◆門田博光が村上、清宮、安田のスラッガー度を大診断>>

ホームランに憑かれた男~孤高の奇才・門田博光伝
第1回

 プロ野球が遅い開幕を迎えた6月末、山間にある緑豊かな公園で門田博光に話を聞いていた。「3密にならんようにせんとな」という門田のリクエストに沿って見つけた公園は、適度に手入れされた草木の脇に小川が流れるのどかな場所だった。



 平日の午後、人影もまばら。木製の椅子に腰かけた門田は、「ええとこやないか。しゃべるにはもってこいや」と満足げな表情を浮かべた。

門田博光、通算567本塁打も悔恨「あと33本は打てた。打つべ...の画像はこちら >>

NPB歴代3位の通算567本塁打を放った門田博光

 この10年、門田と定期的に会い、いろいろな話を聞いてきた。そのほとんどは、門田の暮らしのなかでのぼやきから始まった。

 たとえば、市役所窓口での職員の対応であったり、喫茶店での店員とのやりとりであったり、政治やテレビ番組の内容についてであったり......。


「おかしいと思わんか?」

 門田の主張はたしかに正論だが、大半の人が「これくらいは......」と流せるところで引っかかってしまう。プロ野球の長い歴史のなかで歴代3位の567本塁打を放ち"レジェンド"と称されてきた男の繊細さを、あらためて知らされた10年でもあった。

 この日は、少し前に診察を受けた医師とのやりとりについてぼやいたあと、話はようやく開幕したプロ野球へと入っていった。

「143試合が120試合になって、連戦が増えるらしいな。オレらの時は20連戦とかあって、その間にダブル(ヘッダー)もや。想像できんやろ? あの頃はどんだけG(巨人)のスケジュールがうらやましかったか。
そこまで条件が違ったら、個人の記録なんて変わってくる。でも、それがその時代のパ・リーグの環境やったんや」

 パ・リーグは1973年から82年まで前・後期の2リーグ制を敷いていた。日程は過密を極め、20試合前後の連戦が一度ならまだしも、二度、三度組まれることもあった。9連戦で騒ぎになる今とは、まさに隔世の感がある。

「昔はドーム球場なんてないから、しょっちゅう試合が中止になった。そのせいで20連戦なんて組まれたらヘトヘトで、体もパンパンや。
阪急との試合前、フク(福本豊)に『(ご飯にみそ汁をぶっかけた)ねこまんまって食べたことあるか?』って聞いたことがあったけど、そんなんしか(口に)入らへん。ほんま、えげつない日程やった」

 話題は連戦から無観客になり、さらに開幕前から一部で話題になった打球の飛び具合につながった。練習試合、オープン戦から特大弾が飛び出し、打ち損じたと思った打球がフェンスオーバーする。このことについて、門田は持論を展開した。

「客が入ってないことが、飛ぶひとつの理由やないか。オレの現役の頃は、6月の北海道が飛ぶといわれて、いつも頭に入れとった。

(1年に一度の遠征で)あそこに行く時は、最低でも(本塁打を)2本は打つと決めとったんや。

 6月の梅雨の時期は、湿気でボールが重くなって打球が飛ばん。だけど、梅雨のない北海道に行ったら気持ちいいくらい飛んでいった。だから、はよ北海道に行きたいとなっとったんやけど、あの時と似たようなことになってるんとちゃうかということや」

 つまり、観客がいないことで、空気が乾燥して打球が飛んでいると?

「イエスや。お客を入れんということは、満員でドンチャンやっている時より、球場内に湿気や熱気がないから飛ぶというのはあるやろう。ドームやったらなおさらや。
もとから湿気も少ないから、そら飛ぶやろ。まあ、こんなこと言うとったら、『またおっさんが何か言うとるわ』と思われそうやけど、オレはそんなことばっかり考えてやっとったんや」

 現役時代の門田は人一倍、風や湿気、自然条件を気にかけて打席に立っていた。そして利用できるものはなんでも利用した。

「当たり前のことや。こっちはフェンスの向こうまでボールを持っていくのが仕事や。どうやって外国人のパワーに対抗するか。
そればっかり考えとった」

 コロナ騒動がいったん落ち着いた頃に、東京から関係者が持参してきたという名球会の帽子を頭に乗せ、門田の語りは熱を帯びていった。

 現役時代、"ポパイ"の異名をとった肉体は随分とスマートになったが、独特の感性や言い回しは、解説者として人気を博していた当時を思い出す。しかし、たまに近くを人が通っても門田に気づくものはいない。それは今日に限ったことではない。

「そこがGやT(阪神)との違いや」

 評論活動を離れ、約15年。住まいも自らの希望で郊外へと移した。仕事の面でも健康の面でもいろいろなことがあった。その影響もあって、野球との関わりは年々薄くなっていった。

「テレビで野球を見てるかって? ほかに特別見たい番組がないから見る程度で、まぁ2番手や」

 ただ、見るとなれば何を見るかは決まっている。

「今年はどんなやつが飛ばすのか。興味があるのはそこだけや。去年は坂本(勇人/巨人)のスイングの前が大きくなって、これは本数いくなと思とったらやっぱりや。Gの若いほう(岡本和真)は、去年はちょっと太って見えたけど、30本以上打ちよった。今年40発打ったら本物や。あの子は背中が柔らかいのがええ」

 そこから中田翔(日本ハム)、森友哉西武)、吉田正尚、T−岡田(ともにオリックス)らの話題が続いた。スラッガーたちの話になると、「もう十分にやりきった」と胸の奥にしまっていたはずの勝負師の本能が目覚め、悔恨の思いが蘇る。

「いま思うのは、600本は打ちたかったということや。あと33本は打てた。絶対に打っとくべきやった。最近はいつもそのことばかり考えて、うなされとるんや」

 門田が放った567本塁打は、王貞治の868本、野村克也の657本に続くNPB歴代3位。門田に500本台と600本台の違いを尋ねると、こんな答えが返ってきた。

「そら、重みが全然違うわ。500本台はようけおるやないか。ハリさん(張本勲)、山本浩二さん、オチ(落合博満)、衣笠(祥雄)、清原(和博)......。でも600本以上となるとナンバーワン(王貞治)と19番(野村克也)しかおらんのやから。500本なんて、ちょっと真剣にやったら誰でも打てる」

 長いプロ野球の歴史で、500本以上の本塁打を放った打者は数えるほどしかない。決して誰でも打てるとは思わないが......。

「打てる、打てる。高校までホームランなんか打ったこともなかったオレが打てたんやから。清原でも、あいつがひたすら鍛えて、野球に打ち込んどったらどれだけ打ったか。王さんに迫っとったやろう。

 でも、みんなそこまで追求せんのや。ホームランを打てるヤツは『ヒットでええわ』となって、40本狙えるヤツも『30本でええわ』となってしまいよる。今はそれでも十分な諭吉(お金)が入ってくるから、それがまた挑戦の邪魔をしとるんやけどな」

 もし門田が600本台に達していれば、アーチストとしての重みはより増したに違いない。

「ほんまに600本はいけたんや。30歳の頃、オレはまだおっさん(野村克也)の背中も見えていなかった。31歳でアキレスをちぎってから、より追求するようになってホームランが増えていったんや。だから40歳を超えてもまだまだやれる感じはあったんやけど、最後は新聞に"引退"って書かれて、一気に辞める方向になってな......。600本は打っとくべきやった。一番の悔いはそこや」

 本来ならその心残りも含め、自らの技術を伝えるべくアーチストの育成に力を注ぐ道があってしかるべきだった。しかし、現役引退後は一度も指導者としてNPBのユニフォームを着ることなく、時は流れた。

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 独立リーグや社会人などでは指導したことがあったが、門田の思いを本当の意味で満たす選手と出会うことはなかった。

 門田には伝えたいこと、遺したいものがいくつもある。しかし、その場がない。気がつけば、門田との贅沢な時間は3時間を超えていた。

「またアホみたいな話をようけしゃべってもうたな。そろそろええ時間やろ? 帰ろうか。山のなかで猫とタヌキが『腹減った、メシくれ』と待っとんねん」

 そう言うと、門田は席を立ち、緑のなかをゆっくりと歩きながら、戦う必要も、挑む必要もない静かな日常へと戻っていった。

つづく

(=敬称略)