
【ID野球の原点・シンキングベースボールの内幕(最終回)】野村克也氏の代名詞とも言えるのが、データを重視した「ID野球」。その原点となったのは南海時代にドン・ブレイザー氏が日本に持ち込んだ「シンキングベースボール」だった。「ブレイザーの陰に市原あり」と呼ばれた側近の市原實氏が、2007年に本紙で明かした内幕を再録――。(全16回、1日2話更新)
1980年のシーズン途中に阪神を退団したブレイザーは翌81年、南海の監督に就任。だが、その手腕を存分に発揮することはできなかった。3年契約を結んだ2年目のシーズン中に不整脈が出てしまい、82年のシーズン終了後、米国へ帰ることになった。
「ムースともう1回やれたらよかったのにな…」。ブレイザーは別れ際、私にそう言った。77年までに野村克也とともに築き上げた南海の頭脳野球は、2人が退団した後の3年の間に失われていった。江夏豊、柏原純一らの主力はチームを去っており、最大の理解者であり投手陣をリードで支えた野村ももういない。ブレイザーは土台作りを任された中、志半ばにして帰国していった。
だが、選手、指導者として、16年もの長きにわたって日本球界にかかわってきたブレイザーが残してくれた財産は大きかった。シンキングベースボールは多くの野球人に影響を与え、この連載などで私が触れてきた戦略の一部は、将来の日本球界を担う少年たちにも生かせる部分が多いハズだ。
野球は体格だけのスポーツではない。体が小さく、足が遅い少年でも頭を使った野球を教えてあげることで野球が楽しくなる。野球には様々な作戦があり、そんな相手の作戦や配球を読み、投手を研究する。指導者が選手の方向性、どんなタイプになったらいいかを適切に助言してあげることができれば「これくらいなら自分にもできそうだ」と興味を持って取り組むことができる。結果が出れば野球がさらに楽しくなるだろう。