VXガス、サリン… 殺人神経ガスを徹底解説! 背景にナチスと殺虫剤と謎の研究所
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「毒ガス」と呼ばれる化学兵器の中でも、少量で人間クラスの大型動物をも数分以内に死に至らしめる、最強ジャンルに、「神経ガス(nerve agent)」があります。神経ガスの一群は、人間を瞬時に殺すことを研究してできあがった、まさに殺人専用化合物です。

 ただし、神経ガスといっても“蒸気圧(揮発しやすさ)は低いものから高い物”までさまざまで、単体が化学兵器として使われるというよりは、アセトンやクロロホルム、ベンゼンのような有機溶剤に溶かされた状態で運用されることが多いので、神経「ガス」と呼ばれているだけで、化合物としての性質はまちまちです。

 ともあれ今回は、有名な「サリン」をはじめとして、数多くの人殺し専用化合物が生み出された「神経ガス」が完成するまでの壮絶な歴史背景と、その効果についてまとめておきましょう。

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●すべての始まりはドイツの殺虫剤研究者

・サリン誕生とナチスドイツ

 殺虫剤というのは虫の見た目には何の影響も与えず、“吹きかけるだけでコロンと殺せてしまう”わけで、これ即ち、昆虫の神経に直接作用して致死的な効果をもたらしているということになります。

 もちろん大半の殺虫剤は、昆虫の生理機能には極めて猛毒でも、我々ほ乳類にとっては毒性を気にするレベルではありません。しかし、科学的にみれば虫と人の逆転殺戮ガスもありえます。例えば一酸化炭素なんかは、人間には超低濃度でも猛毒ですが、昆虫の血液は一酸化炭素と反応することがないので、たとえ致命的な濃度でも虫は平然としているわけです。

 閑話休題。

 サリンをはじめとする神経ガスは1936年(昭和11年)ナチスドイツ、殺虫剤が効きにくいシラミに対して有効な殺虫剤を研究している最中に偶然発見されました。

 開発者はIGファルベン社(Interessen-Gemeinschaft Farbenindustrie)のゲハルト・シュラーダー博士。

 当時博士は、このシラミに対して有効な新型殺虫剤(のちにタブンと銘々される)をデモンストレーションしたのですが、シラミはもちろん実演を見に来た人もバタバタと縮瞳を起こして倒れるというトラブルがあり、それがナチス政権の耳に入り、殺人ガスの研究をするように命じられました。その後博士の下に、何人かの化学者が加わり、「サリン」が開発されたのです。

・「サリン」より強力な「ソマン」の誕生

 当時のドイツは世界的にも化学に突出しており、空気から火薬を作ったり(ハーバー・ボッシュ法)、メタンフェタミン(覚醒剤)などを合成して実用化していました。その素地の上で、比較的低分子の有機リン系の誘導体を開発するのはそれほど難しいことではなかったようです。

 サリンというのは、毒ガス研究リーダーである「Schrader(シュラーダー)のS、AmbrosのA、RudrigerのR、Lindeのin(強引)」の頭文字を合わせて付けられた名前です。

 その後さらに強力な「ソマン」が開発されます。

 しかしこれは、戦時中は使う機会がなかなか無く、最終的には運搬する飛行機さえ手配できなくなりました。最終的に、完全に兵器としてはお蔵入りし、第二次世界大戦では実は使われていません。


●ロシア→米→英と、毒ガス製造法を入手。猛毒神経ガス「Gシリーズ」の誕生

 けれども第二次世界大戦後期、ソビエト(現:ロシア)の進軍により製造所が突き止められ製造法が流出、さらに戦後、アメリカやイギリスがこれらの神経ガスの存在を接収することで研究は続きます。

 戦後、連合国側では「タブン、サリン、ソマン」を初めとする神経ガスをGシリーズとして呼称し、現在もタブンをGA、サリンをGB、ソマンをGDガスなどと呼びます。タブンやサリンは分解性が高かったのですが、兵器として使うには当時の技術では不可能だったようです。しかしソマンは安定性が非常に良く、それゆえ、ナチスドイツの最終兵器として最後まで存在が隠されていたようです(やっぱり使われなかったのですが)。


●VXガスの誕生、やはり殺虫剤から生まれた

 さて、金正男氏暗殺に使用されていたといわれる「VXガス」についてです。1954年、英国のインペリアル・ケミカル・インダストリーズ(ICI)で殺虫剤を研究していたラナジット・ゴーシュ博士がイオウを含む有機リン系の化合物を研究していました。これらは非常に強力な殺虫剤「アミットン(Amiton)」と呼ばれるもので、まさかの“サリンと同程度の毒性”があることがわかり、発売停止となりました。

 しかし、それを知った“ある研究所”が研究を引き継ぎます。

 その研究所こそ、イギリスの生物化学兵器の研究所で、連合軍が接収したサリンなどのGガスシリーズの研究を引き継いだポートンダウン研究所です。この研究所では、アミットンの可能性を伸ばすために研究を続け、様々な誘導体を開発します。

 1950年代後半に、イギリスとアメリカで核開発技術関連で、このアミットンの関連化合物の情報がアメリカにも伝わり、1960年代初期には、当時最強の神経ガスであろうと思われる、VXガスがついに誕生します。


●バイナリー兵器「VRガス」の開発

 一方、独自にGシリーズの製造法を手に入れたソビエトも独自開発を進めます。そして、有機リン系分子的な骨格に、VXシリーズと同様に“イオウ”を導入した「VRガス」という化学兵器を1950年代後半に開発したとされています。

 VRガスは、無害の状態の二つの化学物質を投射時に混合して、猛毒物質を作り出す「バイナリー兵器」としての運用を目的としていました。保存時は安定した2液、ないしは3液の状態で貯蔵されていて、発射時には中で反応が開始し、命中時に体内にバラまく事ができるという、保存に難の多かった神経ガスを合理的な化学兵器としたものです。

 開発者はSergei Zotovich Ivin、Leonid Soborovsky、Iya Danilovna Shilakovaの3名で、33番目の試験試薬ということからソビエトでは「substance-33」というコードネームで呼ばれていました。

 そして冷戦後、これらの情報が亡命した化学者によってバラされ広まり、さらに強力な「Aシリーズ」と呼ばれる神経ガスの存在も明らかになっていくのです。

 では、その神経ガスがどのように我々の神経の構造を逆手にとって、命を奪うのか、その仕組みを分子的な目で見てみましょう。表向きでは一度も実戦投入されていないこれらの毒は、どのように毒性検査されたのか? 実は、戦争がない時代にイギリスでこっそりと人体実験が行われていたことが判明しています。


●アントラー作戦/ポートンダウン研究所(英国)

 1999年7月。イギリスの生物化学兵器の研究施設であるポートンダウン研究所に、警察による大規模な強制捜査が執り行われました。押収された捜査資料は膨大で、被害者と被害を確認するまで、のべ5年もかかるほどでした。押収された実験データによると、1939年から1989年までに秘密裏かつ大規模に行われていた人体実験「アントラー作戦」が判明しました。

・8000人のボランティアでのマスタードガスの毒性試験(治療試験)
・3400人以上での神経剤の毒性実験と治療(PAMなどの有効性試験/1945年)

 大半のボランティア(治験者)は、多額の報酬を受け取り、その実験を口外しなかったために公にならなかったのですが、死者も出ています。

 それがロナルド・マディソンという当時20歳の空軍二等兵。サリンの被爆実験(200mg)で、当然、解毒剤投与など救命処置は行われたものの、45分後に死亡。

 アントラー作戦後の2004年までこのことは隠蔽されていたというもので、当時、病院へ搬送を行った救命士の手記などが公開されています。


●神経ガスの毒性の仕組み

 さて、このように猛烈な毒性はどこから来るのでしょうか? 神経ガスの主な毒の作用は、アセチルコリンエステラーゼの阻害による神経の過剰興奮です。

 まず、神経というのは神経と神経の連絡場所、もしくは筋肉や臓器なんかに繋がっている場所では、物理的にビタっと張り付いて神経の情報伝達をしているのではなく、ほんの小さな間隔があり隔てられています。その神経からの連絡に使われるのが、神経伝達物質というもので、それが受容体というものに入り、電気信号は一端、化学信号に置き換わって、再度受容体に入ると電気信号として伝達されていきます。  

 この神経伝達物質(リガンドとも言う)と受容体(レセプターとも)の模式図は、一度は見たことがあるひとも多いと思います。この神経伝達物質と受容体は、神経の種類や場所ごとに、それぞれモノが異なるという特徴があるのです。

 今回の毒である、VXやサリンといった有機リン系の化合物は、アセチルコリンエステラーゼを標的としています。この意味と仕組みを説明しましょう。


●アセチルコリンエステラーゼとは?

 アセチルコリンは脳内では記憶にまつわる回路で多く使われており、体では筋肉の制御のための神経で多く使われています。神経に動かせという電気信号が伝わってきたら、それを神経の終末部(神経筋接合部)でアセチルコリンが放出されて、筋肉に繋がっている場所でアセチルコリン受容体があり、受け取ると「電気信号来ました」ということで、筋肉が収縮するというわけです。

 もちろんこうした一連の動作を意識的にする必要はなくて、心臓動かしてるナウ、横隔膜ひっぱってるナウと意識してる人はいませんね(笑)。そうした動きはすべて無意識でできるように体はうまくコントロールしているわけです。

 そして、神経の伝達を行うアセチルコリンですが、受け取る側(受容体側)にアセチルコリンエステラーゼという酵素があって(実際にはもう1種類あり)、受容体に入ったアセチルコリンを分解して受容体から引きはがします。そうすることで、興奮状態は終わり、次の情報伝達に供えることが出来るわけです。

 このアセチルコリンエステラーゼが居なくなると、アセチルコリンが入りっぱなしになり、神経がずっとオンの状態になって「これはひどい」ってなっちゃうわけです。つまりは興奮しっぱなしの状態になり、痙攣とかし始めて、それが心臓にいけば心停止とかになるわけです。

 アセチルコリンエステラーゼは1分子あたり、4×10の5乗個のアセチルコリンを分解する能力があります。結構仕事の多い酵素というわけです。ゆえに数が少なく、その数の少ない酵素に結合して機能を奪うことで、毒性が出ます。そういう意味ではサリンなどの有機リン系毒は極めて極悪というわけです。


●治療法

 治療法は、そのままだとアセチルコリンエステラーゼが仕事をしてくれないので、元に戻す解毒剤「ヨウ化プラリドキシム(プラリドキシムヨウ化メチル)(商品名パム静注/大日本住友製薬)」を使用します。また、神経の興奮を抑える「アトロピン」なんかもさらに症状を抑えるために解毒剤として機能します。

 ちなみに他の神経や筋肉に繋がっている部位をシナプスというのですが、

・伝える方を前シナプス
・伝えられる方を後シナプス
・筋肉につながってる場所は神経筋接合部

 と呼ぶということを覚えておきましょう。

 ちなみに、サリンやVXより遙かに少量で猛毒を発揮する「ボツリヌス毒素」は、神経の“前シナプス”に入り込むとその細胞自体を殺してしまうというさらなる根元破壊毒です。細胞が死ねばアセチルコリンの分泌を止めることになります。要するに、アセチルコリンエステラーゼを阻害して興奮状態を止めないように細胞をいじめて殺すのではなく、毒分子1個で1細胞が殺せるくらいの猛烈な作用があるために、サリンやVXなんかより遙かに強力な毒として働くわけです。  
(文=くられ)


※イメージ画像:「Thinkstock」より