錦織圭の活躍で注目浴びた、96年前のレジェンド・熊谷一弥選手! 想像以上の偉業に迫る

錦織圭の活躍で注目浴びた、96年前のレジェンド・熊谷一弥選手! 想像以上の偉業に迫る

 9日、テニスの全米オープン決勝にて、惜しくも敗れてしまった錦織圭選手。しかし、熊谷一弥(くまがい いちや)氏以来96年ぶりの4強入りを果たし、さらに日本人初の決勝に勝ち進むという大きな偉業を達成した。

 錦織選手にばかりスポットライトが当たっているが、まだ日本のテニス界が黎明期であった約1世紀前に伝説を打ち立てた熊谷一弥選手もまた、想像以上に凄すぎる選手であった。

■軟式主流の時代に世界を睨む熊谷

 熊谷選手(以下、熊谷)は、1890年(明治23年)福岡県大牟田市で誕生。上京し、慶應義塾大学に進学するまでは野球部の主将を務め、陸上の中距離走でも活躍したスポーツ人であった。

 この時、日本におけるテニスの歴史はまだ浅い。

 貿易の窓口として横浜港が1859年(安政6年)に開港し、山手の外国人居留地に移り住んだ英国人によって持ち込まれたというテニス。今や観光地となっている「港の見える丘」公園より歩いて10分ほどの場所に、日本初の西洋式の公園である山手公園が作られ、1876年(明治9年)にそこでローンテニスがプレイされたのが日本テニスの発祥である。今でも山手公園に行けば同じ場所に記念としてクレイコートがあり、面影を忍ぶことができる。

 ただ、このローンテニスは今のテニスと違ってまさに貴族の遊び。プレーする大半は女性で、格好も頭にボンネット、ロングスカートに長手袋と、大変ゆったりとしたものであった。いわばテニスは社交の一環だったのだ。男性による激しいスポーツとしてのローンテニスは少数であった。

 しかし、フェリス女学院をはじめ、共立女学校(現・横浜共立学園)など、横浜の女子学園が教育の一環にテニスを取り入れるようになり、だんだんとテニスが浸透することになる。だが、我々が目にする黄色の硬球は舶来品で値段も高く、どうにかできないものかと試行錯誤のすえ生まれたのが、硬球をゴムボールで代用した軟式テニスであった。ゴムボールの採用によって、ラケットも独自のものが開発され、さらに独自のルールが作られ、テニスの普及に貢献することになる。

 熊谷も山手の「レディズ・ローンテニス&クロッケー・クラブ」で腕を磨いた1人であった。慶應の庭球部は1899年(明治32年)発足されたのだが、当時はどこの大学も軟式テニスのみであった。記録によれば、一橋大学、筑波大学が圧倒的に強く、1904年に初勝利をあげるまで、慶應大学は歯が立たなかったという。

 この頃から、野球同様テニスでも慶応・早稲田が台頭することになる。そして、軟式テニスプレイヤーであった熊谷は、海外の動向にいち早く目をつけていた。1877年には、第一回のウィンブルドン選手権が開催されるなど世界のテニス技術は目覚ましい進化をとげているというのに、「このままでは日本は取り残されてしまう」と、他の部員らとともに日本で初めて硬式テニスを採用するに至るのである。

■日本にいち早く硬式テニスを導入

 熊谷が慶應庭球部に硬式テニスを導入した1913年(大正2年)、慶應のチームメートとともにフィリピン・マニラの東洋選手権に出場、日本人初となる海外遠征を果たすことになる。この時熊谷は、シングルス準決勝とダブルス決勝に進出。優勝こそ逃すものの、熊谷の実力は世界に通用することが証明された瞬間だった。また、この時シングル・ダブルスともに優勝した、全米ランキング2位(当時)のビル・ジョンストンから大きな刺激を受けたという。

 熊谷が好成績を残した要因には、元々軟式テニスプレイヤーであった熊谷のプレースタイルにあった。硬式テニスの握り方とは90度異なるウェスタングリップを用いていたため、独特のドライブがかかり、海外の強豪選手を悩ますことができたのだという。

 それに加え、「サービス・アンド・ボレー」のプレースタイルを得意としていた熊谷は、赤土のクレーコートでは圧倒的な強さを誇っていたという。アメリカ遠征の際に、「在米3カ月間で約60人とシングルスを戦い、土のコートでは1セットも失わなかったが、芝のコートでは勝手が違い4人に負けた。また、サーブが強いのに閉口した」とコメントしている。熊谷が左利きであることを考えると、ナダル選手と重なるところが実に多いのも事実なのだ。

■アマチュアで出場した全米選手権

 そして、1918年(大正7年)の全米選手権で、熊谷は日本人のテニス選手として初のベスト4進出を達成するのである。当時の新聞も「熊谷氏優勢 国際テニス選手競技會に於いて勝利を博したり」と伝えている。日本人選手初の準決勝では、ビル・チルデンに「2-6, 2-6, 0-6」のストレートで完敗するも、翌年の全米ランキングでは「3位」に上がり、第1位ビル・ジョンストン、第2位ビル・チルデンの2強豪に続く結果を残す事になるのである。この準決勝について、後年熊谷は、「花粉症で試合中に涙が出てハンディになっていた」と弟子に語っている。

■アントワープ五輪で日本人として初のメダリストに! しかし銀に悔やむ

 陸上、水泳、テニスの計13名の日本選手団が参加した1920年(大正9年)のアントワープ五輪では、シングルス・ダブルス(柏尾誠一郎とペア)とも銀メダルを獲得して、日本人のスポ ーツ選手として史上初のオリンピック・メダルを獲得した。しかし、負けん気が強かった熊谷は銀メダルを獲ったことよりも、金を逃したこと悔しさの方が強かったという。同五輪の「選手団報告」には「銀メダル」の文字もなく、決勝敗退は「残念だった」と書かれているのみで熊谷の悔しさが伝わってくる。32年発刊の日本テニス協会10年史には「その夜ほど悲憤の涙にくれたことはない」と、熊谷自身が書いている。

■多数いた凄腕選手達、責任感が強すぎて自殺してしまった天才も...

 日本テニス界の黎明期に活躍したのは熊谷一弥だけではない。今ではあまり知られていないが、実に見事な結果を残している選手が多数いるのだ。1920年(大正9年)6月のウィンブルドンでベスト4、世界ランク4位にまで上り詰めた清水善造選手。彼は、1922年の全米オープンではベスト8まで勝ち進んだ。シングルス最高順位は、世界ランキング3位の佐藤次郎選手で、混合ダブルスでは、オーストラリアのメリル・オハラウッド選手と組んで1932年ウィンブルドンで準優勝を果たしている。

 しかし、これほどまでの成績を残しながら成績に満足をしなかった佐藤選手は、なんとヨーロッパ遠征の帰国中にマラッカ海峡に投身自殺をしてしまうのである。

 このニュースに当時世界中が驚きに包まれた。オーストラリアのテニス・ジャーナリスト、ブルース・マシューズは自著『ゲーム・セット・栄冠-オーストラリア・テニス選手権の歴史』(全豪オープンの歴史書)にて、「当時の観客は(佐藤の試合を通して)生死をかけた闘いを見ていることに気づかなかった。(今となっては)探り得ない佐藤の心は(5度の準決勝敗退を)天皇と日本国民を失望させる、耐え難い屈辱とみなした」と述べている。もし生きていれば四大大会を制していたかもしれないのに...だ。

 日本テニスの黎明期に活躍したレジェンド、熊谷一弥選手は應義塾大学を卒業後、現在の三菱東京UFJ銀行に勤務するようになり、ニューヨーク駐在員としてアメリカに拠点を移した。テニス活動は続けるものの、地位としては一介のアマチュアプレイヤーに過ぎなかった。そして、1968年8月16日、故郷の大牟田市で77歳の生涯を閉じた。これは、テニスの4大大会が初めてプロ選手の出場を解禁した年であった。

(アナザー茂)

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