国鉄分割民営化後、東海道・山陽新幹線の高速化を図るために開発されたのが300系電車です。出力増強と軽量化で最高速度を大幅に向上。

従来車とは一線を画したシンプルな構成は、営業面でも現在の東海道・山陽新幹線の基礎となりました。

徹底的な高出力化と軽量化を図る

 東海道・山陽新幹線の300系電車は、新幹線をさらに速くする高速化の先駆けとなった車両です。国鉄分割民営化により東海道新幹線の運営を引き継いだJR東海が開発し、1992(平成4)年にデビュー。当時220km/hだった東海道新幹線の最高速度を50km/hも引き上げて270km/hで走り、3時間近くかかっていた東京~新大阪間を2時間30分に縮めました。

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東海道・山陽新幹線を走る300系(2011年10月、恵 知仁撮影)。

 東海道・山陽新幹線では、1964(昭和39)年の東海道新幹線開業時から1980年代まで0系が製造され続けました。1985(昭和60)年にデビューしたモデルチェンジ車の100系も走行装置は0系との大きな違いがなく、最高速度も200km/h台前半のまま。そこでJR東海は飛行機との競争力を強化するため、速さを追求した新型車両として300系を開発することに。0系以来初のフルモデルチェンジ車といえます。

 モーターは100系に比べ出力が3割ほど増強された交流モーターを使用。モーターを制御する装置も、「VVVFインバーター」という電気を効率的に使うことができる方式を採用し、機器類の小型化と軽量化を図りました。

 それだけではありません。

車体は鉄より軽いアルミ合金を使用。座席の重量も、100系はひとりあたり28kgだったのに対し、300系は半分以下の12kgに抑えています。16両編成の場合、0系の編成重量が1000t弱、100系が約830~850tだったのに対し、300系は710tに抑えられました。

 しかし、列車は速くなればなるほど空気抵抗が強くなり、その騒音も大きくなります。そこで、先頭は上の車体と下のカバーが滑らかにつながる一体的なデザインに。さらに車体の高さを40cm下げて重心を低くし、100系で採用された2階建て車は導入しませんでした。この結果、走行抵抗は約2割抑えられました。また、線路の上にある電線(架線)から電気を取り入れる集電装置(パンタグラフ)は数を減らし、風が直接当たらないよう大きなカバーを設置。これにより騒音を抑えています。

普通車とグリーン車だけのシンプルな編成に

 車両は16両編成中、普通車が13両で、残り3両はグリーン車。0系や100系と異なり食堂車は連結されず、ビュッフェやカフェテリアも設けられませんでした。速度が速くなればなるほど車内での滞在時間が短くなり、飲食類を提供する必要性も薄れたといえるでしょう。

東海道・山陽新幹線「300系」どんな車両だった? 50km/hも速くなった初代「のぞみ」

「リニア・鉄道館」で展示されている300系(2019年4月、草町義和撮影)。

 本格的な供食設備が設けられなかったことから座席数が増え、1編成の定員は普通車1123人、グリーン車200人の合計1323人に。これ以降、東海道新幹線を走る列車は定員1323人の16両編成に統一されていき、現在の同線の営業面の基礎も作ったといえます。

 ちなみに、東海道・山陽新幹線は各駅停車の「こだま」と主要駅のみ停車する「ひかり」の2種類でしたが、300系で走る高速列車には新しい名前を付けることになり、JR東海は外部有識者による選考委員会を設置しました。

 2010(平成22)年6月17日付けの読売新聞中部朝刊によると、JR東海は「エース」「きらら」「つばめ」「きぼう」などを列車名の候補として挙げ、このうち「きぼう」が同社内部で人気が高いと選考委員に説明しました。

 これに対し、選考委に参加していた作家の阿川佐和子さんは「昔から日本の列車名には大和言葉が使われている、と父が申しておりました。『きぼう』を大和言葉にすると『のぞみ』ですね」と話し、「のぞみ」に決まったといいます。阿川さんの父は、鉄道好きで知られる作家の故・阿川弘之さんです。

 300系は100系より少し多い1120両が1998(平成10)年まで製造され、当初は「のぞみ」を中心に運用されました。その後、新型車両の登場により2007(平成19)年から廃車が始まり、2012(平成24)年にすべての車両が引退。いまはJR東海のリニア・鉄道館(名古屋市港区)で先頭車が展示されています。

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