映画「となりのトトロ」(宮崎駿監督)などジブリアニメの楽曲で知られる歌手の井上あずみ(60)は2023年8月26日、東京・なかのZEROホールでの40周年コンサートのリハーサル中に脳出血を発症した。出血部分は7センチまで広がり、緊急手術。
根っからの前向きな性格の井上は、車いすに乗っていても表情は明るかった。「井上あずみ、元気です」と回復をアピール。その言葉から「となりのトトロ」のオープニング曲「さんぽ」の歌詞「あるこう あるこう わたしはげんき」を想起させた。
40周年コンサートのリハーサル。最後に映画「天空の城ラピュタ」(宮崎駿監督)のエンディング曲「君をのせて」を歌っていると、娘の今尾侑夕(ゆうゆ、20)が慌てて駆け寄ってきた。「ママ、ろれつが回ってないよ」と告げられ、「え? 本当?」と返事をした次の瞬間、強烈な頭痛に襲われた。意識がもうろうとなる中、歌手の本能でステージにマイクをそっと置いた。
ステージに倒れ込むと、みるみるうちに顔の左側が下がってきた。病院に救急搬送され、MRI検査で7センチの出血を確認。内視鏡による4時間ほどの手術は成功し、医師から家族に「命に別条はない」と説明があった。
持病の高血圧が、脳出血の原因として考えられたという。「血圧が高い時で220ありました。3年くらい前に看護師さんから『今日、倒れてもおかしくないですよ』と言われて、それから薬を飲むようにしていたんです」。ただ、薬を飲むと頭がボーッとすることがあり、「コンサートの当日は飲みませんでした。前日に興奮し過ぎて眠れなくて、寝不足でもありました」。複数の条件が重なり、脳出血の発症につながったとみられる。
以前から喫煙はしないが、酒は毎日飲んでいた。「お酒が大好きで、浴びるように飲んでました。腎臓も悪くて『もう1ステージ進んだら、透析が見えてきますよ』と言われたこともありました。自覚症状はなく、普通に生活してたんですけどね」。
手術から2週間後、本格的にリハビリを開始した。「最初は左脚に力が入らず、壁につかまりながら右脚だけで立って、トイレに行くのも一苦労でした」。視野も極端に狭くなった。「左側にあるものが全然見えなかった。目に映っていても、脳が認識してくれないんです。食事の時、テーブルの左側にみそ汁があっても、気づかなかった。リハビリを続けることで徐々に視野も広がっていきました」
半年間の入院を経て、昨年2月に退院。6月に仕事復帰した。オファーを受けた時には体調が万全ではないことを伝えて、歌声を披露している。「車いすに乗って完璧な歌じゃなくても、お客さんが喜んでくれる。
現在も仕事をしながら、リハビリに励む毎日。「家族だけと話していると同じ話題になるので、脳が活性化されない。だから週2回はデイサービスでいろんな人と話すようにしています。加圧のトレーニングも週2回。足から腰までエアバッグを巻くと血流がアップするんです。1時間やると、10キロ歩いたくらいの効果がある。EMS(筋肉に電気刺激を与える機器)で刺激を与えたり、立ったり座ったりの運動もしています」。それ以外の日は仕事で、全国各地のイベントに出演している。
改めて思うのは「歌が私の生きがい。私には歌しかない」ということ。
ジブリファンは世界中にいる。仕事復帰してから1年あまりのうちに香港、シンガポール、インドネシアでも歌声を披露している。「飛行機が心配でしたけど、トイレの問題も解決できました」。車いすの生活になり、気づいたこともある。「障害者用トイレなどは東京五輪が開催されてから、かなり整備されましたので、私の知っている限りでは(海外と比べて)東京のホスピタリティーが一番です」
脳出血で倒れてから2年。今年2月には還暦を迎えた。「40周年コンサートで赤いドレスを着るはずだったんです。還暦ですから、赤いドレスを着て立って歌いたい」。
◆脳出血 脳の中の細い血管(動脈)が何らかの原因で破れて血液が漏れ出ること。漏れ出た血液は血腫と呼ばれる塊となり、脳にダメージを与え、手足の麻痺、言語障害を引き起こす。脳出血の多くは高血圧が原因とされているが、脳の血管異常などによって発症する場合もある。
心込めて歌いたい 〇…井上はNHK「ラジオ深夜便」(ラジオ第1・後11時5分、FM・前2時5分)の8、9月の「深夜便のうた」を担当する。歌うのはピアニストの中村由利子さんの実体験を題材に、松井五郎氏が作詞した楽曲「母の家計簿」。井上は「うまく歌うのではなく、たどたどしくても心を込めて、素朴な感じで歌いたい」と意気込んでいる。