『只見線 敷設の歴史』一城楓汰/彩風社【鉄の本棚 22】その...の画像はこちら >>

1887年(明治20年)~1945年(昭和20年)8月15日
戦争の時代と只見線一部開通

「鉄道敷設法」第二期予定線として記載された岩越鉄道(岩代国と越後国を結ぶ 現・磐越西線)が1894年(明治27年)の帝国議会で第一期予定線に編入されました。しかし国の財政は逼迫していたので、民間の岩越鉄道株式会社によって建設が進められます。

日本鉄道によって後の東北本線郡山駅は既に開業していました。岩越鉄道は郡山駅を起点に、1899年(明治32年)会津若松までが開業。ここで岩越鉄道は資金難に直面、本来的には歴史的な主要宿場だった坂下を通る予定でしたが、資金的な援助を行った喜多方を通る現在の経路で建設されます。

現在でこそ、会津若松が鉄道の重要な結節点になっていますが、鉄道以前の時代、坂下が街道の宿場として中心的な地位を占めていたのです。

1910年(明治43年)に軽便鉄道法が公布されます。岩越鉄道が通らなかった坂下町長等が柳津軽便鉄道株式会社の設立を画策しましたがやはり資金難で頓挫。

しかし会津線(野岩羽鉄道)の一部として会津若松~坂下間21.6kmが1926年(昭和元年)に開業。この後時間がかかりますが、いずれ只見線の一部になります。

『只見線 敷設の歴史』一城楓汰/彩風社【鉄の本棚 22】その2
※会津宮下駅の転車台

一方、日本鉄道は直江津(新潟)~東京間を結ぶ幹線として信越本線の建設を進めました。上野~高崎~前橋が1884年(明治17年)に開業、翌年には高崎~横川間も開業。難所の碓氷峠を挟んで直江津から軽井沢までが1888年(明治21年)には開業します。

新潟側では、直江津から長岡を経て沼垂(ぬったり)までの鉄道が北越鉄道によって建設されます。

1899年(明治32年)には直江津~沼垂間が繋がります。

この沼垂という地名を知らなかったのですが、信濃川河口の古い港町。言い換えればその後の新潟港に当たります。沼垂駅は1958年(昭和33年)手前に新潟駅が開設されるまで信越本線の終着駅だったのです。沼垂は貨物駅として残りましたが、2010年(平成22年)に廃止されました。その後沼垂は新潟市に吸収合併され存在しない地名になってしまった様です。

1893年(明治26年)に軽井沢~横川間がアプト式で開通。横川駅での停車時間が釜飯を生むことになります。

1909年(明治42年)には国有化された岩越鉄道が国鉄岩越線に、北越鉄道を含む沼垂~高崎間が国鉄信越線になりました。1914年(大正3年)には沼垂~郡山間が国鉄岩越線として全通します。現在の磐越西線です。

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※只見駅

1919年(大正8年)頃には、1892年(明治25年)「鉄道敷設法」に記載された路線の建設がほぼ完了、国は完成した基本幹線の先、地方都市間の鉄道網の構築に向かいます。

新たな鉄道網敷設計画に、小出・柳津・只見・古町線が対象になり只見線に向けての第一歩になりました。

1920年(大正9年)鉄道省が小出・柳津・只見・古町間の現地視察と予備測量を実施。これを機に第一回鉄道大会が只見小学校で開催され地元民の鉄道敷設運動が緒につきました。

1922年(大正11年)「改正鉄道敷設法」が公布。”小出・柳津・只見・古町線”が予定線になります。しかし1923年(大正12年)の関東大震災によって全ての鉄道計画が止まってしまったのです。

それでも1928年(昭和3年)には会津若松から柳津までが延伸開業。

一方、上越線も新潟側が1923年(大正12年)信越線の宮内を起点に浦佐までが開通。只見線のもう一方の起点小出駅もこの時に開業しました。1925年(大正14年)には越後湯沢までが開通。

上越線の関東側は、1928年(昭和3年)新前橋から水上までが開業。上越国境の谷川連峰を貫く長大な清水トンネルを残すのみとなります。

1931年(昭和6年)9702mの清水トンネルが開通。新潟港と東京を結ぶ最短ルートの開通でした。

1933年(昭和8年)小出・柳津線が着工線となります。只見小学校で小出・柳津、只見・古町間鉄道期成同盟会が結成されてから14年後のことでした。人家の少ないエリアへの鉄道敷設には根強い反対もありましたが、只見川の水資源開発ということが鉄道敷設への原動力となったのです。

1935年(昭和10年)小出・柳津線の工事が始まりました。しかし1941年(昭和16年)真珠湾奇襲攻撃によって太平洋戦争開戦。開戦前の1937年(昭和12年)小出・柳津線の敷設工事は中止されます。柳津・川口間が延伸したところでの中止命令でした。

しかし小出・只見間の大白川に軍事的な資源があるということで新潟側は工事が続行され小出・大白川間25.98kmは1942年(昭和17年)に開通します。小出・大白川間は正式に只見線と呼ばれる様になりました。74の橋梁と2本のトンネルによる路線に8つの駅が出来ました。

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※大白川駅

ここで太平洋戦争が終結します。

次章
1945年(昭和20年)8月16日~1961年(昭和36年)
戦後復興と電源開発と只見線
は、次回『只見線 敷設の歴史』一城楓汰/彩風社【鉄の本棚 22】その3 に続きます。

(写真・記事/住田至朗)