71歳からの再出発、これからは、今までできなかったことに挑戦するのだそうだ。
バブル崩壊、リーマンショック、東日本大震災、コロナ禍…激動の時代を見事な経営手腕で乗り越え、グループを大きくしてきた三國シェフ。怒涛の人生を凝縮させた新刊『三國、燃え尽きるまで厨房に立つ』(扶桑社刊)を上梓した三國シェフに、今だから話せる成功の秘訣について聞いた。
※本記事は、『三國、燃え尽きるまで厨房に立つ』(扶桑社刊)より一部抜粋・再構成してお届けします。
「エキナカ」レストラン文化の黎明に
今でこそ、エキナカのレストランなんて、ごくあたりまえの存在だが、まだ「エキナカ」「エキチカ」という言葉すら誰も使っていない時代のことである。
なんでもJR東日本では、「ステーションルネッサンス」と銘打った21世紀の駅づくりを目指していて、その一環として駅構内で新しいタイプのレストランをやりたいのだという。
その第1号として東京駅丸の内南口地下約300坪の大型店をプロデュースしてほしいというのが、JR東日本からの依頼だった。
店は四ツ谷の一軒家だけで十分と思っていた僕が、1996年の「コートダジュール ミクニズ」にはじまり、1999年「ミクニズカフェ マルノウチ」、2000年「ミクニ ナゴヤ」と店を増やし、成功させてきた。
それを見てのことだろう、しょっちゅうあちこちからいろいろな声がかかるようになっていた。
その中で、僕がこのエキナカのレストランにとくに興味をもったのは、駅で食事をする習慣をつくりたい、その第一歩だ、と聞いたからだ。
駅を出て家に帰ることばかりを考えるのではなく、先を急がずふらっと食事に立ち寄る、駅でそんな過ごし方ができるのも楽しいではないか。
江戸前寿司から創作寿司まで「回転寿司 三九二」
店の名前は「東京食堂 セントラルミクニズ」に決めた。わざわざ行くのではなく帰り道に気軽に立ち寄ってもらいたい店だから、これまでのミクニグループのレストランとは印象の異なる名前をつけたいと考えた。「食堂」であれば、着替えて出直してくるところ、といった堅苦しさもない。
この「東京食堂」というネーミングは、我ながらすごくイケてた! と、じつは自負しているのだ。丼も麺類もある、エスニックの一品料理もあるし、フレンチのコースも食べられる。
江戸前にぎりから創作寿司まで楽しめる回転寿司コーナー「三九二」もある。この感じをうまく伝えていたと思う。
店内の内装にもこだわった。たとえば、列車の食堂車をイメージしたコンパートメント席は、4人掛けで向かい合いまさに食堂車さながら。電車が入ってくるとゴトンゴトンと音がして座席が揺れる感じまで再現したら、大変な話題になった。
店は2001年のオープン直後からずっと行列が続く人気店となった。店の前の人混みを眺めながら僕はこんなことを考えていた。
大勢の人がいるけれど、僕の料理を食べたことのある人はほんの一握り、僕の料理に興味がある人だって全体からすればそんなに多くないだろう。
それでも名前を知ってもらえていれば「ミクニ」に反応して、「三國さんが駅で食堂をやっているんだ、試しに入ってみよう」ということになるし、「回転寿司 三九二」と聞けば、「え? フレンチじゃないの?」と関心を引くことになるのだ。
「ミクニ」の名前のついたフレンチではない店が広がっていくという経験をするなかで、僕にとってはその意味について考えるきっかけにもなったプロジェクトだったと思う。
「東京食堂」はもともと期間限定の店で、駅のリニューアル工事に伴って2006年でクローズしたが、いまだに、あの店よかったね、と言ってくれる人がいる店なのだ。
大阪「ミクニ プリヴェ」失敗、最大の理由
じつは成功例と同じくらい失敗もいろいろあるのだが、僕は逃げ足が早いから、ズルズルと負債を抱えるようなことにだけはならないですんでいる。だから失敗が目立ちにくい。ここではその例を1つだけ書くことにする。
2002年、大阪の梅田に「ミクニ プリヴェ」という店を開いた。
知り合いを通して声がかかった仕事で、梅田の一等地にある複合商業ビルへの出店依頼だった。ものすごくおしゃれでスノッブなビルをつくりたいから、三國さんの力をどうしても借りたいんだと熱心に説得されたのだ。
大阪は飲食店の激戦区で新規参入は難しいと言われる。でも、「食い倒れ」の街・大阪でチャレンジしたい、という思いが僕にもあって、やってみようという気持ちになった。
今思えば、この時点ですでにちょっと慎重さを欠いていたようにも思うのだが、とにかく僕は引き受けた。
エントランスのデザインは思い切りかっこよくスタイリッシュに。そして、エントランスを入ってすぐの右には回転寿司「三九二」だ。中央はオープンキッチン、周りにテーブル席を配し、ここでおしゃれなフランス料理店を出そう。
「参謀がいない」のが大きな欠点
「あー、しくじった」と思ったのは、オープン直後、店内をひと目見てお客さんがぜんぜんリラックスできていない感じが伝わってきたからである。おしゃれすぎたのだろうか? 入口からして、なんだかみんな入りづらそうだった。
そして中に入るやいきなり回転寿司である。なんでやねん? そんなん食いたくないし、と避けて左に回ると、制服の人が気取って「いらっしゃいませ、食前酒はなにになさいますか?」と来るのである。
そして、なによりも問題だと感じたのは、ビルの下層階のファッションフロアに入っているテナントの客層が、僕のつくった店のそれよりも、はるかに若くカジュアルであったこと。エレベーターに乗り合わせたら、どちらのお客さんにとっても居心地が悪そうだ。
僕が甘かった。
リサーチが甘かったのではなく、僕が大阪の人を甘く見ていたからちゃんとリサーチができていなかった。
そもそもあそこに回転寿司をもってきてなにをやりたかったのか。誰に来てもらいたかったのか。そういう中途半端なコンセプトだから、大阪の人にそっぽを向かれてしまったのだ。
結局1年足らずで僕は「ミクニ プリヴェ」を畳むことになった。
あのとき、もしもぼくに大阪出身の頼れる参謀がいたら、数字ではわからないところを参謀の感覚で補ってもらい、もう少し大阪人の心に添った店がつくれたかもしれない。
だが、なにを隠そう僕には参謀がいたためしがない。「参謀ができない」のは、「短気である」と並ぶ、僕の大きな人格的欠点なのだ。なにしろ僕は店で使う爪楊枝一本でさえ人任せにできないタイプである。
そして、そのためにこれまで何度も失敗をくり返してきた。
今振り返っても、あのときあいつに任せていたら、成功していただろうなという店が何店もあるし、あそこで自分がしゃしゃり出なかったら、閉じなくてもすんだかもしれないという店もある。
誰にも頼れないことが自分の欠点であるとよくわかっているけれども、どうすることもできない。
〈写真/キッチンミノル〉
【三國清三(みくに・きよみ)】
1954年北海道増毛町生まれ。中学卒業後、札幌グランドホテルや帝国ホテルで修業し、駐スイス日本大使館料理長に20歳で就任。その後名だたる三つ星レストランで腕を磨き、8年後に帰国。85年、東京・四ツ谷に「オテル・ドゥ・ミクニ」を開店。予約の取れないグラン・メゾンとなる。世界各地でミクニ・フェスティバルを開催するなど国際的にも活躍する一方で、子どもの食育活動やスローフード推進などにも尽力している。2020年にYouTubeチャンネルを始め、登録者数54万人の人気チャンネルになり、Instagram18万人と合わせると72万人を超える(25年8月現在)。22年、惜しまれながらも「オテル・ドゥ・ミクニ」を閉店、25年、カウンター8席の「三國」を開店。
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