スポルティーバ・新旧サッカースター列伝 第10回

天才的なプレーの数々を見せながら、ピッチ外の強烈すぎる話題のほうで世界の注目を浴びたのが、ブラジルのエジムンドだ。Jリーグでもプレーした、破格のストライカーの人生をなぞる。



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<水もしたたるエジムンド>

 水もしたたる、いい男。女性なら鶏群の一鶴なんて言われるが、もう一目でそれとわかる美男美女がいるもので、周囲にたくさん人がいても、そこにだけスポットライトが当たっているように見える。

世界有数の問題児、エジムンド。日本でも活躍したお騒がせFWの...の画像はこちら >>
 2013年にブラジルで行われたコンフェデレーションズカップの、取材エリアで見かけたエジムンドがそうだった。間近で見るまで、あんなに二枚目だとは思っていなかった。テレビ局の仕事をしていて、ブラジルではとても人気があるという。

 背は高くないが、なぜかパワーが漲っている感じがする。
どこかの廊下ですれ違った柔道家の吉田秀彦氏と似た雰囲気だった。体の大きさとか筋肉ムキムキというのとは違っていて、触っただけではじかれそうな圧を纏っている。日本のサッカー選手では家長昭博(川崎フロンターレ)がそうだが、ほかにはそんなに思い当たらない。

 澄み切った目をしていたのも意外だった。「意外」なのは、目が澄んでいる人のイメージを持っていなかったからだ。端正な外見からは想像できないぐらい、エピソードが満載の人である。


 息子の誕生パーティーに呼んだサーカスのチンパンジーにビールとウィスキーを飲ませ、動物保護団体から抗議された。のちに本人がフェイクニュースであると否定しているが、当時は「やっぱりエジムンドは変わっている」というのが世間の反応だったと思う。もう、そのぐらいのことはやりかねないイメージだったのだ。

 1999年には有名な「カーニバル離脱事件」があった。98-99シーズンの終盤にリオのカーニバルに参加するためにチームを離れ、その間に当時所属していたフィオレンティーナは優勝争いから脱落してしまった。

 マヌエル・ルイ・コスタ、ガブリエル・バティストゥータを擁した当時のフィオレンティーナはセリエA優勝のチャンスだったのだが、バティストゥータは負傷してしまい、そのタイミングで頼みのエジムンドがカーニバルへ。

 契約でカーニバルには参加できるようになっていたらしいが、この一件は極めて印象が悪い。千載一遇のチャンスを逃したヴィオラのファンにしてみれば、20世紀最大のガッカリかもしれない。

 のちにネイマールがブラジルで療養中にカーニバルで遊び回っていたことで、所属のパリ・サンジェルマンのファンから批判された。この件で意見を求められたエジムンドはこう答えている。

「カーニバルは引退してからも何度でも来る。選手はキャリアを優先すべきだ」

 まさに「お前が言うな!」と全方位からツッコミが入りそうだが、本人も「自分は適役じゃないけど」「もし聞く気持ちがあるなら」と、かなり前置きを重ねたうえで話しているので、たぶん後悔はしているのだろう。



<世界一の2トップ>

 ヴァスコ・ダ・ガマでデビューし、引退した。ただ、その間にいくつものクラブでプレーしている。パルメイラスでは93、94年と全国選手権を連覇。当時のパルメイラスは、セザール・サンパイオ、ロベルト・カルロス、フレディ・リンコン、エバイール、リバウドという錚々たるメンバーを擁している。

 イタリアの食品メーカー、パルマラット社がスポンサーについてバブリーな時期だった。ヨーロッパはアヤックス、南米はパルメイラスが無双ぶりを誇示していた時代である。


 エジムンドは止めようのないFWとして大活躍だったが、守備の重鎮だったアントニオ・カルロスと仲が悪かったらしく、バンデルレイ・ルシェンブルゴ監督とも衝突してチームを去っている。

 フラメンゴに移籍してロマーリオとの「世界一の2トップ」を組むが、その95年に3人が死亡する自動車事故を起こしてしまう。翌年にサンパウロのコリンチャンスへ移籍したのは、とにかくリオから離れたかったからだ。しかし今度はクリスと合わずに古巣のヴァスコへ戻った。どうも守備のリーダーとはうまくいかないらしい。

 心のクラブ、ヴァスコへ戻った97年は全国選手権優勝の立役者となる。
29ゴールはレイナウド(アトレティコ・ミネイロ)が打ち立てた記録を20年ぶりに打ち破るものだった。97年も全国選手権連覇。意気揚々とイタリアのフィオレンティーナへ移籍するのだが、99年に例のカーニバル事件、チンパンジー飲酒事件、さらに95年にリオで起こした事故の判決(懲役4年6カ月)のトリプル・ダメージを負ってしまう。

 しかし、99年にヴァスコに復帰すると再び大活躍。今回はロマーリオとの2トップが機能して大暴れするが、2000年にブラジルで行なわれた第1回クラブワールドカップ決勝でエジムンドがPKを外し、優勝をコリンチャンスにさらわれる。

 キャプテンの座をロマーリオに奪われたことで仲違いし、「バッド・ボーイズ」と言われた2人のコンビもあえなく解散となった。その後、サントス、ナポリ、クルゼイロを経て、2001年に唐突にJリーグにやって来る。

<心のヴァスコ>

 トラブル・メーカーではあったが、その技術が一級品なのは間違いない。体幹が異常なほど安定していて、ビシッと上体がキマっていながら足首は別の生き物のように柔軟だった。

 まるでトカゲのように急停止できて、足首の微妙な操作で自在にボールを操れるので、トラップ1つで背後の敵をあらぬ方向へすっ飛ばしていた。伝説的な柔道の技に「空気投げ」があるが、エジムンドはそんな抜き方をよくしていた。

 ブラジル代表では、同時代にロマーリオ、ベベット、ロナウドがいたので活躍の機会は限られていたが、世界トップクラスのアタッカーだった。ただ、世界有数の問題児であるのも確かで、東京ヴェルディが獲得した時は期待と不安の両方があったものだ。

 01年の終盤に東京Vに加入すると、ラスト5試合を3勝1分1敗で切り抜け、エジムンドはJ2降格阻止の立役者となる。翌年も16ゴールと活躍してチームを牽引した。この東京V時代は、本当にあのエジムンドなのかと思うぐらい平穏無事に過ごしている。

 ところが、03年に浦和レッズに移籍するとリーグ戦に1試合も出場しないまま退団してしまった。ハンス・オフト監督と合わなかったとされているが、たんにヴァスコに戻りたかったのかもしれない。監督批判は口実だったのではないか。

 何しろクルゼイロでプレーしている時に、ヴァスコ戦では「得点したくない」と公言し、実際にヴァスコ戦で得たPKを故意に外しているのだ。これが原因でクルゼイロを追われたのでJリーグへ行くことになった。キャプテン剥奪でロマーリオと揉めたのも"ヴァスコ愛"ゆえ。復帰の道が拓かれたので、もう何をしてでもヴァスコに戻ると決めていたふしがある。

 ところが、せっかく復帰したヴァスコではまたまた中心選手のマルセリーニョと揉めて退団。その後はフィゲイレンセ、パルメイラスで「降格ストッパー」として活躍。しかし、ルシェンブルゴ監督が就任したのでパルメイラスを去り、最後にヴァスコに戻って08年に引退した。

 2011年に再審請求して長引いていた交通事故裁判が結審、エジムンドは逮捕されたが人身保護法によって4年間の服役は回避している。同乗の女性と対向車に乗っていた2人が犠牲になった事故は運転者エジムンドに過失があったが、その後長く罪の意識に苛まれていたとテレビ番組で告白し、被害者に謝罪している。