ナイターなのに朝イチから…メジャーの監督もうなった上田利治の野球熱

ナイターなのに朝イチから…メジャーの監督もうなった上田利治の野球熱
前期優勝を決め、胴上げされる上田監督(1978年6月)

【越智正典「ネット裏」】また、時代を作った男が逝った。上田利治は徳島・海南高から関大にトップで入学した。3番目だったという説もあったが、二人が私立公立併願で公立に行ったので、試験成績、部活点、人物考査…まぎれもなく首席入学であった。

 関大では村山実阪神)とバッテリーを組んでいたが、1959年、広島カープに誘われて入団した。この年、カープは後援会の“1千万円募金運動”で迎えられて活躍していた小鶴誠をはじめ11選手が退団。“東都の長嶋”興津達雄、高校球界から投手大石清(清水商)、左腕大羽進(日大一)ら19選手を獲得。若返りを図っていた。平均年齢が21・9歳のチームになっていた。

 田中尊が正捕手で頑張っていて、上田の3年間の成績はパッとしなかった。出場121試合。ヒットは56本。ホームランは2年目に1本、3年目に1本。打率は2割1分8厘。が、オーナー松田恒次が将来必ず大を成す…と彼の人物を見抜いた。東洋工業の将来の幹部候補の管理職研修会に出席させた。62年に25歳の上田をカープのコーチに持っていった。野球には燃え、普段はさっぱりしている彼を若い選手が兄のように慕ったが、フロントや年輩のコーチからはオーナーのお声がかりと“敬遠”された。

 69年秋、彼は退団し、故郷徳島県宍喰町(現海部郡海陽町)に帰った。訪れると波の音を聞きながら昼寝をしていた。目を覚ますと、少年時代に町の十字路でやった“四ツ辻野球”を友だちと語り合っていた。孤独で、しかし心安らいだときだった。宍喰の70年の春が終わり、夏になると、彼はMLBを勉強しようと渡米した。翌71年、私はMLBを訪ねたが、どこへ行っても“昨年、ナイスな男、ウエダが日本から来たよ。ナイターなのに朝8時にはスニーカーを履いて来たよ。試合が終わるまで見ていたよ”。私は呆れたが、うれしかった。彼の一生懸命な姿がまだ語られていたからだ。


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