今年ソロデビュー30周年を迎えた工藤静香が、9月2日放送のラジオ番組『Orico presents FIELD OF DREAMS』(TOKYO FM)にゲスト出演した。パーソナリティの川田裕美が工藤の半生を子ども時代からたどりながら“人生のターニングポイント”を探っていく。
歌手や女、画家として活躍する彼女は子ども時代から「ちょっと変わっていた」という個性的なところがあったようだ。

幼稚園に通っていた頃に強く「色」に興味を持ち、公園にある藤棚を見に行くのが好きで特に「夕焼けに染まる藤の感じが大好き」だったという。小学校に入ると2年生で髪や服に興味を持ち「半ズボン」ばかりはいていた。また校歌を皆で歌うのが好きで「自分のなかで“校歌をキレイに歌いたい”と思っていた」という。しかし歌手への憧れはなかった。当時はアイドルと言えば「食べないしトイレもいかない」イメージがあり、別世界の出来事のように思えたからだ。

小学校高学年になると自分で髪を“サーファーカット”にしようと剃刀でヘアスタイルを変えたり、パーマをかけるなどおしゃれへの関心が強くなった。「絵」については小学校の授業で「バラを描く」テーマなのに「バラの花だけでなく前に座っている男子の肩も目に入るまま描いて」先生から良い評価をもらえなかった。周りの子どもに比べて「ちょっと変わっていた」のである。

そんな工藤静香にとって大きなターニングポイントとなったのが1984年、中学2年生の時に友だちとノリで応募した『第3回 ミス・セブンティーンコンテスト』だ。この時は国生さゆり渡辺満里奈渡辺美里など後に芸能界で大成する顔ぶれが多数出場している。最終ステージまで残った工藤は周りを見て「素敵な洋服で化粧もしている」ことに衝撃を受けた。
彼女は「白い半ズボン」と兄のTシャツに手を入れた「赤いタンクトップ」というコーディネートで「そんな感じは自分だけでなんか恥ずかしかった」という。

その服装で『セーラー服と機関銃』を歌ったが、自分でも特に上手いとは思っていなかった。ところが特別賞を受賞して“セブンティーンクラブ”を結成、翌年1月にCBSソニーからレコードデビューを果たす。しかしCMのタイアップまでありながら陽の目を見ずシングル2枚を出して解散した。工藤は当時を振り返り「スポットライトを浴びるという感じはなかった」というが、これによって芸能界に入ることとなった。

高校生になると、1986年5月に人気番組『夕やけニャンニャン』のオーディションに合格しておニャン子クラブに加入する。他のメンバーたちは売れようとせめぎあいが凄かったが「これ(おニャン子クラブ)もいつかなくなるだろうし」と冷静な目で見ていた工藤は「どうぞどうぞという感じで、自分は後ろの方にいた」「誰も私を見ていないように思えて適当に踊ったりしてた」と明かす。

ある時、おニャン子クラブのコンサートのリハーサルで話を聞かずにメンバーがおしゃべりしていると男性プロデューサーが「ちゃんと聞け」と灰皿を投げてきた。皆が「きゃーっ」と逃げるなか工藤だけは逃げなかった。「だって、当たらなかったから」と常に冷静なのだ。プロデューサーたちはそんな彼女の態度が気に入らず「工藤ちょっと来い!」とまた怒られる。仕事では周りの大人たちから「お前は可愛くないな」とよく言われ、彼女も「自分は周りの大人が気に食わなくなるキャラクターなんだな」と感じていた。


やがて1987年8月にシングル『禁断のテレパシー』でソロデビューする。その時は「カッコいい歌だな! この歌を私がひとりで歌えるの!」という喜びが強かったが、それでもまだ「歌でやっていくのだ」との思いには至らなかった。しかし、同曲も収録されている1stアルバム『ミステリアス』(1988年)のレコーディングで『すべてはそれから』を歌いながら「こんなに疲れてくたくたなのに集中できるんだ」と気づいた。当時はまだおニャン子クラブやユニット・うしろ髪ひかれ隊の活動も忙しかったが、「それでも集中できる仕事は歌だ」と初めて思えたのである。

『禁断のテレパシー』から30年、彼女が歌手であり続け8月30日には12年ぶりとなるオリジナルアルバム『凛』をリリースできたのは、その時の気づきがあればこそかもしれない。



画像は『Kudo_shizuka 2017年7月20日付Instagram「いきなりマネージャーが他の資料を探していて、このモノクロが出てきたらしい。」』のスクリーンショット
(TechinsightJapan編集部 真紀和泉
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