野球日本代表 オリンピックの記憶~1984年ロサンゼルス大会
証言者・広澤克実(1)

 1984年のロサンゼルス五輪で、野球日本代表チームは公開競技ながらも金メダルを獲得した。当時の日本代表はアマチュアのみの編成で、大学、社会人から精鋭が集められた。

しかし、大学生と社会人との間にはオリンピックに対する温度差があり、チームは崩壊寸前だった。いったい日本代表に何が起きていたのか。大学生ながら日本代表の4番を担った広澤克実(当時:広沢克己)が振り返る。

広澤克実が語るロス五輪金メダルの真実「チームワークなんてなか...の画像はこちら >>

アメリカとの決勝戦でホームランを放った広沢克己

 ロサンゼルス五輪? あの時のオリンピックで思い出すことと言えば、そりゃ、やっぱりカール・ルイスでしょう。えっ、野球の話? ああ、そうですよね(笑)。だったら僕らが決勝で勝った時、当時のIOCの(フアン・アントニオ・)サマランチ会長から直に金メダルをかけてもらったシーンかな。


 試合が終わったのが午後11時を回っていたのに、会長自らメダルをかけてくれたんです。僕はまだ学生でしたからサマランチさんがどういう人なのか、よくわかっていなかったんですけど、周りの方々が「会長が直々にメダルをかけるなんて聞いたことがない、あり得ない話だ」と言っていたので、ああ、そうなんだと思って……大人たちの想像によると、ロサンゼルス五輪は商業主義のなかで行なわれた初めてのオリンピックで、大成功を収めたのが公開競技として行なわれた野球だったから会長が喜んでいたんじゃないか、ということでしたね。

 野球はほとんどの試合で会場のドジャースタジアムを満員にしましたし、そのことに敬意を表していたのではないかと……僕、ニカラグア戦でライトへホームランを打ったんですけど、フェンス際、満員の観客のなかに打ち込んだ記憶があるんです。アメリカで行なわれたオリンピックで日本対ニカラグアの試合が満員だったんですから、ほとんどの試合が満員だったとしても不思議じゃないでしょうね。

 でも、せっかくオリンピックに行ったのに、僕ら、開会式にも出てないんです。その日は地元のチームと練習試合をしていました。
(松永怜一)監督が厳しい人だったので、「開会式には出んでもいい、試合するぞ」って……たしか、ダブルヘッダーじゃなかったかな。開会式がいつあるのかも、知らされてなかったと思います。

 そもそもメンバーのうちの大学生6人は、その前に大学代表としてアメリカで試合をしていたんです。日米大学野球です。サンフランシスコから入って、デンバー、ヒューストン、ネブラスカ州のオマハ、デトロイト……アメリカのあちこちを回っていました。

 しかも、あの年のアメリカの大学代表にはマーク・マグワイアとかシェーン・マックとかウィル・クラークとか、のちにメジャーリーグで活躍するスーパースターが揃っていて、みんな、そのままロサンゼルス五輪の代表メンバーにも選ばれていました。



 だから日米大学野球でも「彼らはオリンピックメンバーだ」ということで大騒ぎされて、どこへ行っても超満員。毎試合、大々的なセレモニーがあって、僕らもサンフランシスコではメジャーのオールスターゲームまで観戦させてもらって……それは僕らがアメリカのオリンピックチームと一緒に行動していたからですよね。

 そういうアメリカ代表に僕たちが、大学選手権はもちろん、オリンピックで勝てるわけがないよって、正直、思っていました。しかもアジアの予選で勝てなかったチャイニーズ・タイペイには郭泰源がいて、韓国には宣銅烈がいて、アジア予選で負けた日本はキューバがボイコットしたからということでバタバタッと代表チームを編成して、急遽、出場することになったでしょ。僕ら大学生も日米大学野球からそのままオリンピックへ行けって……そんなドタバタな感じでしたから、いや、金メダルなんて、まったく想像していませんでした。

 僕はあの時が初めてのアメリカだったんですけど、正直、もう二度と行きたくないと思いました。
言葉も通用しないし、食べ物もおいしくない。お昼は毎日ハンバーガーで、泊まるのは3人一部屋のモーテルですから。日本とは環境が全然、違うじゃないですか。ごはんをお腹いっぱい食べられないから、バッティングの調子も上がらない。

 向こうで最初、僕は全然、ダメでした。生水も飲めないからコーラとかオレンジジュースとか牛乳とか、そんなものばっかりでお腹を満たしていたんです。
もう、アメリカが嫌になっちゃって、二度と行きたくないと思って、ヤクルトに入ったら、なんとキャンプが毎年、アメリカ(ユマ)だったという……(苦笑)。

 だからあの時、日米大学選手権だけで帰国するチームメイトが羨ましくてね。僕も心底、帰りたいと思っていました。でもそんなの無理なんで、帰国する仲間を見送ってから、オリンピックに選ばれていた大学生6人でロサンゼルスへ向かったんです。

 当時の全日本は20人で、社会人の選手たちは14人。彼らは日本で練習して、さあ、オリンピックだということでロサンゼルスへ来ることになっていたんですけど、僕らと合流するまでの3、4日、学生だけで練習しなくちゃいけない時期がありました。



 でも6人じゃ、何もできないじゃないですか。試合形式の練習もできないし、できるのはランニングとキャッチボールくらい。グラウンドだけは立派なヤツが4面、使い放題なわけですよ。そしたらグラウンドキーパーの人たちが、「俺たち、ソフトボールのチームつくってるんだけど、お前ら、ソフトボールできないのか」と言われて、僕ら学生は、本隊が到着するまでソフトボールをやっていたんです。和気あいあいの雰囲気のなかで、ソフトボールでホームランをパカパカ打っていたんですよ。だから、みんなからスーパーマンなんて言われて、イエーイって、楽しくやってたんです。

 えっ、(松永)監督ですか? こんな話、言えるわけないじゃないですか(笑)。今も知らないと思いますよ。だから本隊が合流した瞬間、松永色一色になったから、あまりの様変わりぶりにグラウンドキーパーの人たち、ビックリしちゃってね。全員、ピリッとして、苦虫をかみつぶしたような顔でね。私語厳禁、練習中に笑うなんてもってのほか。そんな雰囲気のなかで練習しているんですから……。

 あのチームでいろいろと注意してくれたのは東芝の福本(勝幸)さんと、キャプテンだった熊野(輝光、日本楽器)さんです。あのふたりが「生徒会長」でしたね。朝の6時からミーティングがあって、僕ら、そんな時間ですから眠いじゃないですか。散歩中、眠そうな顔をしてると、そのふたりが怒るんです。「お前ら、ちゃんとしろ」って。内心、「うるさいなぁ」と思っていました。

 でも、いま思えば僕らにはオリンピックに対する使命感が足りていなかったんでしょうね。福本さんに「遊びに来てるわけじゃない、学生のお前らが今までやってきたのは親善試合だ。これからはオリンピックなんだ、切り替えろ」とも言われて……でも韓国にもチャイニーズ・タイペイにも、もちろんアメリカにだって勝てっこないし、どうせすぐに負けて帰れるんだろう、もうちょっとの辛抱だって、そんな感覚でした。

 だから、最初の試合までは学生と社会人の間には壁も温度差もあったと思います。社会人の選手たちは「学生は関係ない、俺たち14人だけで勝ち進んでいく」みたいな雰囲気があったし、学生は学生で「なんだ、この人たちは」と思っていました。練習は一緒にしていましたけど、邪魔者扱い……されていたかどうか本当のところはわかりませんけど、少なくとも僕はそういうふうに感じていました。最初はチームワークなんて、全然なかったと思います。