【太平洋戦争】3日後に蘇生した不死身の日本兵 舩坂弘の最強伝説!!

【太平洋戦争】3日後に蘇生した不死身の日本兵 舩坂弘の最強伝説!!

 様々な場面で日本人の肉体的弱さを指摘されることが多いが、そういう方々はかつて第二次世界大戦で活躍した不死身の分隊長・舩坂弘をご存じであろうか?

 スタローン演じる無敵のランボーや、「腕立て伏せをするとき、彼は自分を押し上げたりはしない。彼は世界を押し下げているのだ」とさえ言わしめたチャック・ノリス演じるヒーローが実在の人物であったとしても、舩坂弘には到底及ばないだろう。そしてまた、渋谷センター街入り口にある大盛堂書店はこの舩坂弘が築き上げたものなのだ。 

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■文武両道だった子ども時代

 後に「不死身の分隊長」と称えられ、敵軍であるアメリカ兵からも絶賛された舩坂弘。彼は1920年、農家の三男として栃木県に生まれる。幼い頃からやんちゃで近所のガキ大将だった。文武両道、まさに豪傑の二文字がふさわしい性格だったという。軍人としても非常に優れ、「特別銃剣術徽章、特別射撃徽章、剣道六段教士、居合道錬士、銃剣道錬士」など、幅広い武道に精通していた。そんな彼の伝説は、1944年3月に始まる。

 B29による爆撃が始まり、敗戦の色が徐々に濃くなったこの頃、舩坂は弱冠23歳にしてパラオ諸島のアンガウル島に、宇都宮歩兵第59連隊軍曹として着任したのだった――。

■日本の10倍いる、米軍の精鋭部隊、吠える不死身の分隊長

 米軍の狙いはアンガウル島を占領し、本土攻撃のための飛行場を作ることであった。当時この島を守っていた日本軍の数はわずか1,400名ほどなのに対し、敵軍の精鋭部隊はその数なんと2万2,000名。およそ日本兵の10倍の数である。

 しかも、米軍の精鋭部隊はハワイで特別上陸訓練を受けた、別名「山猫部隊(ワイルドキャッツ)」と異名を持つほど強力な第81歩兵師団及び、米軍第38機動部隊、内訳にして航空母艦11隻、戦艦2隻、巡洋艦10数隻、駆逐艦35隻という大部隊であった。まともに戦っても勝ち目があるはずもなく、日本軍は海岸に砲列や鉄条網を敷き、敵軍の上陸に合わせ水際作戦を展開するも、どう見ても負け戦であった。

 ところが舩坂は違った。米軍の猛攻によって味方が次々と倒れて行く中、擲弾筒(グレネードランチャー)を筒身が真赤になるまで撃ち続け、米軍の足止めに成功。残存兵力を島の北西の洞窟に集結させ、ゲリラ戦に持ち込むことになる。島の形が変わるほどの激しい艦砲射撃の中、舩坂1人で200人以上の米兵を殺傷したという。

 しかし3日後、米軍の猛攻によって敵陣のど真ん中で、左大腿部に砲撃を受け、瀕死の重傷を負うのである。これでは、さすがに日本軍も助けに行くことはできない。舩坂が米軍の銃火の中にさらされること数時間、ようやく来た軍医は負傷した舩坂を一目見るなり、「手の施しようがない」として自決用の手榴弾を渡してその場を去ってしまったのであった。

■どんな傷を負っても次の日には回復していた、まさに不死身

 軍医も匙を投げるほどの重傷を負ってもなお、屈しようとしない舩坂。負傷した足を包帯代わりの日章旗で縛り、なにくそと夜通し這うことで洞窟の味方陣地に帰り着く。そして、翌日には左足を引きずりながらも歩けるまでに回復していたという。

 繰り返すが、砲弾によって負傷し、なおかつ物資のない状況である。舩坂は戦後「生まれつき傷が治りやすい体質であったことに助けられたようだ」と述べているが、一体どんな体をしていたのか筆者には想像もつかない。

 絶望的境地に陥ってもあきらめず、突撃していくのである。自著『英霊の絶叫 ― 玉砕島アンガウル戦記』(光人社NF文庫)によれば、「絶望的な戦況にあってなお、拳銃の3連射で3人の米兵を倒したり、米兵から鹵獲した短機関銃で3人を 1度に斃し、左足と両腕を負傷した状態で、銃剣で1人刺殺し、短機関銃を手にしていたもう1人に投げて顎部に突き刺して殺すなど、鬼神の如く奮戦を続けていた。 実際、その姿を見た部隊員たちから、『不死身の分隊長』『鬼の分隊長』と形容する声が聞かれるほどであった」と回顧している。

■傷口から大量の蛆、そこに銃弾埋め込む まだ死なせてもらえないのか!!

 いくら不死身の分隊長とはいえ、補給も食料もない状態で満足な治療を受けられず、傷は化膿し、大量の蛆(ウジ)が湧いた。鬼の舩坂は、伝えられるところによると、近くで死んでいた仲間が身につけていた銃弾を化膿した部分に埋め、自ら点火させ炎症が広がるのを防いだという。

 長期に及ぶゲリラ戦も虚しく、圧倒的な戦力の差に、徐々に日本軍は追い込まれていった。味方陣地である洞窟内は、自決の手榴弾を求める重傷者の呻き声が響きわたり、生き地獄の様相を呈していた。舩坂も敵の銃弾が腹部を貫通し、もはや這うことしかできなくなった。いったんは引いても容赦なく湧いてくる蛆に、とうとう「蛆に食われて死ぬくらいなら、もはやこれまで」と、自決を決意するのであった。

 この時舩坂は極度の栄養失調と失血で、両目もほとんど見えなくなっていた。まさに死と隣り合わせの状態である。自決用の手榴弾を置いて、舩坂は遺書を書くのであった。

「若年で死ぬのは、親孝行できず残念です。靖国に行ってご両親の大恩に報います。国家危急存亡のときに、皇天皇土に敵を近づけまいと奮戦したのですが、すでに満身創痍となりました。天命を待たず、敵を目前にして戦死するのはくやしいけれど、すでに数百の敵を倒したので、自分は満足しています。七たび生まれ変わって、国難を救わんと念願し、いま、従容として自決します。思い残すことはありません。 陸軍軍曹 舩坂弘」

 ところが手榴弾のピンをはずすも不発。「なぜ死ねないのか、まだ死なせてもらえないのか!!」と、死ねなかったことに絶望にした舩坂は、「一矢報いてやる!」と米軍司令部に単身乗り込むことを決意する。

■ランボー顔負け 約1万人の敵兵の中に1人で乗り込む

 この時、米軍指揮所周辺には歩兵6個大隊、戦車1個大隊、砲兵6個中隊や高射機関砲大隊など総勢約1万人が駐屯しており、舩坂はこれら指揮官が指揮所テントに集まる時を狙い、待ち構えていたのである。もはや1万人対1人の肉弾自爆である。瀕死の状態にもかかわらず、手榴弾6発を身体にくくりつけ、拳銃1丁を持って3日間寝ずに這い続け、前哨陣地を突破。4日目には米軍指揮所テント群に20メートルの地点まで潜入していた。

 この時、舩坂が受けた負傷は戦闘初日から数えて大小24カ所に及んでおり、このうち重傷は左大腿部裂傷、左上膊部貫通銃創2カ所、頭部打撲傷、左腹部盲貫銃創の5カ所、さらに右肩捻挫、右足首脱臼といった大ケガを負っていた。また、長い間匍匐(ほふく)していたため、肘や足は服が擦り切れてボロボロになっており、さらに連日の戦闘による火傷と全身20カ所に食い込んだ砲弾の破片によって本来なら動くこともままならない状態であった。

 米軍ジープが続々と司令部に乗り付けるのを見て、右手に安全栓を抜いた手榴弾を握り締め、左手に拳銃を持ち、全力を絞り出し、茂みから立ち上がった。幽鬼かゾンビのようないでたちに、米兵たちも目を疑うほどであったという。

■戦死と判断されるも、3日後に蘇生!?

 茂みから出てきた舩坂は米兵によって、頸部を撃たれて昏倒し、戦死と判断される。すでに伝説となっていた舩坂に対し、米軍軍医は、無駄だと思いつつも野戦病院に運び、死体安置所に置いた。この時、軍医は手榴弾と拳銃を握り締めたままの指を一本一本解きほぐしながら、米兵の野次馬に向かって、「これがハラキリだ。日本のサムライだけができる勇敢な死に方だ」と語った。

 ところがである。3日ほどして、舩坂は死体安置所にて息を吹き返し、むっくりと起き上がったのである。これには監視の米兵も恐怖に凍りついたという。もはや敵ながら米軍も舩坂に対し、敬意さえ払うのであった。

 その後、米軍の治療を受けて歩けるまで回復すると、重傷者の病棟の警備が甘いのをいいことに、看守の目を盗んで脱走してしまうのである。そして戦場に散乱する日本兵の遺体から火薬だけ抜き取り、1キロも離れた米軍弾薬庫まで匍匐前進し、爆破してしまうのである。爆破後は来た道を戻り、翌朝の自軍の点呼に何食わぬ顔で参加している。もうここまでくると、舩坂は本当に人間なのか疑わしいほどだ。

 その後、舩坂は再び捕まり、捕虜になる。そして、ペリリュー島捕虜収容所を去り、グアム、ハワイ、サンフランシスコ、テキサスと終戦まで収容所を転々と移動し、1946年に日本に帰国した。

■帰国

 故郷である栃木の実家では、45年12月に舩坂の戦死公報が届けられていたため、誰もが戦死したものと思っていた。ボロボロの軍衣で帰還した実家で、ご先祖に生還の報告をしようと仏壇に合掌したら、そこに真新しい位牌があって、「大勇南海弘院殿鉄武居士」と戒名が書かれていたという。村の人々も、帰ってきた傷だらけの舩坂を見て、これは幽霊に違いないとしばらく噂した。

■戦後、センター街のあの店が...

 その後舩坂は、戦争での強烈な体験から、自分の目で見てきたアメリカのあらゆる先進性を学ぶことが、日本の産業、文化、教育を豊かにすることではなかろうかと考え、焼け野原となった東京・渋谷駅ハチ公前の養父の地所に、わずか一坪の書店を開くのであった。これが、渋谷に来たら誰でも目にする「大盛堂書店」に発展するのである。舩坂は書店経営の傍ら、『英霊の絶叫・玉砕島アンガウル戦記』『血風 二百三高地』『ペリリュー島 玉砕戦』『サクラ サクラ ペリリュー島洞窟戦』『硫黄島 ― ああ!栗林兵団』『殉国の炎』『聖書と刀 ― 太平洋の友情』『関ノ孫六・三島由紀夫その死の秘密』などの本を出版。剣道を通じて親交があった三島由紀夫が帯を書いたものもあった。ちなみに本の印税は「世界中の人々に役立ててほしい」と、全額国際赤十字社に寄付したという。

 日頃、渋谷のスクランブル交差点を利用する筆者には、なかなか意外な話である。今は若者の街となってしまった渋谷であるが、そうした歴史の積み重ねがあって今があるということを忘れてはならないと再認識させてくれる。先人たちの教えから学ぶことは尽きないと、しみじみ思うのである。
(アナザー茂)

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