1952年に北朝鮮から8人の若者がモスクワ国立映画大学に留学した。だが、彼らは北朝鮮に帰らず、当時の金日成首相を批判して、エリートとしての約束された将来を捨てて、1958年にソ連に亡命し、広大なユーラシア大陸に移り住んだ。
『さらばわが愛、北朝鮮』は、それから50年以上にわたり、カザフスタンを始めとするユーラシアの各地で、ある者は映画監督として、ある者は作家として活動した彼らのその後を追ったドキュメンタリー映画である。 彼らのうちの3名はカザフスタンとソ連で映画製作者となった。キム・ジョンフンはカザフスタンで、特殊効果の専門家となり、チェ・グギンは “The Year of The Dragon” (1980年①)で、高く評価される映画監督としての地位を確立し、ウイグルのレジスタンス運動に結束を呼びかけた。ハン・ジン(後に改名してハン・デヨン)は、中央アジアに居住する朝鮮民族のための劇場、“高麗劇場”の作家となった。彼は1993年に亡くなっているが、本作では、彼のロシア人妻がインタビューに答えている。
1950年代に北朝鮮からモスクワへ・・映画を志した若者たち 映画『さらばわが愛、北朝鮮』公開決定!
監督のことば 半世紀以上の間に北朝鮮からソ連へ亡命し、中央アジアへと移動した8名に会い、その足跡をたどるのは確かに困難なことだった。
彼らは北朝鮮出身の若いエリートで、1950年代の多くをモスクワ映画大学で学んでいた。金日成を批判しソビエト連邦へ亡命した後、彼らは新たな仕事と家を探すのにたいへん苦労した。幾人かは映画監督、撮影監督、作家として名を上げた。他の人たちは貧しく死んだか、無名に終わった。このドキュメンタリーは、亡くなった人々を目覚めさせ、様々な方法で彼らに人生を語らせることとなるだろう。 製作に着手した際、8名のうち7名がすでに亡くなっていた。
撮影当時の生存者はただ一人が最後のサバイバーであり、朝鮮戦争、南北朝鮮分断、金日成、そしてスターリンの目撃者でもある。彼らは、未だ語られない歴史についての生身のアーカイブである。中央アジアの広大な風景に対抗してアーカイブを収集することは、残された世界で共鳴する声と出会うために、権力に抵抗した若者たちの手法を考察することになるだろう。 これはユーラシア大陸をめぐる大きな敗北と小さな勝利についての壮大な物語である。南北朝鮮分断と再統合についての考察を迫るだろう。
1950年代に北朝鮮からモスクワへ・・映画を志した若者たち 映画『さらばわが愛、北朝鮮』公開決定!
亡命した8名について ・キム・ジョンフン 映画監督。
黄海道(ファンヘド)(夢金浦(モンガンポ)のある長淵(チャンヨン)郡)出身。大学では物理数学部で勉強し、朝鮮戦争では迫撃砲中隊小隊長として戦う。亡命後、北極海に近いムルマンスクに分散移住させられた。その後ハン・デヨン、チェ・グギン、ヤン・ウィンシクとともにカザフスタン南部のアルマトイに定住し、カザフフィルムの特殊効果部門に配属。韓国公開時の唯一の生存者。 ・チェ・グギン(1926~2015) 映画監督。
8真では最年長。1934年両親と中国に移住し人民解放軍に入隊、1948年に北朝鮮に戻り、平壌映画撮影所で北朝鮮で初めて製作された「わが故郷」で俳優デビュー。1953年に留学し、亡命後カザフスタン南部アルマトイに移住しカザフフィルムの劇映画部門に配属、「龍の年」でアサナリ・アシモフとともに共同監督を務め、1987年「チョカン・ワリハーノフ」で芸術・文化部門国家賞を受賞。本作最後のインタビューを終えた後、2015年5月に死去した。ハン・デヨンの「38度線」の映画化を望んだが叶わなかった。 ・ハン・デヨン(ハン・ジン)(1931~93) 金日成総合大学外国語文学部でロシア語を勉強していたため留学生たちに授業内容を朝鮮語に翻訳していた。
亡命後、モスクワ・カザン駅で休暇でモスクワに来ていたロシア人女性ジナイダ・イワノフナと出会い、1959年結婚、1960年には第一子アンドレイが生まれた。テレビ局に勤めたが、規制の多いテレビに不満を抱き辞職。カザフスタン・クズロルダでレーニン・キチ新聞社(現・高麗日報)に文芸部の記者として入社し執筆活動を始める。1962年に短編小説「ムクドリ」を発表、「肖像画」などの小説を世に送り出し、高麗人2世の文学をリードした。1946年「継母」の公演を機に高麗劇場に加わり、劇場の文芸部長に任命された。その後も作家生活をしながら多くの作品を創作した。
・リ・ギョンジン(1930~2002) 1958年に8月に一時居住証が与えられたのち、モスクワ近郊へ分散移住させられた。ロシアで死去。 ・ホ・ウンベ(1928~97) 義兵運動で知られたホ・ウィ(許蔿)将軍の孫である。映画大学シナリオ科に通う学生であったが、1957年11月27日、モスクワで開かれた朝鮮留学生大会に参加し、金日成の個人崇拝を批判して行方をくらました。大使館の追跡と説得によって、自主的に大使館に戻ったが、すぐに監禁されてしまった。大使館のトイレの窓から逃げ、地下鉄に飛び込んで駅員に助けを請うた。ソ連当局に引き渡され、医科大学に留学していた恋人(チェ・ソノク)と一緒に亡命した。1982年、イム・ウン(林隠)名義で『北朝鮮王朝成立秘史―金日成正伝』を出版、在ロシア高麗人協会会長や高麗日報会長を務めた。1997年モスクワで持病により死去。 ・チョン・リング(1931~2004) 1958年に8月に一時居住証が与えられたのち、中央シベリアのイルクーツクへ分散移住させられた。ロシアで死去。 ・リ・ジンファン(1933~2005) 1958年に8月に一時居住証が与えられたのち、ウクライナのドネツクへ分散移住させられた。ロシアで死去。 ・ヤン・ウォンシク(1932~2006) 1958年に8月に一時居住証が与えられたのち、ロシア・スターリングラードへ分散移住させられた。その後ハン・デヨン、チェ・グギン、キム・ジョンフンとともにカザフスタン南部のアルマトイに定住し、カザフフィルムのドキュメンタリー部門に配属。ドキュメンタリー映画を監督し国際的にも高い評価を得た。またカザフスタン高麗日報のハングル版の主筆を務めたが、2006年にカザフスタンのアルマトイで暴漢に刺殺され死亡した。
1950年代に北朝鮮からモスクワへ・・映画を志した若者たち 映画『さらばわが愛、北朝鮮』公開決定!

人が生まれた場所は故郷と呼ばれるが、骨を埋める地は何というのか 石坂健治

1950年代に北朝鮮からモスクワへ・・映画を志した若者たち 映画『さらばわが愛、北朝鮮』公開決定!
 朝鮮戦争中、北朝鮮からモスクワに留学した8人の青年たちがいた。全ソ国立映画大学で勉強していた彼らは、1956年の宗派事件をきっかけに金日成体制を批判してソ連に亡命した。  『さらばわが愛、北朝鮮』は、映画制作と映画研究の両分野でキャリアを重ねているキム・ソヨン(金素榮)が監督したドキュメンタリーである。ポストコロニアリズムやジェンダー論の位相から韓国映画史を読み直す著作で注目された彼女は、映画作家としては連作ドキュメンタリー「女性史三部作」(2000~04)や劇映画『ビューファインダー』(2010)を発表。本作はそれらに続く「亡命三部作」(2014~19)の第3部(完結篇)にあたる。  「亡命三部作」は「高麗」と呼ばれた朝鮮人集団移住者を取材した連作だが、その掉尾を飾る本作は、建国間もない時期に北朝鮮から全ソ国立映画大学(VGIK)に留学しながらソ連に亡命・帰化し、カザフスタンで映画その他の文化活動に従事した元留学生たちに焦点を当てている。1919年に創立された名門映画学校に学び、帰国後の要職も約束されていたであろうエリート映画学徒たちは、なぜ祖国を捨てる決断を自らに下したのか。その問いが3人の人物のへのインタビューとともに展開していく。  まず撮影監督のキム・ジョングン。スターリン批判から派生した北朝鮮の内紛、いわゆる宗派事件により社会主義陣営でありながら両国の関係は一気に悪化し、モスクワ留学中の映画学徒らにも大使館より帰国命令が下る。しかし彼らは金日成批判へと舵を切り亡命を決意。森で野宿しながら最高権力者フルシチョフに滞在許可の嘆願書を送り、認められることとなった。  次に留学生の中で最もロシア語が堪能だった故ハン・デヨン(ハン・ジン/作家・脚本家・劇作家)の妻ジナイダ・イワノフナが夫の思い出を語る。カザフに移ったハンはアルマトイの「高麗劇場」で座付き作家となり、同胞向けに朝鮮の伝統的な題材で芝居を打ち、人気を博したという。  そしてカザフフィルム撮影所に籍を置いた監督チェ・グギン。中国育ちを買われて撮った旧満洲が舞台の『龍の年』が大ヒットして数々の受賞を重ねた。「今まで朝鮮民族のために何一つしていない」と呟く老監督は、インタビューののち2015年に逝去した。  全篇を貫く命題として「人が生まれた場所は故郷と呼ばれるが、骨を埋める地は何というのか」という字幕画面が登場する。故郷の喪失と望郷の思いに引き裂かれた映画人たちが、異郷の人々のために映画をつくる。カザフフィルムで「高麗」たちが制作した「カザフスタン人のための映画」に作り手は何を籠め、私たちは何を読み取るべきだろう。  逆説めくが、証言者たちの語りは"語られていないこと"への関心を否応なく喚起する。「モスクワ8真」の他のメンバーはどんな人生を歩んだのだろう。祖国に住む亡命者の家族はどんな運命をたどったのだろう。キム・ソヨン監督の今後の仕事を刮目して見たい。