世のなかに双胴機は数多くありますが、同じ機体をふたつ横に連結させた双子機は少なく、100機以上生産され、実績も残したものというと、アメリカ製のF-82「ツインマスタング」ぐらいしかありません。いったい、F-82はどんな機体だったのでしょう。

双子のマスタング、「ツインマスタング」誕生

 飛行機の世界では、胴体がふたつある機体のことを双胴機といい、なかでも単胴機をふたつ繋げてひとつの機体に仕上げたものを「双子機」と呼びますが、なぜそのようなものを作ったのでしょうか。

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「ツインマスタング」の試作機。2機の「マスタング」が主翼と水平尾翼でつながっている(画像:アメリカ空軍)。

 双子機は、特に既存機を流用して開発した場合、比較的簡単な改修で搭載量や航続距離を向上させることが可能だったため、軍用タイプは第2次世界大戦中、各国で実機が製作され、ドイツとアメリカでは正式採用にまで至っています。

 しかし、ドイツのものはグライダー曳航用に開発したもので、ほとんど使用されませんでした。一方、アメリカのF-82「ツインマスタング」は戦闘機として朝鮮戦争にも投入されました。

 同機は、まさに双子が手をつないでいるような外観で、機体の中心線から右と左でそっくりの形をしています。操縦席もふたつあり、パイロット2名が乗り込みました。

 そもそもF-82「ツインマスタング」の原型は、P-51「マスタング」戦闘機です。この戦闘機は「第2次世界大戦中の最優秀戦闘機」といわれることもあるほどの高性能機で、1940(昭和15)年10月26日に初飛行すると、1942(昭和17)年から本格運用が始まり、わずか3年ほどのあいだに約1万7000機が生産され、大戦後も朝鮮戦争などに投入されています。

 P-51は高い戦闘能力と優れた航続力を持っていたため、B-17やB-24、B-29など長距離戦略爆撃機の護衛機として用いられました。しかし単座ゆえに、パイロットひとりで長時間にわたり操縦し続けなくてはならず、そのうえで敵地上空で戦闘して帰ってくるのは、かなりの負担でした。

 また、すでにB-29の後継となる新型の戦略爆撃機が計画中で、それはB-29以上に長い航続距離が要求されていたことから、もうひとり航法士を兼ねたパイロットが乗り込み、交互に操縦可能な複座の護衛戦闘機が求められたのです。

簡単に作れるかと思いきや、ほぼゼロからの設計

 アメリカ陸軍においてこうした要望が挙がる一方、偶然にもノースアメリカン社では1943(昭和18)年の時点でP-51「マスタング」を2機合体させた双発複座機のプランを検討していました。両者の思惑がうまく合致したことで、こうしてF-82の開発は始まりました。

 とはいえ、ベースが優秀機だからといっても単純に2機つなげただけとはいかず、胴体後部や垂直尾翼などは大幅に改修され、エンジンも左右で回転方向を逆にしており、設計はほとんどやり直しに近かったそうです。ただし、そこまで大幅に手を加えたからこそ飛行機として成功したともいえます。

「戦闘機 合体させよう!」なぜアメリカはそう考えたのか? F-82「ツインマスタング」

F-82「ツインマスタング」の原型となったP-51「マスタング」戦闘機(画像:アメリカ空軍)。

 試行錯誤の末、F-82「ツインマスタング」の試作初号機は、第2次世界大戦末期の1945(昭和20)年6月15日に初飛行しました。ところが、この時点ですでにドイツは敗北しており、この2か月後には日本も降伏したため、F-82は必要がなくなり、予定していた生産のほとんどがキャンセルになりました。しかしB-29の後継として、より長距離を飛ぶことが可能なB-36戦略爆撃機の試作機が1946(昭和21)年8月8日に初飛行すると、これを護衛するための戦闘機としてF-82「ツインマスタング」の生産も再開されます。

 またF-82はエンジンが2基あり、P-51と比べて搭載量が多く、なおかつパイロットも2名いることでレーダーを搭載するのにも最適として、主翼中央にレーダードームを装備した夜間戦闘機型も開発、量産されました。

 当時のレーダーは大型で、しかも操作のほとんどが手動で手のかかるものでした。そのためパイロットがひとりしかいない単座戦闘機に装備すると、その負担は大きく、「腕が3本必要」と揶揄されるほどでした。

 第2次世界大戦中、すでにアメリカは3人乗りでレーダー搭載のP-61「ブラックウィドウ」夜間戦闘機を実用化していましたが、大型のため鈍重で、大戦後は旧式化しており、高性能な次世代機が必要とされていました。

 そこでP-51「マスタング」譲りの優れた戦闘能力と、レーダードームを装備可能な余裕ある搭載力、そして複座機として片方のパイロットにレーダー操作員を兼務させることが可能なF-82は、夜間戦闘機にも転用されることになったのです。

朝鮮戦争で撃墜も記録 優秀性は原型機ゆずり

 レーダードーム装備の夜間戦闘機型はF-82FとF-82Gの2種類ありましたが、両者は搭載レーダーの違いだけで、基本性能は変わりませんでした。また両タイプ合計で150機生産されましたが、この数はF-82シリーズ全数273機の半分以上を占めていました。

 第2次世界大戦終結から5年後の1950(昭和25)年6月25日、朝鮮戦争が勃発しますが、最前線で運用可能な夜間戦闘機はF-82「ツインマスタング」くらいしかなかったことから、早速投入され、直後の6月27日には北朝鮮空軍のラボーチキンLa-7戦闘機1機を撃墜しています。

「戦闘機 合体させよう!」なぜアメリカはそう考えたのか? F-82「ツインマスタング」

主翼中央に大型のレーダードームを装備した夜間戦闘機型のF-82F「ツインマスタング」(画像:アメリカ空軍)。

 また、1947年3月28日には「ベティ・ジョー(Betty Jo)」と名付けられたF-82Bが、ホノルルとニューヨークを結ぶ無給油無着陸飛行に成功しています。両都市は直線で約8000kmあり、達成するために同機は徹底的な軽量化と燃料タンクの増設を行いましたが、その甲斐あって14時間32分かけて成し遂げました。この記録はレシプロ戦闘機による無給油での最長飛行記録として、いまだに破られていません。

 なお、本機はF-82と呼ばれる前はP-82と称していましたが、これは本機が制式化された後にアメリカ空軍が発足したことに関係しています。アメリカ空軍の前身は、アメリカ陸軍航空隊ですが、当時、戦闘機は「追撃機」という分類で、それを意味する「Pursuit」の頭文字として「P」が使われていました。

 しかし、1947(昭和22)年9月にアメリカ空軍として分離発足すると、翌年1948(昭和23)年に、「追撃機(Pursuit)」が「戦闘機(Fighter)」に改められ、それにともない分類記号も「P」から、「F」に変更されています。

 この端境期にあったため、本機は「P」と「F」の両方で呼称されるのです。同じようなことは原型のP-51「マスタング」でも起きており、空軍発足後はF-51に呼称が変わっています。