「果てない夢がちゃんと終りますように 君と好きな人が100年続きますように」(一青窈「ハナミズキ」)
文●川本梅花

〔登場人物〕
ぼく…西村卓朗(Jリーグ大宮アルディージャ所属)
妻…有由

1.心の中でやわらかい場所

 夕べ降りだした雨は、朝になってもやまず昼になっても降り続く。暗い雲から太陽の光は落ちてこなかった。


 雨は降り続いてもせいぜい一日や二日。やがてはやんで黒い空を太陽が突き破るときが訪れる。しかしぼくの今シーズンは、雨期が長く続いて晴天の日がやってくることはなかった。ぼくは、リーグ戦の出場機会ゼロという屈辱を味わう。シーズン開始早々は、まさかこんな状態でシーズンオフにあるクラブとの契約の席に向かうとは想像もしていなかった。

「寒くなったね」

 車の窓越しを見つめながら有由がつぶやいた。
冬間近かの中目黒の十字路を右折して、はじめて二人が出会ったカフェへ車を走らせる。ハンドルを握りながら《もしかしたら有由は、今季の実績のないぼくを選んで、貧乏くじを引かされたと思っているかもしれないな》と、ふと思う。

 駐車場に車を止めてエンジン音を切って、有由におもむろに言葉を投げかける。

「ずっと気になっていたことがあるんだけど……」

「なに?」

「はじめて会った時にさ、『卓朗くんは女の人を幸せにはできないタイプだね』って言ったこと、覚えてる?」

「んん。覚えてる」

「あれは、どういう意味だったかなって」

「わたしは、ファーストインスピレーションでこの人だと思ったら、ものすごく相手に攻撃的な発言をするタイプなの。逆に、はじめにこの人はダメだと思うと退いてしまうタイプ。
むしろ愛想よくするかもしれない」

 と、話して微笑んでから「卓朗くんはサッカーが大好きで大好きで、サッカー以上に好きになれる女の子には出会えないんじゃないのかな、と感じたの。女の子は卓朗くんの中ではサッカー以上の存在になれないんじゃないのかなって思った」と話す。

 確かにぼくは、サッカーを自分の生活の中心に置いて生きてきた。日常で楽しいことがあっても、こうした楽しい時間をサッカーに打ち込む時間に使った方がいいと考える方だ。実際に、サッカーの練習に費やした時間は、ぼくが31年間生きてきた中で相当数を占めた。いや、ほとんどの時間をサッカーのために捧げてきた。
たとえ女の子とデートしたとしても、心から楽しんだことはなかった。誰かと話をしているときも、常にサッカーのことが頭から離れない。

 でも、有由と会って話をしていると、ぼくは自分が自分であるような気持ちにさせられる。《これがぼくなんだ》と自分の存在を感じることができた。有由は、いつもぼくの話に熱心になって耳を傾けてくれる。ただしぼくは、ぼくのすべてであるサッカーの話をほとんどしたことがない。
それでも、ぼくと有由は、顔を合わせるといつも長い時間をかけて語りあう。どれだけ語りあっても、飽きることはなかった。話題が尽きないのだ。ぼくらは、どんな恋人たちよりも熱心に、そして親密に会話を交わした。

 ぼくはより多くのぼくを有由に露出していくことになった。

 ずっと一緒に生きていけたらどんなに素晴らしいことなのだろうか、とぼくはいつも考えるようになる。
ぼくの肌の上に有由の肌の暖かみを感じたかった。もしできるなら彼女と結婚したいと思った。有由といるひとときは、なによりも貴重な時間だった。彼女を前にしていると、ぼくの中にかたくなな心を、一時的にせよ忘れることができた。有由は、ぼくの心のやわらかい場所を広げてくれて、リラックスした深呼吸ができた。

2.はじめて出会った思い出の場所

 狭い階段を登ると分厚いドアが目の前にそびえる。
混雑しているカフェの中でぼくたちが最初に話した座席がなぜか空席だった。ぼくらは引き寄せられるように座席につく。

「お父さんに挨拶をしに行ったとき、『現役でプレーできてもあと5年やれるかどうか。辞めてからどうするのか考えているのか』って聞かれたじゃない。あのときは、教職の免許があるとか指導者の資格があるから将来はいろいろ考えてますと答えたんだけど……」
 と言ってぼくは言葉を詰らせる。

「卓朗くんなら大丈夫。なんとかなるよ」
 有由は笑顔で答える。

「わたしはね、今シーズン卓朗くんが試合に出られなくても『なんとかなる』としょっちゅう言ってるじゃない。わたしあらゆることがらに対して、根拠がない自信というか、とにかく『なんとかなる』と思ちゃうの」

「なんて言うか、申し訳なくてさ。結婚を前にして、こんな不甲斐ない成績じゃ有由に貧乏くじ引かせたみたいで、すまないと思ってる」

「結婚するとなったときに、『わあーい、ずっと一緒にいられる』と思ったの。わたしは、感覚人間なので『あっ、この人だな』って、この人とずっと一緒にいるかなと感じた。いずれは結婚することになるんだろうなと」
 有由の明るさに何度救われたことだろうか。

「もしもね、本当に、本当に、これからもサッカーをやり続けたいんだったら、どんな環境でも、どんなところでも、すがりついてでも、頼みこんででも、やらせてもらえるように頑張らないとね。一度現役を辞めたら戻れないわけだから。卓朗くんは、サッカーが大好きだとわたしにはすごく伝わっているの。大好きなことを職業としてやっていける人は、一握りじゃない。楽しんでやっていてくれたら、横にいるわたしはもっと嬉しい。だから、どこでサッカーをやろうとも一緒に生きていきたいの」

 一気にまくしたてて話す有由に圧倒されるぼくと、なんてくだらないことを話したんだと後悔するぼくとが混在していた。

3.最後まで挑み続けなければいけない場所

 去年の神戸戦は、ぼくの誕生日と重なった。サポーターは記念にといってスタンドに人文字を作ってくれる。監督が代わって最初の試合を迎えて、前日の練習からぼくはサブメンバーだと気づいていたのだが、自分の誕生日にあたる神戸戦だけは、なんとしても出場したいと願った。

 結局、ぼくはベンチからピッチに出ていくことはなかった。

 アパートに帰ると、お気に入りのケーキを買って用意してくれる有由が部屋で待っていてくれた。そして部屋には、ファンからの贈り物と手紙が届けられている。ぼくは彼女にひとことふたこと話してから手紙を読み出す。たくさんのファンからの暖かい声援に、期待に答えられない自分の不甲斐なさを嘆く。あるファンからの一通の手紙に目を通すと、そこに書かれた文章に知らず知らずに涙がとまらなくなる。

〈信じた道を卓朗らしく〉

 物事が、自分のイメージ通りに運ばないことはよくあることだ。《うまくいかないのはなぜなのだろうか》と考えてみて、想定される原因をいくつか口に出して言ってみる。言葉に出していくことで、次第に頭の中で原因が整理される。ぼくは、自分がうまくいかないと思ったときは、いつも自分の中の自分と会話して整理させてきた。怪我をしたとき。退場処分を受けてきたとき。試合に使ってもらえないとき。どんなときでも、サッカーに関して起った問題は、誰にも相談せずに自分の作り出した世界の中だけで解消してきた。

 けれどもいまのぼくは、もう自分1人では収まりがつけられない。

 そんなときに、ぼくは有由と出会った。

 彼女のいいところは、自分の思ったことをはっきり相手に伝えようとすることだ。最初の出会いで、「卓朗くんは女の人を幸せにでいないタイプ」と言われたときもそうなのだが、何か厳しいことを言われても、それによって腹が立つことはなかった。逆に、《面白い子だな》と思う。それは、彼女の言うことがあまりにも核心を突いているからなのかもしれない。

「卓朗くんを見ていて、自分を追いつめるところと自分を開放するところのポイントが私と違うんじゃないかと思っちゃう。ここは人に迷惑をかけていいけど、ここは守りなさいよ、というところが私とは全然違う。だからどうしてそんなところを守ろうとして、周りの人にしわ寄せがきちゃうの? そこは捨ててしまいなさいよ、と感じちゃうことがあるの。たとえば、私は自分では手に負えないことを『できる』とは言わない。できることを100%以上やるから、できないことはできないと言わせて、という感じなの。卓朗くんといるようになって、男の人と女の人の違いがあるのかなって思う」

 女の人にこんなにもズバっと、自分の性格を言い当てられたことはない。それでもぼくにはぼくの理屈というものがあって、このときは一応、彼女に反論してみた。
「サッカーでしか譬えられないんだけれども、いまはできないけれどもいつかできるようになる、と信じてサッカーをやっているんだ。こんなプレーはいまはできないけれども、練習したらいつかはできるようになるってヤツね。だから、人に対しても『それはできない』とは言いたくないんだ。『できない』と言葉にすることで、自分に引導を渡しちゃうようでイヤなんだよ。そのときにできなくても、できるように努力して、できる地点に少しでも近づければいいんじゃないかと思う。だから最初から『自分はできない』とは絶対に言いたくない、というのがあって。ただ、これから一緒に有由と生活していくわけだから……サッカーの日常と家庭での日常は違うから、腹が立つだろうし迷惑もかけてしまうね」

 ぼくは有由と話していると「素直」という言葉の本当の意味を知らされる。

 最初に出会ったカフェで、いまでもこうして2人で話しをしていると、時間の経過を忘れてしまうほどだ。

「明日から朝ご飯キャンペーンを開催しますけど、参加しますか?」
 と唐突に切り出す。
「え、朝ご飯キャンペーンって?大丈夫だよ、ゆっくり眠っていていいよ。朝早いの苦手なんでしょ」
 有由に問いかける。
「『朝の時間は自分のやり方があるから寝てていいよ』って卓朗くん言ってくれたけど、朝起きは全然苦じゃない。《自分のペースを壊されたくないんだな》と思って、出かけるまで寝たフリしていたの」
「そうだったのか」
 とつぶやくよりしょうがなかった。

「そろそろ帰ろうか」と席を立とうとすると、「笑う余裕がなくなった時は、なんにもいいことが起きないからね」と語る有由の穏やかな笑みに、ぼくはこれからどれだけ救われていくのだろうか、と思った。

 ぼくはいま、サッカー選手としてのラストステージに立っている。先にあるものがたとえイバラの道でぼろぼろになっても、這いつくばってでもグランドにいたい。

つづく
・「第六回 同級生」
・「第五回 同期」
・「第四回 家族」
・「第三回 涙」
・「第ニ回 ライバル」
・「第一回 手紙」