TBSラジオ『アフター6ジャンクション』の看板コーナー「週刊映画時評ムービーウォッチメン」。ライムスター宇多丸が毎週ランダムに決まった映画を自腹で鑑賞し、生放送で評論します。

今回評論した映画は、『ジョーカー』(2019年10月4日公開)。

宇多丸:
ここからは私、宇多丸がランダムに決まった最新映画を自腹で鑑賞し評論する週刊映画時評ムービーウォッチメン。今夜扱うのはこの作品。『ジョーカー』! アメリカンコミックを代表するヴィラン(悪役)、ジョーカーの誕生秘話をオリジナルストーリーで描く。後にジョーカーとなる主人公のアーサーをホアキン・フェニックスが熱演。監督は『ハングオーバー!』シリーズなどのトッド・フィリップス。

第79回ヴェネチア国際映画祭でDCコミックスの映画化作品として史上初めて最高賞の金獅子賞を受賞……というか、アメコミ原作として初めてじゃないの?ですよね。だと思います。

ということで、この『ジョーカー』をもう見たよというリスナーのみなさま、<ウォッチメン>からの監視報告(感想)をメールでいただいております。ありがとうございます。メールの量は、「とても多い」。ダントツで今年最多ということでございます。

なんていうんですかね? もちろんアメコミ映画として見に行く人もあり。そしてやっぱり単体の映画としての評価も高いですから、普通に映画ファンも行く……など諸々な感じで、全方位的に見に行くタイプの映画っていうことはあるかもしれませんよね。

賛否の比率は「褒め」が9割。絶賛評多しということございます。褒めている人の主な意見としては「すごい映画を見た。いまもずっと余韻を引きずってる」「どこまでが本当でどこまでが嘘かわからない。

あるいは全部がジョークなのか。曖昧な描き方がとても上手い。ジョーカーのような存在を望む我々の願望もきちんと捉えてる。とても現代的な映画」「ホアキン・フェニックスがすごすぎる」 などの意見がございました。否定的な意見としては「理解不能なところがジョーカーの良さだったのに、この映画ではジョーカーに感情移入できてしまう。こんなのジョーカーじゃない」などがありました。

■「今現在だからこそ作られるべき作品」(byリスナー)
ということで代表的なところをご紹介しましょう。ラジオネーム「深夜高速」さん。「『スーサイド・スクワッド』や『ヴェノム』といったフィクションがもう一歩な出来であったのとは対照的に、リアルでは世界一の権力者がトランプ氏という完成度の高いディストピアであり、現実が創作を追い越してしまっている2.5次元ワールドにおいて、どんな物語が提供できるのか楽しみにしていましたが、今作は予想以上でした。

主役であるジョーカーはトランプ政権を誕生させたラストベルトの白人を表しているようで、資本主義に異議を唱えるウォール街の選挙運動の象徴にも見え、また非モテをこじらせたインセル(involuntary celibate・不本意の禁欲主義者)の側面もあり、それらの怒りが銃によって発散されるというのも、もはや日常化してしまったアメリカにおける銃乱射事件を思い起こさせるものです。さらに現在進行中の香港での抗議活動に行政側が『マスク禁止』という手段を取ったことなどは、映画制作者の意図を超えて劇中においてピエロのお面をしてる大衆たちとも重なりました。

ジョーカーという悪がバットマンという善と同根であると示唆をしておきながら、それは妄想の産物にすぎないと否定し、見るものによっていくつにも解釈できてしまう多層的な意味を盛り込んでおきながら、決して破綻はしておらず、一貫性のある熱演と物語はまさしくこのディストピアな今現在だからこそ作られるべき作品だと思わされました」というね。

ありがとうございました。

一方、イマイチだったという方。「オカヤドカリ」さん。「『ジョーカー』、ウォッチしてまいりました。感想としては『求めていたものと違う』という感じです。私はバットマンシリーズは素人で、作品もノーラン三部作しか見ておりません。

その素人としては、やはり『ダークナイト』のジョーカーが見たいという期待を込めて映画館に行ったのです。ですので、この『ジョーカー』という映画は物足りなく感じてしまいました。

これ作り手の意図したところでもあるでしょうが、ジョーカーが悪人に見えないという箇所が私にはやはり引っかかりました。1人の男がジョーカーというダークヒーローに変貌するまでを描きますが、ジョーカーになる前となった後でそれほど大きく変化したように見えないのです。私たちとしては『ジョーカーに堕ちた』という姿を見たかったのですが、ジョーカーとなってからもそれほど悪いことをしていないように見えるし……」。まあ、殺人とかをしているかもしれないけど、それにはちゃんと理由があるように見えるという。

で、「……カタルシスを感じさせてくれるような場面や展開がもっとほしかったです。正直、『ジョーカー、もっと悪いこと、美しいをことやってくれよ! 全然物足りないよ!』と思ってしまいました。やはりジョーカーという超越的な存在を人間的に描くことの食い合わせの悪さが目立ってしまう作品だったと思います」。まあ、これは要するにヒース・レジャーのジョーカー像が強烈過ぎて……というところはあるかもしれません。

宇多丸、『ジョーカー』を語る!【映画評書き起こし】の画像はこちら >>

■現在の娯楽アメコミ映画に対する反時代的な「映画らしい映画」
はい。ということろで『ジョーカー』、私もバルト9とTOHOシネマズ日比谷で見てまいりました。特にバルト9の方は、連休最終日だったっていうこともありますけど、深夜回だったにもかかわらず、とにかくお客が後から後から……要するに、あまり普段映画館に行きつけてないのかなっていう感じの(観客層で)、始まってからずっと15分ぐらいは入場が絶えないという。後から後から、とにかくすごく入ってましたね。アメコミの、しかもそれもヴィラン(悪役)の単独映画が一般層まで巻き込んで大ヒット、という、これは10年以上前だったらちょっと考えづらかった状況だと思うんですけども。

それを成り立たせている背景のひとつとして、これはやっぱりね、まず「ジョーカー」というブランド。で、その「ジョーカー」というブランドが何であるかといえば、それは間違いなく、ご存知2008年『ダークナイト』での、故ヒース・レジャーの、本当に歴史的な名演によって強烈に印象付けられたジョーカー像、というのが、まず前提としてあると思うんですね。やっぱり「『ダークナイト』のジョーカーがすごかったから、じゃあジョーカー単体でも見に行きたい」という気持ちがみなさん、普通の一般層にも浸透している、というのはあると思います。

で、それだけに、まあ誰もが認める圧倒的なヒース・レジャー版ジョーカーというのがあるわけですから、あまりにも高いハードルがあるわけですね。それを前に、改めてこのスーパーヴィランの誕生譚、バックストーリー……先ほどのメールにもあった通り、たしかにヒース・レジャー版のジョーカーは、なんていうかその向こうが全く見えないっていう感じ。理由なき存在である感じというかね、そこが本当に面白かったし、怖かったし、っていうところなので。そのバックストーリーを語り直すっていうのは、なかなかちょっとリスキーな試みでもあるように、僕個人も見る前は思ってました。

で、やっぱりヒース・レジャーの後のジョーカー役は難しい、というのは、『スーサイド・スクワッド』のね、ジャレッド・レト版が、もう無かったことにされつつある、というあたりからもわかるという感じだと思いますが……ですが、今回の『ジョーカー』。コミックの原典としてはですね、アラン・ムーア、そして絵はブライアン・ボランドさんという方が描いています、1988年の名作『バットマン:キリングジョーク』。これを明らかにベースにしている。

ただそれをベースにしつつも、あくまでも単独の映画作品として……つまりMCU(マーベル・シネマティック・ユニバース)の成功以降の、いわゆるユニバース的な、他の作品とリンクしてますよ、とか、あとはドラマシリーズ的なリンク、「これは次につながっていく、全体像の中のひとつでもありますよ」みたいなリンクとか。あるいは、まあやっぱりファンムービー化、的な方向ですよね。『エンドゲーム』は本当にその色が強い作品でしたけども。まあ、ファンが喜ぶ、ファンへの目配せ。あるいはその、「原作のこの部分とこの部分とこの部分をうまくアレンジしてこうやって……ファンもオタクも納得!」みたいな。

そういうファンムービー化的な方向性とは異なる……むしろそういう意味で言えばですね、はっきりそこには、背を向けてる。一種、反時代的なと言いましょうか。言ってみれば、かつてあったような「映画らしい映画」として、今回の『ジョーカー』は作り上げられている。で、いろんな意見が出ているようですけど……先にちょっと僕個人の結論から言うならば、僕は、全・面・支・持! ですね。今回ね、ひとつにはちょっと、個人的な趣味嗜好の件も絡んでくるので、そのあたりもちゃんと切り分けながら話しますけども。

■「こんなの、抵抗できるわけがない!」
個人的にはですね、開幕数分間、デカい黄色い字でタイトル『JOKER』ってドーンと出るまでの数分で、完全にもう、抵抗不能! 状態です。「こんなの、抵抗できるわけがない!」という風になりました。というのもですね、これは完全に僕個人の好みの問題の話でもあるんですけども、僕は以前からですね、70年代半ばぐらい……70年代いっぱいぐらいから80年代初頭にかけての、超治安が悪かった頃のニューヨークが映っている映画が大好物!っていう風に公言しているわけです。これ、この時代感っていうのは、要はアメリカンニューシネマ後期から末期にかけて、であると同時に、完全にヒップホップ黎明期のニューヨーク、なんですね。

これ、後付けでもありますけど。やっぱりその時代のニューヨークの風景とか文化みたいなのがすごい好きだ、っていうのがあるんですけど。で、その「70年代から80年代初頭の、超治安が悪かった頃のニューヨークが映っている映画が大好物」っていう風に公言している私にとってはですね、今回の『ジョーカー』は、まさしくその時代そのものを描こうとしている……映画館でかかってる作品、ブライアン・デ・パルマの『ミッドナイトクロス』とか、あとはジョージ・ハミルトン主演の『ゾロ』とかがかかっていたんで、具体的には1981年です。

1981年のニューヨーク、という設定……まあ、(設定上はバットマン・シリーズの舞台である)ゴッサムなんだけども、明らかにニューヨークですよ。とにかく僕が言っているような、まさしくその時代、1981年のニューヨークを思わせるゴッサムシティ、および「その時代の映画たち」を再現しようとしてる作品である、ということがもう、開幕早々にわかるわけですね。要は、「オレと同じような映画が好きなやつが作った映画だ!」というのが、開幕数分でわかっちゃう。もう、ビンビンに来る!っていう感じですよね。

最初の、もういきなりワーナーのマークからしてね、70年代のワーナーのマークが出ますし。特にやはりね、マーティン・スコセッシの『タクシードライバー』(1976年)、さらには同じスコセッシで『キング・オブ・コメディ』(1982年)。『キング・オブ・コメディ』は非常に色が濃いと思います。ラストに向かうにつれて、だんだんその虚実と言いましょうか、なにが現実でなにが妄想か、だんだんその境目がわかんなくなってくる感じも、すごく『キング・オブ・コメディ』っぽいです。

ロバート・デ・ニーロのキャスティングからしても、これは露骨なほどスコセッシオマージュ、というのはありますし。あと、たとえば地下鉄内で、後にジョーカーとなる今回の主人公、アーサー・フレックさんが、最初の一線を越えてしまうあたり。これはもう完全に『狼よさらば』ですね。原題『Death Wish』、1974年、ですし。続く地下鉄のホームのところ。階段で、逃げる男を背中から撃つ。これはもう、フリードキンの『フレンチ・コネクション』(1971年)、これを連想してしまいますし。

あるいは、アーサーの家路の途中にある、あの印象的な長い階段。ずっと彼がそこを登ってくるショットっていうのが毎回あるんだけど、最後はジョーカーになりきったところで、今度はその階段を降りてくる、という印象的な階段、ありますね。長い階段。あれ、ブロンクスでロケをしてるらしいですけれども。あの階段は、やっぱり同じくフリードキンの『エクソシスト』を想起させるな、とかですね。他にも『カッコーの巣の上で』オマージュ、あるいは『ネットワーク』オマージュであるとかですね。個人的には、『ジャグラー ニューヨーク25時』的だなと思うところもあったり……まあ、『ジャグラー』までトッド・フィリップスが見ているかどうかはわかりませんが。

という感じで、とにかく70年代~80年代初頭の、言ってみれば社会不適合者、社会からどうしてもはみ出してしまうものを抱えた人々の、逆ギレ的爆発を描いた映画たち。その存在、あり方や精神というのを、今回の『ジョーカー』は、アメコミ映画という、目下最も広く大衆の耳目を集めえるフォーマットを使って……これはちょうど、劇中のアーサーが世間の注目をようやく集めて、ようやく世間に自分の存在を認めさせた、というのと、ちょっと構造的に重なると思うんですけども。

アメコミというフォーマットを使って耳目を集めながら、あえていま、その70年代~80年代初頭の、社会不適合者の逆ギレ爆発を描いた映画のイズムを再現してみせた一作、と言えると思いますね。

■トッド・フィリップス監督が作ってきたコメディ作品の視点を客観から主観に移し替えた
これ、共同脚本と監督・製作のトッド・フィリップスさん。もちろんご存知『ハングオーバー!』シリーズをはじめ、コメディで成功されてきた方ですけども。ただ、この方はそもそも……以前に僕、『ハングオーバー!』評の中でも言いましたけど、そもそも監督デビューとなるドキュメンタリー『全身ハードコア GGアリン』。

ハードコアパンクのアーティスト、GGアリンさん。亡くなってしまいましたけども。その1993年の『全身ハードコア GGアリン』からある種一貫して、まさに「社会からどうしてもはみ出してしまうものを抱えた人々の、逆ギレ的爆発」をずっと描いてきた。『ハングオーバー!』だってそうですし、『アダルト♂スクール』だってそうですし、っていう感じなんですよね。全部一貫している。

なので、今回はトーンとしてはシリアスなドラマものですけども、要はいわゆる「笑うしかないほどひどい現実」にあふれたこの世界の中で、痛み、悲しみ、そして怒りに対してこそ笑ってしまう、という体質の……つまり、最も正気だからこそ狂気に陥ってしまう、もしくは狂気に陥ったように見えてしまう、とも言える人物が主人公の今回の『ジョーカー』は、トッド・フィリップスさんがこれまでに作ってきたコメディ作品の視点を、客観から主観に移し替えただけだ、という風にも言える。

要するに、「寄りで見ると悲劇、離れて見ると喜劇」ってよく言いますよね? そういうことだとも言える。ゆえに今回、非常にシリアスなトーンの作品なんだけども、要所要所でですね、たとえば後半にある惨劇が起こるんですけども、その惨劇の現場から逃げ出そうとした、この主人公のピエロ業の同僚の、小人症の男性がいるわけです。その小人症の男性が陥る、ある困った事態、とかですね。要所要所でこの、凍りつくような笑いっていうんですかね? もう笑うに笑えない、でもなんか面白い、という場面が出てくるという。

あるいは前半ね、難病の子供たちの前でピエロ営業中に、「ゴトーン!」ってね、銃が落っこちて(笑)。「あ……ええと……こ、これはね、違うんですよね……」なんて。そういう風に、言わば「笑うに笑えない喜劇」であると同時に、「笑ってしまうほど悲惨な悲劇」でもあるような……ゆえに、たとえば主人公は大声で笑っているのに、同時に苦しんでいるように。あるいは泣いているようにも、怒っているようにも見える、というような感じで。常にその、複雑な感情が入り混じったグレイゾーンを、ずっと揺れ動くような感じの、非常に綱渡り的な緊張感がずっと続くと言いましょうか、そんな感じの役柄、アーサー・フレック。後にジョーカーとなるこの主人公の役柄。

■ホアキン・フェニックスのド迫力の演技が観客に揺さぶりをかける
そもそもこれは、ホアキン・フェニックスに当て書きされた脚本なんですね。というのは、これは町山智浩さんも指摘されていましたけども、そもそもあの、『容疑者、ホアキン・フェニックス』という、ホアキン・フェニックスがいきなり「俳優業を辞めてラッパーになる!」と言い出すという作品。で、「ドッキリだよーん!」みたいなことを言うんですけど、「いやお前、ドッキリじゃねえだろ! 2年間棒に振っているんだから、全然ドッキリじゃねえだろ!」っていう(笑)。

あの、身体を張って笑いを取りにいった結果笑えない、っていうのはまさに、アーサー・フレック=ジョーカーそのもの。ホアキン・フェニックスの実像に重なるところもある。「ちょっとこいつ、ガチでヤベえんじゃねえか?」っていう感じがするという。なのでそのホアキン・フェニックスの当て書き、というのも納得。で、実際にそれを受けてのホアキン・フェニックス、今回の映画を見ると、あの、異様に肩から骨が突き出すまでに痩せ細って、基本的にずっと身体を強張らせている……なんだけど、時にコンテンポラリーダンサーのように、奇妙にしなやかにステップを踏んでみせたり、身体をしならせたりする。まさに、さっきの『全身ハードコア』ならぬ、「全身アーサー・フレック」状態のホアキン・フェニックス。

たとえば、最初の殺人シーンの後、トイレの中に逃げ込んだところで、彼が踊り始める、というくだりがありますけども。あそこ、音楽のヒドゥル・グドナドッティルさん。この方は、『ボーダーライン:ソルジャーズ・デイ』の音楽とかをやっている。要は亡くなったヨハン・ヨハンソンの弟子のチェロ演奏者の方なんですけども、この方のチェロ演奏を流しながら、即興でホアキン・フェニックスが踊りだしたところを、「それ、いい!」っていうことで慌ててカメラを回した、という風に……これ、パンフの解説にも書いてありましたことですけども。

まあそんな感じで、ホアキン・フェニックスの完全なド迫力なりきり演技。これに引き込まれていくうちに……またこれは映像がものすごく美しくてね。ALEXA 65というカメラで撮った映像が本当に、被写界深度が深くて、非常に美しいんですが。それに引き込まれていくうちに、たとえばさっき言いました、オマージュを捧げられているスコセッシの『タクシードライバー』のトラヴィス・ビックルであるとか、あるいは『キング・オブ・コメディ』の主人公のルパート・パプキンとかと同様、同情・共感と、嫌悪と軽蔑の間を、観客も揺れ動くことになるわけですね。「ああ、かわいそうだな。こいつ」「なんてことしてんの、お前。ええっ?」っていうこともしたりする。その間を揺れ動くことになる。

非常にだからグレイゾーンを、演技も揺れ動くし、こっちの感情もずーっと揺さぶられ続ける。もちろんですね、描かれていること……メールにも多かったですけどね。広がる格差に不満、怒りを溜め込む社会。それが民衆の怒りとなって爆発する。非常に現代的なテーマを扱っている作品でもあるわけだけど。ただ僕ね、本作が非常に巧み、ちゃんと面白く、よくできているなって思うのは、主人公を単にその社会的弱者、同情すべき存在、単に「かわいそうな人」とだけ置かずにですね、つまり単純な善悪二元論に落とし込まないように、語り口にある仕掛けを盛り込んでいる、というところですね。

■善悪や強者/弱者の二元論から逃れる存在、これぞまさしく(原作『キリングジョーク』の)「ジョーカー的」
要は、いわゆる「信用できない語り手」というテクニックですよね。映画を見終わると特にわりとはっきりするんですけど、実は全編にわたって、どこからどこまでが現実で妄想なのか、その境目が、意図的に曖昧にされたつくりになっている、ということが、さかのぼって強く感じられるようなつくりになっていて。終わってみると「あれ? ということは……?」みたいな。たとえばですね、終わってみると、ラストシーンですけど、冒頭と中盤にあるカウンセラーとの対話、これが最後に出てくるカウンセラーとの対話と、明らかに対になるように見せているわけですね。

「えっ? ということは……?」っていう読みもできるようになっているし。あるいは途中、ブルース・ウェインの親父――ブルース・ウェインっていうのはもちろん、のちのバットマンですよね――ブルース・ウェインの親父とトイレで会話するところ。ここ、ちょっと『シャイニング』風。妙に白く明るい照明。この照明も怪しいし、そのシーンの最後で彼、主人公がとっているポーズと、次の自室で上半身裸で立っているポーズが完全に同じで、(場面だけ)パッと変わるわけですね。

「あれ? ということは……?」っていうあたりとかですね。あるいは、お母さんの言い分。最初、お母さんが言っていること、「そんなことがあったのか! ひどい!」って(観客も思う)。でも、「いやいや、それは彼女の妄想だから」って……なるのか? つまり、お母さんの言い分が正しいのか、あるいはブルース・ウェイン親父の言い分が正しいのか、どっちが本当なのか。ちょっと揺さぶってきますよね。「(裏にサインが入った)写真もあるしな……」とか、揺さぶってくる。こんな感じで、とにかくほぼ全編が、振り返ってみれば、どこまでが現実でどこまでが妄想なのか、どっちが本当のことを言っていてどっちが違うのか、どちらとも取れる、絶妙なバランスで作られている。

最後の最後まで揺さぶりをかけてくる、という感じなんですね。「こうだと思っていたのに、あれ? 違うのかな?」っていうディテールも入れてくる。これによって、さっきから言っているように、単なる善悪とか単なる強者/弱者の二元論に陥ることも逃れているし、何より言うまでもなく、これこそがつまり、「ジョーカー的」なわけですよ。特にやはり、先ほどから言っているアラン・ムーア『キリングジョーク』で描かれたジョーカー・イズムに、実はこれ、非常に忠実なジョーカーの描き方なんです。なので「ヒース・レジャー版と違う!」って文句を言うのはいいんだけど、ちょっと『キリングジョーク』を読んでみてください。実はそこは非常に忠実に継承をしている作品だ、という風にも思います。

もちろん、先ほど地下鉄のシーンが『狼よさらば』だっていう風に言いましたが、そもそもジョーカーがそうやって地下鉄内で一線を超えるシーン、要はビジランテ(自警団)的な行動を取っているわけですね。その「自警団的な行動を取った人が街のヒーローとして大衆に支持される」……これ、後のバットマンとやっていることと、なにが違うんですか? 完全に鏡像関係というか、変わらないじゃないかっていう感じにも言える。で、もちろん後のバットマンの誕生をそのジョーカーが予感して……「いやあ、最高に笑えるジョークだ」なんてことを言うわけですけども。

ただ、彼はですね、そのブルース・ウェイン少年が遭ったあの事件の、現場にはいないはずですし……とかね。あと、先ほどの、そのブルース・ウェイン親父との会話自体がそもそも怪しいぞっていう描写も含めると、ここもやはり現実/妄想、曖昧なあたりになってくる、ということですね。ということで、バットマンとジョーカーというものの鏡像関係っていうあたりは、まさしく『キリングジョーク』的な視点で、アメコミヒーロー物自体を批評する視点っていうものがある。それも面白いですし。

■マーティン・スコセッシ的な映画の在り方で、「今の映画の在り方」を問い直す
あるいは、人々が自分の願望とか幻想を勝手に投影して騒ぐ、なんなら殉教者扱い、キリスト扱いして祭り上げる……つまりヒーローやヒーロー物をありがたがる我々観客というか、我々の心理、願望、欲望みたいなものっていうものへの批評にもなっている、ということですよね。しかも、僕はこの映画が見事だと思ったのは、いま僕が言ってきたようなその諸々……他にもいろんな読みができると思います。いろんな社会批評的な読みもできると思います。あるいは構造分析をしたりとか、あるいは共感、感情移入する、っていうこともあると思います。

その「ジョーカーが同情すべき人物として描かれている。だから嫌だ」っていう風にメールでもおっしゃっていましたけども……みなさん最後のセリフ、覚えていますか? それら全てを、全部ばっさりと切って捨てるわけですよ。「はあ? お前らとは関係ない。(バサッ!)」って。決まったー!っていう感じですよね。完璧。あの最後の一言によって、完全にジョーカーとして完成した。そしてその後に続くエンディングショット。しっかり「コメディ」として幕を引く。スマートだな!っていう感じがいたしますね。

ということで、もちろん好き嫌いの問題はあるにしても、やろうとしたことの中では、最上の結果を出している一作だ、という風にも思います。私、個人的にはですね、以前この番組でも紹介しました、このMCU、アメコミ映画全盛期、映画のあり方そのものが変質しつつある今、マーティン・スコセッシが「MCU、あれは映画じゃない」なんて発言をして、非常に物議を醸したりしたこの今、まさにそのスコセッシ的な映画のあり方っていうのを……「本来、映画って……じゃあ映画って何? 映画のやれることって何?」っていう、まさにスコセッシ的な映画のあり方というのを使って、今に問い直して見せる。

だから、やっぱり今でしか作られない、映画のあり方を問う、みたいな映画にもなっているというところで。あらゆる角度で僕は見事だなと思いました。ということでお見事、賞を獲ったりするのもこれは当然だなと思いますし。さらに賞レースに残ってくる作品なのは間違いないでしょう。もちろん好き嫌いがあるのはわかりますけどね。

あと個人的には、いろんなゲストを迎える番組の司会者として、やはり、ゲストにナメた態度をとる、もしくはナメた態度でゲストを呼ぶ、これは本当に絶対に慎まなければいけないな、と思った次第でございます。あと逆恨みは本当にやめてください!(笑) 以上、ぜひぜひ劇場でウォッチしてください!

宇多丸、『ジョーカー』を語る!【映画評書き起こし】

(ガチャ回しパート中略 ~ 次回の課題映画は『ガリーボーイ』です)

以上、「誰が映画を見張るのか?」 週刊映画時評ムービーウォッチメンのコーナーでした。
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(以下、ガチャパートにて)

宇多丸:あの地下鉄の中でね、証券マンが乗ってきて、その3人が狼藉を働いて、っていうところね。ちょっとあのウォルター・ヒルの『ウォリアーズ』っていう映画があって。それで地下鉄の中にやっぱり裕福な若者たちが乗ってきて……っていう、そこも思い出したりしたかな。

山本匠晃:証券マンなのか、広告マンなのか……。

宇多丸:いや、広告マンじゃないです。それ、勝手にいろんなものを投影する人が……自分の恨みを投影するんじゃない!っていうね(笑)。そのへんも戒めている映画だろうが!っていうね。まあ、『タクシードライバー』を見て、主人公トラヴィスの最後の行動に拍手喝采を観客がしていて、それに当時スコセッシがショックを受けた、というんですよ。そんなエピソードもありますけどね。だからそういう状況もちょっと重なる、そういう面もある、ということですかね。

◆10月18日放送分より 番組名:「アフター6ジャンクション」内「週刊映画時評ムービーウォッチメン」
◆http://radiko.jp/share/?sid=TBS&t=20191018183000