あの時もキミはすごかった~巨人・炭谷銀仁朗

 新型コロナウイルス感染拡大の影響で「第102回全国高等学校野球選手権大会」の中止が決定された5月20日。早朝のネットニュースで1つの記事が目に止まった。



 日本プロ野球選手会が日本高野連に対し、今夏の地方大会開催の援助を目的とした寄付を検討しているというものだった。そして、その記事のなかに第9代選手会長の炭谷銀仁朗(巨人)の名があった。

 ようやくシーズン開幕日は決まったものの、いまだ予断を許さない状況が続く野球界。この難局のなかでの「選手会長・炭谷」に、勝手ながら必然的な巡り合わせを感じている。

巨人・炭谷銀仁朗はナイスガイ。万全の準備と仲間への気配りを忘...の画像はこちら >>
 強く、優しく、頼れる男──これが平安高校(現・龍谷大平安)時代から取材を重ねてきた炭谷の印象だ。そして、このナイスガイがつくられた原点は、間違いなく家庭にある。


 父の英毅さんは平安出身で、母の実由記さんは高校時代にソフトボール部に所属し、捕手として活躍したという。それだけでも十分すぎるエピソードだが、じつは炭谷が少年時代、野球よりも前に熱中したのが水泳だった。

 水が苦手で、顔をつけさせるのも頭を洗うのも苦労したという両親が、水に慣れさせようと3歳からスイミングクラブに通わせた。選手育成に力を注ぐ本格的なクラブで、炭谷はスイマーとしての資質をみるみる開花していく。当時の練習は相当ハードで、以前、本人が苦々しい顔をしながら振り返ってくれたことがあった。

「ほんと、ハンパないしんどさで、あの頃は泳ぎにいくのが嫌で......。

月曜から土曜まで毎日夜の7時から2時間。夏休みや冬休みは、朝6時から9時までの3時間と、夜7時からの2時間の1日5時間。とにかくきつかったです」

 天真爛漫な実由記さんは「行ってしまえば楽しんで泳いでいましたよ」とあっけらかんと振り返ったが、小学生にしては相当ハードな日常だったことは容易に想像がつく。そのなかでたくましい肉体と精神を身につけたのだろう。

 当時、野球との関わりは遊び程度だったが、炭谷にとって運命的ともいえる出来事が起きる。1997年、炭谷が小学4年生の時だった。


 この年、長らく低迷していた平安はエース・川口知哉(元オリックス)を擁し、甲子園に春夏連続出場を果たす。そして春はベスト8、夏は準優勝という快進撃を続けが、炭谷は甲子園での全9試合をアルプススタンドで観戦。選手たちと揃いの特製ユニフォームを着て応援した。龍谷大平安の原田英彦監督が振り返る。

「当時は部員が少なくて、3学年で21人。ベンチ入りの16名にボールボーイの子らを除くと、アルプススタンドにユニフォーム姿がまったくない。
いくらなんでもこれは寂しいと思って、僕の同級生に『子どもがいるところは応援に出してくれ』と頼んで、そのなかに"ギン(炭谷)"もいたんです」

 先述したように、英毅さんは平安出身で原田監督と同級生。自身は入学時、野球部に籍を置いたが、その後応援部に移り、3年夏は団長としてスタンドから野球部員に声援を送った。

 卒業後はしばらく会う機会がながったが、1993年の秋、社会人野球(日本新薬)を終えてまもない原田が監督として平安に復帰。原田を応援しようと同級生が集まったのだが、そこに英毅さんも参加した(のちに"原田英彦を応援する会"の会長)。

 英毅さんのなかに野球への思いが再燃し、時折、京都・亀岡にあった練習グラウンドに炭谷を連れて行くこともあった。そんな流れがあっての甲子園での応援だったのだが、炭谷はすっかり野球の魅力に取りつかれてしまった。

平安が準優勝した夏が終わると、炭谷は英毅さんに「野球がしたい」と直訴した。

 しかし、すぐの転向とはならず、英毅さんは「野球がしたいのなら、水泳で結果を出してからや」と条件を出した。それは翌春に予定されていたジュニアオリンピックへの出場だった。すると、炭谷はバタフライでジュニアオリンピック出場を果たし、堂々と目標をクリア。小学5年から軟式の養生(ようせい)クラブに入り、野球人生をスタートさせた。

 当初はレフトを守り、体の大きさ、肩の強さを買われ、6年の新チームからキャッチャーを任された。
チームの監督が平安OBで捕手出身だったこともあり、ここでキャッチャーのイロハを叩き込まれた。

 中学になるとボーイズリーグの京都バファローズに所属し、ここでも捕手として活躍。学年が上がるごとにバッティングもパワーアップし、飛距離もどんどん伸びていった。

 中学3年になると、投手と捕手の"二刀流"も経験。理由は明快で、ピッチャーが投げるボールよりも炭谷の返球のほうが速かったからだ。3年夏は京都大会の決勝まで進むも、最後はコールドで敗れ中学野球を卒業。思い存分、野球を楽しんだ3年間を、炭谷はのちにこう振り返った。

「バファローズはそこまで強いチームじゃなかったんです。でも、野球経験が浅かった僕にはそれがかえってよかったし、ノビノビやらせてもらったのがなにより。小学校5年で始めてから、ずっと楽しく野球をやっていました」

 そして高校は「あいつにとって宿命だった」(原田監督)という平安へ進学。3年間で甲子園出場は果たせなかったが、ここで心身ともにみっちり鍛えられ、2005年のドラフトで西武から1位指名を受けてプロの世界に飛び込んだ。

 幼少期からの成長をたどっていくと、両親から今の炭谷を連想させるいろいろなエピソードを教えてもらった。とくに印象的だったのは、何事にもしっかり備えるという慎重な一面だ。

 時間厳守はもちろん、たとえば小学校の開門が8時ならその前に到着して門を開くのを待ち、少年野球の練習が10時開始なら9時には行って、道具を出して準備していたという。両親揃って時間にはきっちりしていたようで、万全の備えはそうした家庭教育のなかで身につけていった。

 さらに、こんな話も聞いた。

「修学旅行でトランプを持っていくとなった時、友だちの分が足りなくなったらいけないと予備を持っていきました。それにハンガーと洗濯ロープも。そんな感じなので、あの子はいつも荷物が多かったんです」(実由記さん)

「野球でも、スパイクやグラブの紐は必ず予備を入れていましたね。それも自分用とチームメイト用の2本ずつ入れていたはずです」(英毅さん)

 生粋のキャッチャー気質を感じさせるエピソードだが、その根底にあるのは炭谷の優しさだ。

 以前、ある西武の選手の原稿を依頼されたが、エピソードに乏しく困っていたところ、練習終わりの炭谷とバッタリ出くわした。じつは......と事情を話すと、その選手についての話をいろいろと教えてくれ、大いに助けられた。

 そんな炭谷が未曾有の事態に選手会長として立ち向かっている。だが炭谷なら、このピンチも好リードで乗り越えてくれるはずだ。