東京都千葉県の境を、渡し船と路線バスで越えるルートがあります。歌謡曲や映画でも有名、いまや自動車のナンバープレートの図柄にもなった「矢切の渡し」。

その世界を楽しみつつ、川風を感じながら“東京脱出“してみましょう。

川風の中で深呼吸しながら、渡し船で都県境越え!

 東京と千葉の都県境は、利根川の分流である一級河川・江戸川です(一部は旧江戸川)。都県をまたぐバス路線は少なく、鉄道で越えるのが一般的ですが、そのなかで、バスと渡し船を乗り継いで都県境を越えるルートが存在します。数々の映画や歌謡曲、文学、アニメの舞台ともなった「矢切の渡し」(葛飾区~松戸市)を利用するものです。

再熱? 車のナンバーにもなった「矢切の渡し」なぜ残ったか バ...の画像はこちら >>

京成バス「矢切の渡し」バス停。松戸駅から渡船場まで乗り入れる(宮武和多哉撮影)。

 京成金町線 柴又駅から柴又帝釈天(題経寺)参道を歩き、境内を抜けるとみるみる人影もまばらに。江戸川へと近づくにつれて、冷たい川風が吹き寄せ、東京「都」から離れつつあることを否が応でも感じさせてくれます。

 この辺りは、映画「男はつらいよ」シリーズにたびたび登場しています。河川敷沿いの川魚料理店「川湛(かわじん)」(2021年1月閉店)も、寅さんのお見合いや妹・さくらの結婚披露宴などの名シーンでお馴染み。中には「タコ社長(演:太宰久雄)がバイクごと玄関の中まで突っ込む」など、同店が撮影に協力したこと自体に驚く場面を記憶されている方も多いでしょう。

 そんな江戸川河川敷の一角に、白ペンキで木板に殴り書きしたような「矢切の渡し」看板があります。

呼び出し用のブザーを押すと、しばらくして対岸から船頭さんが船を漕いでやってきます。

 江戸川を渡る10分ほどの旅がいよいよ始まりますが、上流から下流への川風がほぼ常時吹き寄せ、市街地との体感温度はマイナス3度くらいありそうです。車通りの激しい「金町バイパス」の橋を上流に眺めつつ、小舟の上では澄み切った空気を味わうことができます。

 対岸は千葉県松戸市の矢切地区です。木製の桟橋を踏みしめつつ船を降り、堤防に駆け上がると、特産品「矢切ねぎ」などの畑が一面に広がっています。

 ここから松戸駅までは京成バスの松31系統で20分ほど。

かつては渡船場から「矢切の渡し入口」(旧称「矢切高校前」)バス停まで1kmほど徒歩での移動を要しましたが、2012(平成24)年に現在の終点「矢切の渡し」バス停と転回場、観光案内所などが整備され、土休日の一部便のみではあるものの渡船場近くまで乗り入れるようになりました。

なぜ残った?「矢切の渡し」廃止の危機を聞いた“作曲家”とは

 映画「男はつらいよ」シリーズや歌謡曲「矢切の渡し」で脚光を浴びた矢切の渡しですが、東京都内で唯一残ったこの渡し船は、両岸の柴又・矢切地区の大切な生活の足として「官から民へ」引き継がれてきた歴史があります。

 江戸川の渡し船は江戸時代には数多く、1616(元和2)年頃、利根川水系で関所の役割も持っていた「定船場」は16か所、のちに分流となった江戸川(江戸時代初期は「太日(ふとい)川」)には2か所設けられていました。当時は江戸幕府を揺るがした「大坂夏の陣」がようやく収まった頃で、江戸の街を囲む「巨大な堀」代わりとなる利根川水系の往来を、厳しく制限する必要があったのです。

 しかし矢切の渡しは上記の「定船場」には含まれず、近隣の農民など限られた人が利用する「百姓渡し(農民渡船)」と呼ばれるものでした。ただ幕府による運営・管理は変わらず、外部の人間が許可なく利用すると関所破りのかどで、獄門・磔などに処されたそう。

 明治維新以降に往来が解放され、江戸川には橋が架けられていきます。矢切の渡しの1kmほど上流にあった水戸街道「松戸金町の渡し」なども消える一方、柴又帝釈天が門前町として発展したことで農耕地が減少し、対岸に畑を求める農民が増えたことなどから、矢切の渡しは個人に委ねられ運航が続きました。千葉県側の矢切地区は最寄りの鉄道駅から遠く、渡し船は最短距離で通勤・通学できる「生活の足」として残ったのです。

再熱? 車のナンバーにもなった「矢切の渡し」なぜ残ったか バスと船で都県境越え

船上から下流側にかかる京成線江戸川橋梁を見る(宮武和多哉撮影)。

 しかし、道路の整備や農業従事者の減少によって、昭和40年ごろには廃止の危機を迎えます。その頃、渡船場には今にもバラバラになりそうな船が浮かんでいたとか。

「なくなるよ、そりゃ誰も乗らないもの」。こんな話を、あるとき近くの居酒屋で作曲家の船村 徹さんが聞いたそうです。その船村さんが作曲を手がけ、1976(昭和51)年にちあきなおみさんの歌唱で発売された曲が「矢切の渡し」でした。1983(昭和58)年に細川たかしさんがカバーしたシングルがミリオンセラー(102.5万枚)の大ヒットを記録すると、渡し船は観光ルートとして一躍息を吹き返したのです。

寅さんは矢切の渡しにわざわざ乗った? 「聖地」が多すぎる件

 さまざまな試練を乗り越えてきた「矢切の渡し」はその都度、息を吹き返しつつ現在に至ります。いまでは「松戸」の図柄入り自動車ナンバープレートに手漕ぎ船と船頭が描かれるなど、都県境を越えた地域の象徴的な存在にまでなっているといえるでしょう。

 現地に行く場合、事前の予習として、関連する映画や歌謡曲、漫画をチェックしておくと、感慨深いものになるかもしれません。

 たとえば映画「男はつらいよ」で矢切の渡しは何度か登場しますが、その最初は第1作の冒頭、寅さんが20年ぶりに柴又へ帰郷する有名なシーンです。ただ公開された1969(昭和44)年当時、矢切周辺には北総鉄道の矢切駅はおろかバス路線もなく、千葉県側から船に乗るには松戸駅から4kmも歩く必要がありました。

「なぜ寅さんは“わざわざ”矢切の渡しを?」と疑問に思う人もいるようですが、そんな詮索こそ野暮というものでしょうか。渡船場や前出の「川甚」だけでなく、寅さんの実家として描かれた「とらや」などの撮影が頻繁に行われていた帝釈天の参道を歩くのも良いでしょう。

再熱? 車のナンバーにもなった「矢切の渡し」なぜ残ったか バスと船で都県境越え

柴又帝釈天 題経寺(宮武和多哉撮影)。

 映画以外でも、「描かれた矢切の渡し」は枚挙にいとまがありません。古くは1906(明治39)年に発表された伊藤左千夫の小説「野菊の墓」で、主人公の斎藤政夫が従姉妹の民子に想いを残しつつ、進学で矢切を離れる場面にて渡し船が登場します。

 そして、この渡しを舞台にした男女の逃避行を描いたのが、歌謡曲「矢切の渡し」の歌詞です。ちあきなおみさんの鬼気迫る歌唱から4年後にリリースされた、細川たかしさんのシングルがミリオンヒットを記録すると、柴又側の河川敷で開催されたイベントに1万人以上が押しかけたそうです。

 帰りには、柴又側の渡船場から上流の浄水場も見ていきましょう。「こちら葛飾亀有公園前派出所」テレビアニメ版のオープニング曲「葛飾ラプソディー」で、歌詞にも登場した「とんがり帽子の取水塔」があります。夕暮れ時に訪れると、歌詞の続きにある「帝釈天に夕陽が落ちる」さまも続けて眺めることができます。