私が語る「日本サッカー、あの事件の真相」第13回
サッカー人生を劇的に変えた運命の出会い~阿部勇樹(2)
2003年、イビツァ・オシムとその”息子たち”(当時、ジェフユナイテッド市原)は、リーグ戦を勢いよく駆け抜けた。ファーストステージ3位、セカンドステージ2位と、両ステージで優勝争いを演じて、年間総合3位になった。
オシムと出会って「変わった」という阿部勇樹
阿部勇樹にとっては、大きな成長を感じられるシーズンとなった。オシムと出会い、キャプテンを任されたことで、自らを徐々に変えることができたのだ。
「僕はジェフで、運よく17歳から試合に出させてもらって、それからはいつも上の年齢の人たちとプレーしてきた。いつしか、その環境に慣れてしまって、『このくらいやればいいか』って感じでプレーしていたんです。
そうした状況にあって、自己表現ということを考えると、正直『自分はおとなしいな』と思っていた。(試合中の)指示とかも『自分がこれを言うと間違っているんじゃないか』って思うことがあって、なかなか言えなかったんです」
性格的におとなしいのもあるが、阿部が自己表現に乏しかったのは、自らのプレーに確固たる自信をつかんでいなかったこともある。
そんな環境に置かれて、阿部は自らの意思や考えを発信せざるを得なくなった。そのうえで、チームが勝ち、結果を出すことで、自らのプレーにも自信が持てるようになり、これまでは黙々とプレーしていた阿部の声が、練習でも、試合でも、ピッチ上で響き渡るようになった。
「(2003年シーズンは)育成担当のコーチとか、昔の自分を知る人に会うと、『おまえ、変わったよなぁ』とよく言われました。そう言われると、オシムさんの下でサッカーをして、キャプテンをやることで、『変わっていくことができたのかなぁ』と思いましたね。
実際(練習や試合で)よく声を出すようになったし、表情とかも変わって、明るくなったような気がします。試合で指示を出すこと、(周囲と)コミュニケーションを取ること、相手に自分の思いを伝えること……それらはすごく大事なこと。そうしたことをもっと早く理解していれば、僕のサッカー人生はもっと変わっていたかもしれない」
阿部の成長は、ピッチ上だけには止まらなかった。オシムの教えや、キャプテンを任された経験から、サッカーに対する姿勢や考え方についても、大きな変化が見られた。
「オシムさんに『考えて、走るサッカー』と言われて、最初はピッチ上のことだけだと思っていたんです。でも、オシムさんは『24時間、サッカーのことを考えろ』とも言っていました。
サウナに行って、冷水と交互に入って疲れを取ったり、マッサージをする日を決めて、きちんと体のケアをしたり、(プロサッカー選手としての)今につながるルーティンができた。それからは、ケガとかが少なくなりました。若い頃はケガが多かったんですけど、その頃は意識が足りなかったんだな、と思いましたね」
阿部の存在感は一気に増した。周囲の評価は右肩上がりになり、2004年アテネ五輪を戦うU-23日本代表の中軸にもなった。
しかし、オシムから、阿部への褒め言葉は一切なかった。
「(オシムから)『よくやっているな』とか『いいプレーだったな』とか、一度も言われたことがないですね。オシムさんが理想としているものがものすごく高いので、そのレベルに行っていなかったんだと思います。
ただ、言葉で褒められたことはなかったけど、そういう空気は伝わってきていました。試合に勝ったあと、オシムさんと必ず握手していたんです。その握手が『よくやったな』と言われているのかなって(勝手に)思っていた。そのシーンがすごく好きだったので、毎試合勝って(オシムと)握手したいな、と思っていました」
2003年シーズン、阿部はオシムと何度も握手することができた。
「自分が、(プロの選手として)『よくなっているな』『成長しているな』って実感していました。一方で、まだまだ(オシムから)教えてもらうこと、(自らが)やれることがあるな、とも思っていました」
オシム体制となって2年目の2004年シーズン、阿部は24試合に出場し、5得点を決めた。チームはファーストステージこそ7位だったものの、セカンドステージは2位になった。
翌2005年シーズンは、33試合に出場し、12得点をマーク。阿部は、ベストイレブンに選出された。
名実ともに、日本を代表するボランチに成長した阿部のもとには、国内外のチームからオファーが届くようになった。そんな折、阿部はオシムに、移籍について相談をしに行ったという。
「2005年シーズンの終わりに(オシムに)相談しに行きました。オシムさんからは『日本にもいいチームはある』と言われたけど、『ウチでやれ』とは言われなかったです。最終的に、自分でジェフに残ることを決めました。
オシムさんと一緒にやれれば、まだ成長できると思っていたし、自分の中で、オシムさんがすごく大きな存在になっていた。また(オシムと)たくさん握手できるように『がんばろう』って思っていましたね」
2006年シーズン、ドイツW杯開催による中断前までは、チームも順調だった。12節終了時点で、5勝5分け2敗という戦績で5位につけていた。だが、リーグ再開を前にして、チームに激震が走った――。
きっかけは、ドイツW杯だった。ドイツW杯に臨んだ日本代表は、中田英寿をはじめ、柳沢敦や中村俊輔、さらには小野伸二や高原直泰ら「黄金世代」がメンバーに名を連ね、「史上最強」と謳われた。しかし、大会前の異常な盛り上がりに反して、チームは1勝もできずにグループリーグ敗退。期待が大きく膨らんでいただけに、その無様な結果によって、日本サッカー界に暗雲が立ち込めていた。
そんな重い空気を一掃すべく、サッカー協会が白羽の矢を立てたのが、オシムだった。2006年7月、ジェフを率いていたオシムの日本代表監督就任が発表された。
「(オシムの代表監督就任を聞いて)最初はショックでしたね。もっと一緒にやりたかった。でも、日本サッカーのことを考えたら『仕方がないな』って思いました。そうやって、気持ちを切り替えてからは、代表へのモチベーションが上がりました。
以前から代表に入りたいと思っていたけど、自分を成長させてくれた監督が代表監督になったので、なおさらその思いが強くなった。オシムさんとサッカーをするためには、代表に選ばれないといけない。そのためには、まずはチームでしっかり結果を出していこうと思っていました」
オシムジャパンになって2戦目、アジアカップ予選のイエメン戦で、阿部は代表に初招集された。日本代表での練習は、ジェフの時と変わらなかったが、オシムの練習を初めてこなす代表選手にとっては、簡単にのみ込めるものではなかった。
阿部は、ほかの選手から「これ、どうやるの?」「これって、どういうこと?」など、頻繁に質問を受け、一つひとつ説明した。同様に、当時の代表に招集されたジェフの選手は皆、オシムの練習や戦術の”説明役”を果たしていたのである。
オシムはまた、代表では個々の選手が複数のポジションをこなせるよう、従来のポジションでないところに配置することが多かった。たとえば、遠藤保仁はボランチではなく、トップ下や攻撃的MFとして起用した。阿部も、ボランチではなく、主にセンターバックで起用された。
複数のポジションをこなすことを、オシムは「ポリバレント」と呼び、代表ではそういう選手を重用した。
「オシムさんが『ポリバレント』という言葉を使う前、僕ら(いろいろなポジションがこなせる選手)のことは『便利屋』とかって言われていた。それって、あまりいいイメージはないですよね。でも、『ポリバレント』と言われるようになって、そのイメージが変わり、オシムさんがそういう能力を求めたことで、そうした選手の価値が上がった。
以前は、いろいろなポジションをやって、悩んだ時もあったけど、それからは、いろんなことができることが『自分の強みなんだ』って、思えるようになった。あらめて『自分はそういうプレーヤーだな』と思いましたね」
オシムの指導によって、日本代表もメキメキと力をつけていった。photo by Jinten Sawada/AFLO
日本代表はアジアカップ予選を勝ち抜き、翌年のアジアカップを経て、徐々に力をつけていく。オシムの指揮のもと、チームは多様性に富み、相手に走り勝つ、洗練されたチームに仕上がっていった。
「ジェフでは、ファンが見て『楽しい』「面白い』って、思ってもらえるようなサッカーをやってきた。代表でも、それは変わらなかった。この日本代表だったら『応援したい』と思えるようなチームになっていたと思うし、日本代表がこの先、どんなチームになるのか、すごく楽しみでした」
阿部に限らず、オシムジャパンに招集された選手の誰もが、このチームに期待を膨らませていた。それは、多くのファンやメディアも同じだった。ドイツW杯の悪夢を払拭し、次第にオシムジャパンに大きな希望と夢を抱くようになっていた。実際、一度は落ち込んだ来場者数やテレビ視聴率は、2007年を迎えると、かなりの上昇傾向にあった。
だが、そんな明るい未来を打ち砕く”事件”が起きた。
2007年11月、オシムが脳梗塞で倒れたのである。
(つづく)