
高校野球で茨城の取手二、常総学院の監督として春1度、夏2度の甲子園大会優勝を成し遂げた木内幸男さんが24日午後7時5分、肺がんのため茨城県取手市の病院で死去した。89歳。甲子園では数々の名勝負を繰り広げたが、その中でもいまだに語り継がれるのが、1984年夏の甲子園決勝「取手二―PL学園戦」。桑田、清原の「KKコンビ」を擁するPL学園に、夏の選手権大会で唯一黒星をつけた試合だ。本紙はその試合で捕手を務め、決勝の舞台でダメ押しの3ランを放った中島彰一氏に2017年1月インタビュー。〝マジック〟が冴え渡ったあの日をもう一度振り返る。
「木内マジックと、よく言われますが、木内さんほどオーソドックスな野球をする人を僕は知らない。人間掌握術にはたけていましたが、采配に関しては本当に当たり前のことしかしない人だったんですよ」
木内マジックが広く世間に知られたのはPL学園との決勝9回裏、一打サヨナラの場面でのワンポイントリリーフ。だが、その伏線は決勝から2か月前、PL学園との練習試合にまでさかのぼる。その年の春、関東大会初戦で接戦の末敗れた取手二ナインは、木内監督に「頭を冷やせ」と1週間の休養を与えられた。練習から解放され大喜びのナインだったが、休み明けに指揮官から思いもよらぬ言葉があった。
「『俺はレギュラーには休みをやったが、補欠も休んでいいとはひと言も言ってない。補欠は全員今すぐ辞めろ』と。全員頭にきて、今度は1週間のボイコットですよ。最初の1週間はあんなに楽しかったのに、次の1週間は散々。それまでいいチームだと思ってたのに、気づいたらバラバラの状態になっていました」