自衛隊の航空機が乗り逃げされるとなると大事件であり、1973年に起きた「自衛隊機乗り逃げ事件」は広く知られますが、その影に隠れ後世にあまり知られていない事件があります。1962年6月に起きた「航空自衛隊機乗り逃げ未遂事件」です。

謎が無かったからいまでは謎の事件

 1973(昭和48)年に起きた「自衛隊機乗り逃げ事件」は、謎の多さから話題性が強く、創作やテレビでもネタに取り上げられてきました。そういう背景もあってか、「自衛隊最大のミステリー」として知名度は高い方かもしれません。

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岐阜かかみがはら航空宇宙博物館に展示されているT-33A。航空自衛隊の同機は2000年を最後に、全機が除籍されている(石動竜仁撮影)。

 一方、同じ自衛隊機の乗り逃げ事件(未遂)でありながら、いまひとつ知名度の低い事件があります。それが1962(昭和37)年に起きた、「航空自衛隊機乗り逃げ未遂事件」です。こちらは未遂で犯人が逮捕され謎となる部分が少なかったのと、事件がしばらく隠されていたためか、ほとんど知られていないようで、これを書いている2019年5月現在、Wikipediaにも記事ページが無いどころか、ネット上にもほとんど情報がありません。

 今回はそのような、事件に謎の部分が少なかっただけに、逆に後世では謎の事件となっている「航空自衛隊機乗り逃げ未遂事件」について書いてみたいと思います。

突然の発表

 1962年9月10日、防衛庁(当時)が突然の発表を行いました。同年6月24日午後3時頃、航空自衛隊第4航空団第7飛行隊所属の整備員、T 2等空曹(当時26歳)がT-33Aジェット練習機に乗り松島基地(宮城県矢本町〈当時〉)から離陸後、10mほど飛行したものの、そのまま基地内に墜落。機体は中破し、Tは持っていたナイフで割腹自殺を図ったものの、命に別状なく逮捕された、という事件のあらましです。

 事件発生から2か月半後の発表でしたが、発表されたその日はTの第1回公判日で、公の場に出るギリギリまで事件が秘匿されていたことになります。

Tは自衛隊法第121条(器物破損)、窃盗、国外逃亡(出入国管理法違反)、無許可操縦(航空法違反)で起訴されました。

 Tは一体、なぜこんなことをしたのでしょうか。

生まれ故郷のハルビンに行きたかった

 南満州鉄道(満鉄)職員を父に持つTは、中国東北地方のハルビンに生まれ、1946(昭和21)年に家族と宮城県へ引き揚げるまでそこで暮らしていました。高校卒業後は航空自衛隊に入隊し、航空自衛隊整備学校(現・第1術科学校)で教育を受けた後は、整備員として勤務していました。

 職場では目立たない男だったというTでしたが、日頃から「ハルビンに行きたい」と周囲に漏らしていました。しかし当時、日本と中国(中華人民共和国)とのあいだに国交はなく、ハルビンに行くことはまず無理でした。

 そこでTは、自衛隊機でハルビンに向かうことを計画しました。

用意周到な計画、本人を除いて

 Tはハルビン行き実行にあたり、松島基地内にあったF-86F戦闘機の、脚上げスイッチのリード線を切断します。これは自分を追跡できないようにするための工作で、計画的な犯行であったことをうかがわせます。

整備員はなぜ飛ぼうとした? 知られざる「航空自衛隊機乗り逃げ未遂事件」の顛末

青森県の三沢基地に屋外展示されている、F-86F「セイバー」戦闘機。機体左側はアメリカ軍機、右側は空自機仕様のペイントが施されている(画像:アメリカ空軍)。

 しかし、Tは飛行機の整備技能はあっても、操縦経験はありませんでした。

T-33Aのエンジンを始動させ、滑走路まで移動し、2400mを滑走して離陸することには成功するものの、離陸後10mで基地内に墜落。ハルビン行きは失敗し、Tは逮捕されました。

事件が隠されたワケ

 逮捕されたTは「生まれ故郷のハルビンに行きたかった」「世間をあっと言わせたかった」と供述しており、仙台地検も思想的な背景は無いと判断していたことが報じられています。

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航空自衛隊の松島基地。アクロバットチーム「ブルーインパルス」のベースとして広く知られる(画像:航空自衛隊)。

 さて、事件のその後です。「自衛隊機乗り逃げによる国外逃亡未遂」という、前代未聞の事件を起こしたTは懲戒免職の後に裁判に。Tの上司にあたる整備小隊長と第7飛行隊長は減給処分。第4航空団司令は進退伺を提出するなど、航空自衛隊内でおおごととなっていたにも関わらず、事件は2か月半も公にされませんでした。

 その理由は何だったのでしょうか。前述した防衛庁の発表ののち、たとえば読売新聞では共産圏への計画的逃亡と見て極秘捜査が行われたと報じ、毎日新聞では国会の会期終了を待って発表したと推測しています。また、朝日新聞「天声人語」では、事件がちょうど元航空幕僚長が出馬する選挙戦中だったからではと、各紙で様々な推測が見られましたが、結局のところ真相は明らかにされないまま、いまに至ります。

 事件から10年後の1972(昭和47)年9月。日本と中国の国交が回復し、両国を行き来することが可能になりました。Tは故郷のハルビンに行くことができたのでしょうか。

【地図】T-33Aは飛べたのか? 松島基地とハルビン市の位置関係

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ハルビン市は中国東北部の都市。航空自衛隊 松島基地からは直線距離で約1450km。仮に、Tに充分な操縦技能があれば、T-33Aの航続距離(およそ2000km)で到達可能な距離だった(国土地理院の地図を加工)。

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