわからなかった。なぜかそうなってたんだ(笑)。全員のエネルギーが一点に集中されていた中で、僕はしっくりくるあのビートを自然に刻んでいたんだ。本気で取り組んでたら、あの優しさ、あの空気感が出たんだ。音楽って「体験」なんだよ。この曲もまさにそうだった。録音が終わったあと、僕たちはすぐに次に頭を切り替えてたから、当時はあの曲が何になるかなんて考えてなかった。だから今でも聴き返すと、「え、俺たちこんな演奏してたの?」って驚くんだ(笑)。
―「Blackbyrds Theme」には3人が作曲でクレジットされています。その中にはジョーさんも含まれています。この曲はどのように書かれたんですか?
ジョー:なんとなく弾き始めて出来上がった曲だったと思う。なぜかアラン・バーンズ(ザ・ブラックバーズのサックス/フルート奏者、2016年死去)はこの曲をすごく毛嫌いしていたのを憶えてるよ(笑)。でもこの曲自体、すごくエネルギーに溢れててアップテンポで、それほど複雑ではないから、プレイしていて楽しい曲なんだ。グルーヴしながらプレイして、ホーンの旋律を加えていったらうまくまとまったんだ。ジャム・セッションを基にそれを仕上げた曲だね。
『City Life』が50年後も愛される理由
―その後、1975年に『City Life』を発表します。名曲「Rock Creek Park」が収録されています。
ジョー:あのアルバムが出た頃にはぼくたちも少しは洗練されていた。「Rock Creek Park」に関して言うと、あの曲は全員が少しずつ貢献して出来上がった曲だね。サウンドチェックの時になんとなくプレイしていたところから始まって、それが形になった。アルバムのテーマは「都会の生活」。僕らが通っていたハワード大学のキャンパスがあった街のことを書いたんだ。
キース:当時よくドナルドから「まだ誰も来ていない早い時間にライブ会場に来い」って言われてたんだ。まだスタッフが掃除をしているような時間にね。そして、そこにテープレコーダーを持って行くんだ。ドナルドは「とにかく演奏をたくさん録音しておけ」って僕らを指導していたんだ。あの時、ベースのジョーがドラムを叩いて、ドラムの僕がベースを弾いてふざけていたんだよね。でも、僕らの曲っていつもそんな瞬間から生まれる。「うわ、今のいいじゃん」ってね。そして、その録音を持ってスタジオに入って磨きをかけるんだ。
―「Rock Creek Park」では作曲のクレジットにメンバー5人の名前がありますよね。その辺をもう少し聞かせてもらえますか?
キース:あの曲はすごく単純な曲なんだよね。単なるヴァンプで出来てるし、そこに「なんの特徴もないボーカル」が乗ってる。みんなで「ウー」「アー」とか言ってるだけ(笑)。でも、それこそがアートのマジックなんだ。完璧を目指して頑張り過ぎたことで外してしまうことも多いしね。逆にすっごくバカバカしいことをした時にそれが最高の結果を生むこともある。「Rock Creek Park」ではなぜかすべての要素がバシッとハマって、あの感じが生まれたんだ。
―タイトルって実在する公園のことですよね。
キース:そう。僕はまさにRock Creek Park(ロック・クリーク公園)の近所で育ったんだ。あの公園から1ブロックのところに住んでいたんだよ。
ジョー:で、ぼくは2ブロック先に住んでた(笑)。ぼくらにとっては子供の頃によく行った場所の歌。公園でおたまじゃくしやカエルを捕まえてたし、大人になってからも車で行ってのんびり過ごす場所なんだよね。
キース:だから、「Rock Creek Park」は僕らにとってのワシントンD.C.を象徴する曲なんだ。どこで演奏していても、あの曲でオーディエンスにワシントンD.C.を届けることができると思っている。だからどこに行ってもかならず演奏する一曲だよ。
―なるほど。「レペゼンDC」的な曲なんですね。ところで、ブラックバーズってドナルド・バードの作品と比べられることが多いと思うんですが、確実にブラックバーズにしかない個性があって、だから大ヒットも生んだと思うんですよ。自分たちの独自性ってどんなところだと思いますか?
キース:ドナルドの活動は、言うまでもなく彼中心のもので、彼のソロ・アーティストとしての才能にフォーカスしていた。一方で僕らは「グループ」を中心に据えたものだった。僕たちは自分たちで書いた曲を歌ってそれをミックスに加えるっていうやり方だから、その点でもドナルドとは異なる独自性を持っていた。そこは大きな違いだったと思うよ。
ジョー:もう一つには、キースとオーヴィル・サンダース(Gt)は高校時代から一緒にプレイしていた。お互いのことがよくわかってるんだ。つまり、ブラックバーズは同じ時間を過ごし、一緒に音楽をやってきた関係が発展して生まれたグループだった。みんなでいろんな経験を共有してきたことでぼくらは共に成長した。だから、自然とグルーヴするんだ。
―最後に、来日公演はどんなライブになりそうですか?
キース:いろんなアルバムから曲をセレクトしてプレイする予定だよ。今年は『City Life』リリース50周年の年でもあるから、もちろんあのアルバムからもやるしね。あと、自分たちの曲だけじゃなくて、ドナルド・バードの曲もやるよ。オリジナルのサウンドを基盤に、このメンバーによるサウンドを発展させている。僕が考えているのはできる限りオリジナルに忠実なサウンドを実現するということ。本物のサウンドを届けたいと思っているから。あと、2012年にリリースした『Gotta Fly』からの曲もある。とにかくセットリストに入れたい曲は山ほどあるんだ。「え、これブラックバーズの曲だったんだ?!」って発見もできると思う。楽しみにしてほしい。
The Blackbyrds 来日公演
2025年7月1日(火)・2日(水)ビルボードライブ東京(東京)
1stステージ:開場 16:30/開演 17:30
2ndステージ:開場 19:30/開演 20:30
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【Billboard Live注目公演】
パトリース・ラッシェン
「Forget Me Nots」など数々の名曲で知られ、ジャズ、R&B、ポップスを融合した独自のサウンドで70~80年代にヒットを連発。スティーヴィー・ワンダーやハービー・ハンコックらにも愛されてきた彼女のステージをお見逃しなく(※最新インタビューを後日掲載予定)
2025年7月4日(金)・6日(日)ビルボードライブ東京
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2025年7月7日(月)ビルボードライブ横浜
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2025年7月9日(水)ビルボードライブ大阪
>>>詳細・チケット購入はこちら
「Do It Fluid」「Walking in Rhythm」「Rock Creek Park」といった名曲は師匠のドナルド・バードよりも人気を博した。その後、80年代にはブリットファンクやアシッドジャズにも影響を与え、ヒップホップにおいては幾度となくサンプリングされた。ブラックバーズはクラブジャズやレアグルーヴを語るのには避けては通れない重要バンドだ。
そんな名グループが、7月1日・2日にビルボードライブ東京で来日公演を行なう。それを機に彼らの伝説的な70年代の名盤について話を聞くことができた。取材を受けてくれたのはキース・キルゴー(Dr,Vo)とジョー・ホール(Ba, Vo)。キースはドナルド・バードの傑作『Black Byrd』や、2022年にリリースされて話題を呼んだ彼の発掘音源『Cookin' With Blue Note At Montreux』でも起用されていた、ドナルドのキャリアに密に関わったキーパーソンだ。
彼らがブラックバーズのことだけでなく、ドナルド・バードとの関係から、ハワード大学でのエピソードまで聴かせてくれた。ハワード大学はダニー・ハサウェイやロバータ・フラック、リロイ・ハトソンも通っていて、その時の彼を指導したのもまたドナルド・バードだった。そんなアメリカのソウルやジャズの歴史を読み解くための貴重な情報としても読んでもらえたらと思う。
ハワード大学で学んだこと
―ブラックバーズのメンバーは黒人大学のハワード大学の卒業生だと思います。ここでの経験について聞かせてください。
ジョー:音楽学部が属していたファインアーツ(純粋芸術)学部の建物の地下に練習部屋があってね。当時、ぼくらはほとんどの時間をそこで過ごしていたんだ。閉館時間を過ぎても、上の階の教室に集まって、朝日が登るまでみんなでジャム・セッションの日々だった。建物のどこかでは常に誰かが練習する音が聞こえていたから、ごく普通のことだった。ボーカルの子達がウォーム・アップをしていたり、ぼくがベースを練習していたり、廊下の向こうからケヴィン・トニー(ブラックバーズの鍵盤奏者、2024年死去)のピアノが聞こえてきたりね。だからすごくいいコミュニティみたいな雰囲気だったよ。とにかく放課後の活動はたくさんあったけど、日中の講義なんかはごく普通だった。教授の出す課題には順応する必要はあったけどね(笑)。
キース:そもそも僕は別の大学に通っていたんだけど、ドナルド・バードに会ってあいさつした時に「なんで君はハワードに通ってないんだ?」って言われてね。それでハワードに入った。キャリアを通じて、彼が常に大切にしていたのは教育と音楽だった。そんな彼から学べる環境にいたことは特殊だったと思う。
常に宿題もあったよ。僕らは一緒にツアーに出てギグしてただけじゃない。記譜の課題もあった。ドラマーがサックスのソロ・パートを採譜したり、サックスがドラムソロを書いたりね。ウォームアップにはバッハの4声コラールをやった。とにかく勉強漬けの日々だったよ。ドナルドは常に僕たちの先生って立場だったんだ。
―ドナルドから学んだことをもう少し詳しく教えてください。
キース:まず彼は、常に聴く体勢だったっていうこと。常に新しいアイデアや流行っていることをチェックして、新しいアーティストを探していた。演奏しているのが誰であってもその音楽にじっくり耳を傾けていた。あとぼくら全員、とにかく練習しなければいけないってことを彼から教え込まれた。
一に練習、二に練習ってね。それは間違いなく叩き込まれたよ。
そして、「音楽的な能力を幅広く探求すること」――つまり、作曲のしかた、楽譜の書き方、楽曲の構造の分析方法なども学ばされた。ドナルドはパリでナディア・ブーランジェ(※レナード・バーンスタイン、エグベルト・ジスモンチ、アストル・ピアソラらを指導した作曲家)に師事していたんだ。クインシー・ジョーンズも彼女から学んでいる。ブーランジェは理論の教師だったから、バードの教育も音楽理論にすごく重きを置いてたんだ。だからスクリャービン・コード(=神秘和音/Mystic Chord)が何かわかっていなきゃいけない。だから、ドナルドは理論には厳しかったよ。スクリャービン・コードはジャズでは四度堆積コードを指すよね。それを使ったソロの取り方も学んだよ。ドナルドはとにかくいろんなアプローチを生み出していた。
あと、彼からは音楽ビジネスについても多くを学んだ。
自分の印税の管理の仕方や、それがどこで管理されているかを確認する方法、自分の出版をどうコントロールするのか。この業界で継続して稼いでいく方法の複雑さなんかについてね。正しくやれば、年齢を重ねてもずっと生計を立てることができるっていうこと。これはドナルドから学ぶことができた重要な側面だった。ミュージシャンだって稼ぎがないとね。音楽をやるのは素晴らしいことだよ、でも家族と共に生活できないとどうしようもない。ミュージシャンだって、父親であり、一家の大黒柱であり、ビジネスマンでもあるんだ。
代表曲のひとつ「Mysterious Vibes」、1977年のアルバム『Action』収録
―当時のハワードではまだプログラムの多くがクラシック音楽寄りで、ジャズやソウルやファンクを教える仕組みは整っていなかったと思います。
キース:当時の大学におけるブラック・ミュージックって、レオンティン・プライス(※アフリカ系アメリカ人の世界的オペラ歌手)みたいなクラシック音楽のアーティストが学ぶようなプログラムだった。言うまでもないけど、僕たちが求めていたのはそういうものではなかった。誤解のないように言っとくと、僕はクラシックは好きなんだ。モーツァルトとかベートーヴェンとかね。
でも僕に言わせるとモンクやコルトレーンだって、彼らと引けを取らないクラシック・アーティストだよ。
あと思い出すのは、僕は打楽器科だったんだけど、4年生の時のリサイタルでハイドンの曲をヴィブラフォンで演奏しなければいけなくて、ほんとにつらかった。適当に終わらせた後、ステージに戻ってモンクの「Round Midnight」で〆たから、たぶんなんとかなったけどね(笑)。
ジョー:実は僕の母も1930年代にハワード大学に通っていたんだけど、当時はキャンパスでジャズは禁じられていたそうだ。母はクラシックのボーカリストとして学んでいて、必然的に授業の内容もクラシックを基盤にしたものだった。でも僕の時代は両方あった。ジャズに関してはハワード大学にはドナルド・バードがいて、彼がジャズ学部を統括していた。だから僕が通っていた頃には学内でジャズ・バンドは定着していた。夜のジャム・セッションも可能だった。ジャムにはクラシックの学生も参加してたのを覚えているよ。
僕らはみんな共通して「自分はジャズをやりたいんだ。」って強く思っていた。でも、大学ではどの楽器を選択してもその指導を担当するのはクラシックの先生だった。
その反面、放課後に教室で繰り広げられるジャム・セッションや個人練習の時間には、クラシック以外の音楽も自由にやることができたんだ。僕らはそうやって自分自身で学んでいった。当時の人気アーティストは手当たり次第に聴いて研究したよ。フレディー・ハバードやマイルス・デイヴィスが新譜を出したら必ずチェックしていたし、みんな自分もあんな風に演奏したいって必死でコピーしていた。大学の講義で学んだことはあまりないけど、彼らのようなアーティストの才能には圧倒されて、自分もそんなテクニックを身につけたいって願って、練習したんだ。
―大学ではなくて、自分たちでジャズやソウルやファンクを身に着けたと。
キース:そもそも、そういう音楽は学ぶよりも体験するものだから。「ファンクの授業」なんて言葉は聞こえはいいけど、そういうもんじゃない。大事なのは、その音楽に触れること。僕の例で言うと、僕の年上のいとこたちはみんな女子でね、土曜日になると集まってお互いの髪の毛を編んだりしてたんだけど、その時にはいつもモータウンがかかっていた。それに合わせてみんなでダンスしたもんだよ。僕は一番末っ子だったから、彼女たちのダンスの相手をしたんだ。スモーキー・ロビンソンを知ったのは彼女たちのおかげだ。
もう一つ忘れられないのは若い頃、ハワード大学の劇場でジェームス・ブラウンとマイルス・デイヴィスの両方を観たんだ。その二つの対バンなんて今じゃ信じられないよね。マイルスのバンドにはコルトレーンやキャノンボール・アダレイがいた(『Kind of Blue』のメンバー)。JBのバンドにもメイシオ・パーカーをはじめとした錚々たるミュージシャンが揃っていた。結局ね、歴史を振り返るとそういったミュージシャンたちってみんな同じなんだ。どんなジャンルの音楽でもGコードはG、というのが僕の考え方だ。違うのはそれをどう感じるか、それをどこに入れるかで、そのGの音色や音価自体は同じ。JBだって、他のミュージシャンのスタイルを取り入れていた。JBは「Super Bad」で〈Blow me some Trane, brother!〉って叫んでる。それにヴァンプを生み出したのはコルトレーンだ。「Acknowledgement」での〈Dom, dom, ding, ding, dom, dom, ding, ding〉(※コルトレーンがA Love Supremeと歌ってる箇所)って部分ね。あれはファンクそのものだよ。当時のミュージシャン同士って、今のような目に見える交流はしていなかったから、世間の認識では「これはジャズ、ああいう感じはファンク」って区別されていた。ところが実際には、みんな同じことをしていたんだ。歌か演奏かだけの違いみたいなもの。僕はそう分析してるんだ。
「Super Bad」で〈Blow me some Trane, brother!〉って叫んでるのは4:20ごろ
ドナルド・バードとの出会いと結成秘話
―ドナルド・バードが1973年に発表したアルバム『Black Byrd』は、ジャズとファンクを融合させた作品として高い評価を受けました。このアルバムに、キースさんも参加されていましたよね。
キース:元々『Black Byrd』に収録された曲はジャズ・トランペッターのリー・モーガンのために書かれたものだった。ところが彼は、残念なことに1972年にNYで殺されてしまった。だから、ほとんどの曲はリーが亡くなった頃には録音が終わってほぼ完成していた。ピアノを担当したのはクルセイダーズのジョー・サンプル。他にはウィルトン・フェルダーやチャック・レイニー、ハーヴィー・メイソンが参加していた。当時彼らはみんなモータウンでも演奏していた一流のスタジオ・ミュージシャンだった。プロデューサーはラリー・マイゼル。
マイゼルのスタイルは、ミュージシャンにあれこれ考える余裕を与えないんだ。ただ「その音楽を演奏する」ことに集中させられる。正直に言うと、あの頃、演奏してた曲の多くは、僕ら自身、現場では何をやってるのかよくわかってなかった(笑)。
―どういうことですか?
キース:スタジオに入ると、まずグルーヴが始まる。そこに僕はドラムビートを重ねていく。すると突然、マイゼルがカードを出すんだ。「Bに行け」って書かれたカードをね。「B? Bって何だろ?」「(その場で考え出した演奏をしてみてると)ああ、これがBかも。やあB、調子どうだ?」って感じでふさわしいアイデアが出てくる(笑)。そうやって即興で曲を作っていった。そんな方法を可能にしていたのは、全員が持っていた”経験”だったんだ。チャック・レイニーなんて、ジェームス・ジェマーソンみたいな超一流のオールドスクール・プレイヤーだったわけだからね。
―全員で即興的にいろんな演奏をして、それを録音して、後で編集したら曲ができるってことですか。
キース:そうそう、あのレコードの録音では、最初はドラムが入ってなかった。代わりにドラムマシンが使われていた。そこで後からハーヴィー・メイソンが呼ばれて、すべての曲をクリック・トラックに合わせて叩いたんだ。「Slop Jar Blues」「Black Byrd」「Flight Time」とか、全部そう。
―いわゆるジャズの録音とは全く違うやり方で作られていたんですね
で、マイゼルはそんな曲の中で”(リー・モーガンみたいに)ソロ演奏が上手い人”を探していた。それがドナルド・バードだったってわけ。そうやって『Black Byrd』が生まれ、そして、そこに参加していた僕たちはその後、ブラックバーズになったんだ。
キース・キルゴーが参加した、ドナルド・バード「Black Byrd」の1973年ライブ映像
―ブラックバーズの結成の経緯についてもう少し聞かせてもらえますか?
キース:まず背景として、当時ブルーノート・レコードは瀕死の状態だった(※1966年に米リバティー・レコードに買収され、創業者が経営から離脱。1970年にオフィスをNYからLAに移転。1979年にレーベルは事実上休止)。ヒット曲も出せず、売れてるアーティストもいなかった。そんなレーベルを救ったのが、僕たちが参加したアルバム『Black Byrd』だった。
グループの名前はみんなで決めたんだ。その頃、プロデューサーのオリン・キープニュースが若手のグループを探していた。僕たちはブラックバーズの名前が付く前から、ドナルドとずっと一緒にプレイしていた。ドナルドの『Cookin' With Blue Note At Montreux』はまさにぼくたちのグループとしての活動が始動した頃の録音なんだ。当時は編成によってドナルド・バード・セプテットとか、ドナルド・バード・カルテットって呼ばれていたね。そんな僕らのライブを観たレコード会社が「こいつらはすごいぞ、もしかしたらいけるかもしれない」って言いだして、ファンタジー・レコーズと契約できることになったんだ。
規格外のデビューと音楽的冒険
―1974年にはデビュー作『The Blackbyrds』がリリースされます。どんな作品にしようと制作したものですか?
キース:あの頃の僕らはただ祈るしかなかった(笑)。右も左もわからない状態だったからね。カリフォルニアのスタジオに向かっていたらドナルドから電話があって、電話越しにいきなりベース・ラインを歌われたんだけど、僕にはなんのことやら意味不明だったこともあったね。このアルバムはドナルドにとって初のプロデュース作で、スタジオにはラリーとフォンスのマイゼル兄弟もいた。一曲ずつ録っていったんだけど、僕らは一切質問もせず、淡々と「オッケー、録るよ」って感じで演奏したんだ。1カ月くらいカリフォルニアにいたんだけど、ある日、ドナルドから「誰かにこれを歌って欲しいんだ」って言われたんだ。その後、彼が歌詞を持ってきたんだけど、どう考えても言葉が多すぎるよねってなって、それをバンドのみんなでスケールダウンして完成したのが「Do It Fluid」。歌は僕が担当した。とても歌ってるとは言えないレベルだけど(笑)。父がそれを聴いて「何の特徴もないボーカルだな」って言ってくれた(笑)。まあ、そんなふうにできたアルバムなんだ。
―何もわからないまま作って、あのアルバムができたんですか。信じられない。
キース:あのアルバムは発売最初の週だけで125,000枚売れたんだ。あの当時、ジャズのグループのアルバムではあり得ない枚数だった。びっくりだったよ。その頃のぼくらはそういったことも含め、音楽業界のあらゆることに世間知らずで、セールスのことなんて考えてもいなかった。もっとうまく演奏して、もっといい曲を書く、そんなことしか考えていなかった。常に心は学ぶ立場。つまり僕らはマインドも学生だったんだよ。移動だって自分たちでトラックを運転してたし、ツアー中の部屋だって3人で一部屋をシェア。床で寝たこともあるしね。僕たちは音楽だけを追い求めていたんだ。
―同年に2作目の『Flying Start』を発表して、こちらも大ヒットしましたよね。
ジョー:この頃の僕らの状況はアルバムのタイトル通り。知名度も上がって、色々なところでライブをするようにもなっていた。「Walking In Rhythm」が思いがけず大ヒットしたことで、気づいたら人気が出てライブも増えて、更にいろんなことが動き出したんだ。
キース:僕らのアルバムの中で最もプログレッシブな作品の一つだったよね。おとなしい曲なんかなくて、ぶっ飛んでて、あのアルバムはヤバいんだ(笑)。でも、僕らはあの方向性に確信を持っていた。外野の評価を気にせず、とにかくプレイした。結果的にブラックバーズ史上、最もジャジーな作品になったんだ。
―「Walking In Rhythm」に関して何かエピソードはありますか?
ジョー:あの曲に初めて取り掛かった時、弾き始めたのはギターのバーニー・ペリーだった。一部アレンジを変えたりしたけど、曲のメインの部分は当初のアイデアをそのまま採用してる。それがたまたま大ヒットになったんだよね。
キース:そうそう。最初はどんな曲がどう仕上がるのかまったく想像がつかなかった。リリース後のある日、友達のドラマーのビリー・ハートから電話がかかってきて「お前、どうしたんだ?あの曲にボサノヴァのビート乗せてるけど(笑)」って言われたんだ。あの時はあれがボサノヴァのビートだったことさえ自分にはわからなかった。なぜかそうなってたんだ(笑)。全員のエネルギーが一点に集中されていた中で、僕はしっくりくるあのビートを自然に刻んでいたんだ。本気で取り組んでたら、あの優しさ、あの空気感が出たんだ。音楽って「体験」なんだよ。この曲もまさにそうだった。録音が終わったあと、僕たちはすぐに次に頭を切り替えてたから、当時はあの曲が何になるかなんて考えてなかった。だから今でも聴き返すと、「え、俺たちこんな演奏してたの?」って驚くんだ(笑)。
―「Blackbyrds Theme」には3人が作曲でクレジットされています。その中にはジョーさんも含まれています。この曲はどのように書かれたんですか?
ジョー:なんとなく弾き始めて出来上がった曲だったと思う。なぜかアラン・バーンズ(ザ・ブラックバーズのサックス/フルート奏者、2016年死去)はこの曲をすごく毛嫌いしていたのを憶えてるよ(笑)。でもこの曲自体、すごくエネルギーに溢れててアップテンポで、それほど複雑ではないから、プレイしていて楽しい曲なんだ。グルーヴしながらプレイして、ホーンの旋律を加えていったらうまくまとまったんだ。ジャム・セッションを基にそれを仕上げた曲だね。
『City Life』が50年後も愛される理由
―その後、1975年に『City Life』を発表します。名曲「Rock Creek Park」が収録されています。
ジョー:あのアルバムが出た頃にはぼくたちも少しは洗練されていた。「Rock Creek Park」に関して言うと、あの曲は全員が少しずつ貢献して出来上がった曲だね。サウンドチェックの時になんとなくプレイしていたところから始まって、それが形になった。アルバムのテーマは「都会の生活」。僕らが通っていたハワード大学のキャンパスがあった街のことを書いたんだ。
キース:当時よくドナルドから「まだ誰も来ていない早い時間にライブ会場に来い」って言われてたんだ。まだスタッフが掃除をしているような時間にね。そして、そこにテープレコーダーを持って行くんだ。ドナルドは「とにかく演奏をたくさん録音しておけ」って僕らを指導していたんだ。あの時、ベースのジョーがドラムを叩いて、ドラムの僕がベースを弾いてふざけていたんだよね。でも、僕らの曲っていつもそんな瞬間から生まれる。「うわ、今のいいじゃん」ってね。そして、その録音を持ってスタジオに入って磨きをかけるんだ。
―「Rock Creek Park」では作曲のクレジットにメンバー5人の名前がありますよね。その辺をもう少し聞かせてもらえますか?
キース:あの曲はすごく単純な曲なんだよね。単なるヴァンプで出来てるし、そこに「なんの特徴もないボーカル」が乗ってる。みんなで「ウー」「アー」とか言ってるだけ(笑)。でも、それこそがアートのマジックなんだ。完璧を目指して頑張り過ぎたことで外してしまうことも多いしね。逆にすっごくバカバカしいことをした時にそれが最高の結果を生むこともある。「Rock Creek Park」ではなぜかすべての要素がバシッとハマって、あの感じが生まれたんだ。
―タイトルって実在する公園のことですよね。
キース:そう。僕はまさにRock Creek Park(ロック・クリーク公園)の近所で育ったんだ。あの公園から1ブロックのところに住んでいたんだよ。
ジョー:で、ぼくは2ブロック先に住んでた(笑)。ぼくらにとっては子供の頃によく行った場所の歌。公園でおたまじゃくしやカエルを捕まえてたし、大人になってからも車で行ってのんびり過ごす場所なんだよね。
キース:だから、「Rock Creek Park」は僕らにとってのワシントンD.C.を象徴する曲なんだ。どこで演奏していても、あの曲でオーディエンスにワシントンD.C.を届けることができると思っている。だからどこに行ってもかならず演奏する一曲だよ。
―なるほど。「レペゼンDC」的な曲なんですね。ところで、ブラックバーズってドナルド・バードの作品と比べられることが多いと思うんですが、確実にブラックバーズにしかない個性があって、だから大ヒットも生んだと思うんですよ。自分たちの独自性ってどんなところだと思いますか?
キース:ドナルドの活動は、言うまでもなく彼中心のもので、彼のソロ・アーティストとしての才能にフォーカスしていた。一方で僕らは「グループ」を中心に据えたものだった。僕たちは自分たちで書いた曲を歌ってそれをミックスに加えるっていうやり方だから、その点でもドナルドとは異なる独自性を持っていた。そこは大きな違いだったと思うよ。
ジョー:もう一つには、キースとオーヴィル・サンダース(Gt)は高校時代から一緒にプレイしていた。お互いのことがよくわかってるんだ。つまり、ブラックバーズは同じ時間を過ごし、一緒に音楽をやってきた関係が発展して生まれたグループだった。みんなでいろんな経験を共有してきたことでぼくらは共に成長した。だから、自然とグルーヴするんだ。
―最後に、来日公演はどんなライブになりそうですか?
キース:いろんなアルバムから曲をセレクトしてプレイする予定だよ。今年は『City Life』リリース50周年の年でもあるから、もちろんあのアルバムからもやるしね。あと、自分たちの曲だけじゃなくて、ドナルド・バードの曲もやるよ。オリジナルのサウンドを基盤に、このメンバーによるサウンドを発展させている。僕が考えているのはできる限りオリジナルに忠実なサウンドを実現するということ。本物のサウンドを届けたいと思っているから。あと、2012年にリリースした『Gotta Fly』からの曲もある。とにかくセットリストに入れたい曲は山ほどあるんだ。「え、これブラックバーズの曲だったんだ?!」って発見もできると思う。楽しみにしてほしい。

The Blackbyrds 来日公演
2025年7月1日(火)・2日(水)ビルボードライブ東京(東京)
1stステージ:開場 16:30/開演 17:30
2ndステージ:開場 19:30/開演 20:30
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【Billboard Live注目公演】
パトリース・ラッシェン
「Forget Me Nots」など数々の名曲で知られ、ジャズ、R&B、ポップスを融合した独自のサウンドで70~80年代にヒットを連発。スティーヴィー・ワンダーやハービー・ハンコックらにも愛されてきた彼女のステージをお見逃しなく(※最新インタビューを後日掲載予定)
2025年7月4日(金)・6日(日)ビルボードライブ東京
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2025年7月7日(月)ビルボードライブ横浜
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2025年7月9日(水)ビルボードライブ大阪
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