セルジオ越後が全国高校サッカー選手権を振り返る「100回大会...の画像はこちら >>

50年前に来日して最初に高校選手権を見たときはその人気ぶりに驚かされたと語るセルジオ越後氏

青森山田が強かったね。決勝では大津に何もさせなかった。

選手はみんな体ががっちりしていて、準決勝から中1日でも最後まで運動量が落ちなかった。単に優れた選手が集まっているのではなく、よい環境の下しっかりトレーニングを積んできた証拠だと思う。

一方の大津も公立なのによく決勝まで勝ち上がってきた。ただ、青森山田に比べればやはり全体的に小柄でフィジカル的にも劣っていた。今の時代に公立が私立に勝つのは至難の業だとあらためて実感したよ。

100回目を迎えた全国高校サッカー選手権は、関東第一が準決勝を辞退するなどコロナの影響でいろいろ大変だったけど、最後まで大会を終えられてよかった。

振り返れば、50年前に来日して最初に高校選手権を見たときはその人気ぶりに驚かされた。僕のプレーする日本リーグはテレビ中継もなく、観客席もガラガラ。ところが、高校選手権はテレビ中継があり、お客さんもたくさん入っている。普通は逆でしょ。不思議な国だと思ったね。

でも、当時の日本にはプロリーグがなく、海外でプレーする選手もいなかった。

だから、サッカーをやっている子供たちにとっての目標や夢は、高校選手権に出て国立競技場でプレーすることだったんだ。Jリーグ誕生以前は、高校選手権が間違いなく日本のサッカーの中心で、実際に大きな役割を果たしてきたと思う。

僕も現役引退後にテレビ中継の解説をやらせてもらうようになり、印象に残っているシーンはたくさんある。

なかでも強烈なのは、韮崎の羽中田 昌(59回大会から3年連続出場)。スピードも技術もあって1年時にベスト4、2年時に準優勝。3年時には誰もが「羽中田の大会になる」と思っていた。

ところが腎臓病を患い、選手権直前に医師から「1試合に15分以上プレーしない」を条件にようやく復帰を認められたんだ。なんとか勝ち上がった決勝の相手は清水東。前半で3点リードされた韮崎は、後半早めに羽中田を投入した。

あのときの国立の雰囲気は鳥肌もの。彼がボールに触るだけで拍手や歓声が湧き起こり、一気に韮崎の押せ押せムードになった。結局、試合には負けたんだけど、あれほど盛り上がった試合はあまり記憶にないね。

そのほかにも、5-4という大接戦になった55回大会決勝の浦和南vs静岡学園、小倉隆史と松波正信の両エースが活躍して両校優勝となった70回大会決勝の四日市中央工業vs帝京、大雪の中で素晴らしいプレーを見せてくれた76回大会決勝の東福岡vs帝京など、名勝負も挙げればきりがない。

また、名監督ということで、今大会期間中に亡くなった長崎総科大附の小嶺忠敏(こみね・ただとし)監督についてもぜひ触れておきたい。

彼とは同い年で、僕が日本リーグのチームのコーチをしていたとき、島原商業の監督だった小嶺さんから「セルジオ君、ウチの練習を見に来てくれないか」と言われ、以降は国見の監督時代も毎年会いに行ったりして交流があったんだ。

小嶺さんは自らマイクロバスを運転して全国各地の強豪に胸を借りるなど、田舎の高校がどうすれば強くなるかを常に考え、努力と工夫で個性のある選手をたくさん育ててきた。僕から見れば侍のような人。間違いなく日本サッカーの礎を築いたひとり。

今はただただ寂しい。心からご冥福をお祈りいたします。

構成/渡辺達也