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「令和に語る、昭和プロ野球の仕事人」 第7回 柳田真宏・前編 (第1回から読む>>)

 平成の世にあっても、どこかセピア色に映っていた「昭和」。まして元号が令和になったいま、昭和は遠い過去になろうとしている。

人々の記憶が薄れていくなか、当時のプロ野球ではどのような選手たちがファンを楽しませていたのだろうか。

 過去の貴重なインタビュー素材を発掘し、個性あふれる「昭和プロ野球人」の真髄に迫るシリーズ。当時、まだ突出した人気を誇っていた巨人で〈史上最強の五番打者〉といわれた柳田真宏さんが、その重圧を率直に明かした言葉を伝えたい。

「王さん、歩け歩け」。巨人史上最強の5番打者は内心そう思っていた
フルスイングの美しい打撃フォームだった柳田(写真=共同通信)

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 柳田真宏さんに会いに行ったのは2010年1月。年が明けて間もなく、東京・八王子市内のホテルで待ち合わせた。約束の午後1時より30分前に到着したが、ロビーラウンジの入り口に柳田さんとおぼしき人が立っていた。
短く刈られた髪に濃く太い眉、切れ長の目に頬骨が張ったその顔は〈巨人軍史上最強の五番打者〉に違いなかった。

 頭を下げながら近寄ると、柳田さんは「どうも」と言ってラウンジに向かった。白いタートルネックに黒い薄手のセーター、細身のジーンズを合わせたスタイルが精悍な面持ちとマッチしていた。奥の席に着いて挨拶を交わした後、僕は以前に取材した野球人の名前を挙げた。いずれも現役時代の柳田さんと接点があった人で、巨人時代に同僚だった張本勲、打撃コーチだった山内一弘、西鉄(現・西武)入団時に監督だった中西太──。

「なつかしいですねえ。
山内さんは教え魔でね、10分間のバッティング練習のうち、7分か8分は話して教えるんですよ。だから、打つ時間が2分ぐらいしかない。ははっ。でも、いいアドバイス受けました。熱心な方でしたよねえ」

 タレントの毒蝮三太夫に似ているので"マムシ"と渾名(あだな)された柳田さんだが、威勢のいい江戸っ子調の"本家マムシ"とは違い、ソフトで物静かな口調。熊本出身で九州弁特有のアクセントには温かみがあり、ひそひそとささやくように話す。
半面、朗々と響く声は耳に心地よく、僕はとっさに、現役引退後の柳田さんが歌手に転身したのもうなずける、と思った。


 歌手といえば、現在、柳田さんは八王子の繁華街でカラオケスナック『まむし36』というお店を営んでいる。自ら店内で歌うこともあるそうだが、「36」は巨人時代の背番号。愛着のある数字なのだろう。さらに歌がらみでいえば、巨人ファンのシンガーソングライター、矢野顕子が作詞作曲した『行け柳田』。これは1977年、柳田さんが5番打者として台頭したときに発表されたのだが、ご本人はこの歌をどう受けとめていたのか、聞いてみたかった。



 それ以上に聞きたかったのは、09年に日本一となった巨人でブレイクした亀井善行の印象だ。というのも、シーズン途中から亀井が5番に定着するとマスコミ上に柳田さんの名前が出てきて、ある記事では〈新・最強の五番打者〉と評されていた。果たして、自身と同じ左打ちの後輩をどう見ていたのか。そして、巨人の5番とはどういう存在なのか。

「亀井君はね、日本プロ野球OBクラブから何かのアンケートがきて、〈今年気になる選手〉という項目があったから、僕は〈亀井〉って書いて出したんです。5番だから、というより、素晴らしい選手ですから。
ガンガン打って、サヨナラホームランも3本? 日本シリーズでも大事なところで打ちましたよね? 

 で、僕が巨人にいたときの5番は、3番、4番にONがいてプレッシャーがあった。例えば、僕は最初、西鉄に入ったんですけど、ちょうどその年に高倉さんが西鉄から巨人に移られて、5番を任された。そういう実績ある方でもつぶされちゃうような、重圧があったみたいで」

 高倉照幸の巨人移籍は1967年。この年には広島から移籍した森永勝也も5番に置かれ、65年は東映から加入した吉田勝豊が5番。それだけ他球団から獲ったのも、5番を打てる生え抜き選手がいなかった裏返し。だが、移籍組も5番に固定できるほどの打力を発揮できない。
当時の川上哲治監督にとって、「王、長嶋に次ぐ5番を誰にするか」は悩める課題だったといわれる。


 V9時代、巨人の5番は移籍組のほか、森昌彦、柴田勲、黒江透修(ゆきのぶ)、高田繁、末次民夫と毎年のように入れ替わった。それでも、長嶋茂雄監督が就任した75年からの2年間は〈5番・末次〉でほぼ固定されたが、77年の開幕前にアクシデントが起きる。柳田さんはその当事者だった。

「フリー打撃で僕が打った打球が外野にいた末次さんの顔に当たって、左目を負傷されて試合に出られなくなって。だから僕は末次さんの後、5番に入っちゃった、という形。最初は重圧もなかったけど、1試合、1試合、積み重ねるほど、王さんの偉大さを身にしみて実感するようになりました。結局、ツーアウト、ランナー二塁になると100パーセント敬遠でしたからね」

 ウェイティングサークルにいるときからプレッシャーがかかり、開幕からしばらく打てなくなったときの最低打率が.077。すると4月の終わり頃、多摩川グラウンドでの練習時のことだ。長嶋監督自らが打撃投手を務め、2時間にわたって柳田さんの特打が行なわれた。

「僕は最初、せっかく監督が投げてくれるんだからって、いろいろ試行錯誤しながら打ってたんです。それで1時間ぐらいしたら、背中にピュッてボールがくる。監督、そろそろ疲れて握力がなくなってきたんだな、と思ってポンポン打ってたら、今度は頭の上とか顔のあたりにビュンビュンくる。僕、そこでカツーンときてね。よしっ、ピッチャー返ししてやろうと思って」

 一瞬、ウインクをした目が笑っていた。監督に打球をぶつけるつもりだったのだ。

「王さん、歩け歩け」。巨人史上最強の5番打者は内心そう思っていた
笑顔で現役時のエピソードを語る、取材当時の柳田さん


「全部、ピッチャー返し。5~6本、本当に打ち返しました。そしたら長嶋さんが来て、『おっ、もういいぞ』って言われたんです。何が『いい』のか、わかんないんですよね。自分じゃ納得してなかったし。でも、その後、5月に月間MVPをいただいて。打率が4割4分2厘で。そのときも何が『いい』のかってわからなかったけど、7月頃になって、パッと気づいたんです。

 多摩川での特打のとき、僕は、ああでもない、こうでもないって考えながら打っていた。でも、それじゃあダメだっていうことを、長嶋さんは教えてくれたんだなって。打席に立つ前は考えていいけども、打席に入ったらあれこれ考えずにボールだけに集中して、思い切り振っていくんだと。そういう姿勢が僕になかったから、背中とか頭に投げたり」

 長嶋監督はあえて危険な球を投げていたんじゃないか、という気づきだった。言葉で教えるのではなく、まさに身をもって、期待の選手の気持ちを奮い立たせようとしたのだろう。

「だって、あんまり頻繁に危ないところにくるものだから、相手が監督だろうが、狙ってんじゃねえか? って本能的にカツーンときたね。バッターの本能を呼び覚ますような打撃練習だったというか。それがつまり、打席であれこれ考えない状態、ということだと思いますよ」

 では、打席であれこれ考えなくなって打撃好調になって以降、王の後を打つ5番打者としてのプレッシャーはどうだったのか。

「もう感じなかったです。ただ、それは好調だから、ということだけじゃなくて、僕はピンチヒッターで出る時期が長かったから。1試合1打席だったのが1試合4打席に立てる、っていう喜びですよね。と同時に、そのとき、自分のやってきた経験を当てはめていくほうが簡単だと気づいたんです。『俺は4打席に立てるようになったけども、1打席、1打席、全部ピンチヒッターで出るつもりで行こう』と考えたんですね。

 そうすると、打順も状況も関係なく、常に同じ意識で打席に入れるわけです。いつも、この一打で決めなきゃいけない、この打席で終わりなんだ、っていう気持ちで立つのが、自分にいちばん合ってると思ったんですね。そのうち、ツーアウト、ランナー二塁になったら『おう、王さん、歩け歩け』って思ってましたもん」


 柳田さんには〈代打で5年連続打率3割以上〉という記録がある。5年連続は73年からだから、5番に定着した77年も含まれる。つまりレギュラーとなっても、ときに代打で起用されたら結果を出していた。そのあたり「全部ピンチヒッター」の意識が裏付けられていると思う。

「で、ひとつ言っておきたいことがあります。僕はピンチヒッターで結果を出せたから巨人で生き残れたんですけど、西鉄から巨人に移籍したときにはクビになりかけてるんです。そのときのことを考えたら、野球を続けられる喜びっていうのはすごいもので、ピンチヒッターの重圧なんていうのも微々たるものだったんですよ」

 5番の重圧の話から、急激に時間が逆戻りした。資料によれば、柳田さんは69年、巨人移籍直後に腰を痛めて入院。プレーできない状態が長く続き、確かに〈クビを覚悟していた時期があった〉と記されていた。それでも、九州学院高での柳田さんは1年時から4番を打ち、「九州一のスラッガー」と呼ばれ、熊本工高出身で同郷の川上監督も注目していた逸材だった。

 66年の第一次ドラフト2位で入団した西鉄では、1年目から1軍出場を果たして本塁打も放っている。将来への期待が大きいからこそ巨人は獲得し、故障の回復を待ったのではなかろうか。何より柳田さん自身、もともと巨人入団を希望していたのだという。

「なにしろ、地元熊本の大先輩、川上さんにあこがれてましたからね。西鉄では最初、背番号77をつけさせてもらいました。川上さんが現役のときの16番はつけている方がいたから、監督になってからの77番でも川上さんだと。ははっ。で、2年目には空いたので16番。神様ですもん、熊本で野球やってた僕らにとっては」


 その神様が熊本に帰郷した際、1年生の柳田さんを視察しに来た。九州学院高の監督、巨人の九州地区担当スカウト、いずれも熊本工高の出身で川上監督の後輩だった関係で実現した。必然的に獲得が決まったようだが、65年にドラフト制度が導入され、翌66年に西鉄が指名。ただしその際、「3年間は西鉄に預ける」との裏約束ができていたらしい。

「それが1年早く、2年で移籍したら、いきなり腰を痛めちゃって。グラウンドに出ても外野をずーっと歩いて、ジャージ着て球拾いです。で、やっと練習できる状態になったとき、このままじゃクビだな、1回ぶっ壊れた体なんだから、2回壊れてもいいやと思って、二軍の練習行く前と帰った後、合宿所のマシンでカンカン打ってたんです」

 捨て身の練習のおかげでファームの試合で結果を出した柳田さんは、リーグ5連覇が決まった後の1軍戦に出場。広島とのダブルヘッダー第1試合では代打で二塁打を放つと、第2試合はスタメン1番。初回にいきなり初球を叩いて本塁打を放ったという。

「それで首の皮一枚つながった、と思って合宿所に帰ったら、『鬼寮長』といわれた武宮敏明さんに呼ばれて。『おまえ、わかってるよな? 来年ダメだったらクビだぞ』って。やっと契約してもらったのに、その時点でクビを宣告されたんですよ。厳しいでしょう? だから年末にはいったん熊本に帰ったけど、新年、3日には合宿に戻って、ずーっと練習してました。正月気分を味わって、お餅食べたりなんかするっていう気持ちには全然なれなかったですよ」

(後編につづく)