東京メトロの地下鉄には、「3号線」など路線番号とは別に、「銀座線」など名称があります。実は千代田線以降の路線名称は公募されたもの。

社内、一般ともに、集まった案には経由地名から取ったもの以外にも様々ありました。

路線番号から名称へ 開業から25年は名前がなかった「銀座線」

 東京都心を中心に走る地下鉄には、都市計画上の路線番号とは別に路線名が付いています。昔の都営地下鉄は「1号線」や「6号線」のように路線番号のみで表記していましたが、1978(昭和53)年に路線名を変更し、1号線は「浅草線」、6号線は「三田線」に変わりました。ただ近年でも、開業直後の路線や建設中の路線において、たとえば大江戸線と命名される以前の「12号線」や、副都心線の名称が決定される以前の「13号線」と、路線番号で呼ばれていたことは記憶に新しいかもしれません。

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東京メトロの路線図(画像:東京メトロ)。

 あとで路線名を付けた都営地下鉄に対し、営団地下鉄(現・東京メトロ)は、当初から路線名を付けていました。

最初に路線名が付けられたのは「銀座線」と「丸ノ内線」です。銀座線の方が古くからあったのでは、と思うかもしれませんが、銀座線しか地下鉄がない時代は路線を区別する必要がなかったので、特に名前は付けられていませんでした。第2の路線「丸ノ内線」が開業するにあたって、ようやく路線名が必要になり、丸ノ内線の開業前年、1953(昭和28)年に「銀座線」と「丸ノ内線」の路線名が決定されたのです。

 当時、営団地下鉄では、路線名は一般企業の社長にあたる総裁などで構成される役員会で決定されていました。地下鉄が通る代表的なエリアの地名を取って、銀座線、丸ノ内線などとするシンプルな決め方です。しかし、路線が増えるにつれて、誰もが納得する路線名を決めづらくなってきたこと、また地下鉄事業に対する理解、関心を高めるという理由から、千代田線以降の路線では、路線名の決定方法に公募を取り入れるようになります。

千代田線以降は公募 集まった案とは

 最初に公募制が取り入れられた千代田線は、路線名を職員からの募集(社内公募)で決定しています。当時の資料によると、約1400件、205種類もの応募があり、そのうち最多を占めたのが「千代田線」でした。

 その理由は新御茶ノ水から国会議事堂前まで千代田区を貫通するように走ることから。なるほど、それまでの路線名とは異なる新鮮な発想です。次点で「大手町線」も挙げられていますが、大手町を経由する地下鉄は、この時点ですでに丸ノ内線、東西線とふたつも存在しており、分かりにくさは否めません。

どう決まった? 東京メトロの路線名 半数は公募 案には大手町線や外堀線 いまの何線?

千代田線で使われる16000系電車(画像:photolibrary)。

 また意外な案としては「南北線」というものもありました。いまの南北線を知っていると不思議に思えるかもしれませんが、西日暮里から日比谷まで都心を縦断する姿は、当時からすれば「南北線」を思わせたのかもしれません。

 続く有楽町線では、初めて一般公募が行われました。応募総数は3万通以上。そのうち最多は「麹町線」でした。有楽町線は、初めて皇居の西側を通過して都心に向かう路線だっただけに、その経由地である「麹町」に注目が集まったのかもしれません。

 ただ「有楽町線」と「有楽線」の応募数を足すと、1位の「麹町線」を上回りました。また同線は当時、銀座一丁目から新木場まで延伸が予定されており、有楽町が池袋~新木場間のほぼ中心になることから「有楽町線」に決まります。もし「麹町線」になっていたら、漢字で書くのが大変だったでしょう。そのほかには「桜田線」「外堀線」という案もありました。

 続く半蔵門線でも一般公募が行われました。こちらは応募総数約7600件。

1位が「半蔵門線」、2位が「青山線」でした。以下、「渋谷線」「大手町線」「九段線」などが続きます。

「明治通り線」とはならなかった副都心線

 半蔵門線の名称一般公募が行われた1978(昭和53)年時点では、同線は渋谷~青山一丁目間の開業で、まだ半蔵門へは到達していませんでした。しかし、すでに当時、水天宮前までの延伸が予定されており、半蔵門が渋谷~水天宮前間のちょうど中間点になることから半蔵門線に決定したと、営団地下鉄が発行した『東京地下鉄道 半蔵門線建設史(渋谷~水天宮前)』に書かれています。半蔵門線も有楽町線に続き、皇居の西側を通る路線です。その経由地である「半蔵門」が選ばれたということは、「麹町」のリベンジを果たせたといえるかもしれません。

どう決まった? 東京メトロの路線名 半数は公募 案には大手町線や外堀線 いまの何線?

副都心線や有楽町線で使われる10000系電車(画像:写真AC)。

 続く南北線は、開業年が営団創立50周年の節目にあたり、将来の民営化も見据えて新しく生まれ変わろうとしている時期であることから、職員の意識向上を目的として、千代田線以来の社内公募で路線名が決められました。そのうち約半数を占めたのが「南北線」。目黒と赤羽岩淵を結ぶ路線として、これ以外には考えられない、ぴったりな名前です。

 副都心線でも社内公募が行われ、「明治通り線」「渋谷線」などの候補が挙がるなか、「副都心線」が選ばれ、路線名に決定しました。発表当時は「副都心は死語では」「今や新宿は新都心だ」などの声もありましたが、東京の地下鉄で初めて都心3区(千代田区、中央区、港区)を経由せずに、池袋、新宿、渋谷をつなぐ路線としての位置付けを示しつつ、それら3つの街を同格に扱えるという意味では、なかなかの妙案でした。

 あの路線は、もしかしたら違う名前だったかもしれないと思うと、見慣れた地下鉄がいつもとは違って見えてくるかもしれません。