今シーズンのJ1リーグは、稀に見る"外国人選手の当たり年"だ。

 たとえば11月1日時点の得点ランキングを見てみると、ダントツの首位に立つ柏レイソルのオルンガを筆頭に、エヴェラウド(鹿島アントラーズ)、エリキ(横浜F・マリノス)、レオナルド(浦和レッズ)、レアンドロ・ダミアン(川崎フロンターレ)、マルコス・ジュニオール(横浜F・マリノス)、レアンドロ・ペレイラ(サンフレッチェ広島)と、トップ10のうち7人が外国人選手で占められている。

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ピクシーはグランパスに8年在籍した

 もちろん、こうしたアタッカー系の選手以外にも、ゴールキーパーやセンターバックなどキーポジションで活躍する外国人選手は多い。昨シーズンから導入された「外国籍選手の登録無制限ルール(1試合の最大エントリーは5人)」が、いよいよ本格的に効果を示し始めたとも言える。

 そんななか、各チームのサポーターにとって気になるのは、チームの主軸として活躍する彼らが来シーズン以降もチームにとどまり、どれだけ長く活躍し続けてくれるかどうかだろう。とりわけヨーロッパのクラブも触手を伸ばすオルンガの去就は、レイソルサポーターのみならず、日本のサッカーファンにとっての関心事だ。

 ただし、サッカーの移籍マーケットがグローバル化した近年は、Jリーグで目立った活躍をした外国人選手が海外のクラブに引き抜かれることは日常茶飯事。もともと複数クラブを渡り歩くのが当たり前の外国人選手にとって、同じチームでプレーし続けること自体が以前にも増して難しくなっているのが現状だ。

 逆に言えば、だからこそひとつのクラブでプレーし続ける稀有な外国人選手は、各チームのサポーターの心を鷲づかみにする。実際に過去を振り返っても、今も各サポーターに愛され続ける助っ人版"バンディエラ"は極めて限られている。

 その代表格と言えるのが、1994年から2001年にかけて名古屋グランパスでプレーした「ピクシー」ことドラガン・ストイコビッチだろう。

 在籍8年という長さも異例だが、その間、見る者に与えたインパクトという点においても、ピクシーは歴代外国人Jリーガーのなかでも群を抜く。

 カップ戦を含めた公式戦すべてを含めると、239試合に出場して79得点をマーク。グランパスにふたつの天皇杯優勝をもたらし、1995年にはJリーグ年間MVPを受賞。

ベスト11にも3度選ばれている。

 もっとも、それらの功績以上にピクシーがファンに愛された最大の理由は、観衆を魅了する華麗なテクニックと、喜怒哀楽に満ちたハイレベルなパフォーマンスにあった。存在自体が「ザ・エンタテインメント」。Jリーグ人気が下降線を辿るなか、当時はピクシーのプレーを見るためにスタジアムに足を運んだサッカーファンが日本全国に存在した。

 2001年7月、ピクシーはユーゴスラビア代表の一員としてフィリップ・トルシエ監督率いる日本代表とキリンカップで対戦し、その試合を最後に代表引退。そしてその2週間後の週末に行なわれたJ1リーグの1stステージ最終節で、プロキャリアを終える。

 すると、名古屋市中区新栄町にある東新町交差点には、グランパスサポーターの呼びかけによってピクシーの足型モニュメントが設置された。そこからつながる東新町商店街の道は、現在も「ピクシー・ストリート」として多くの人々に親しまれている。

 グランパスとピクシーの深い関係はその後も続き、2010年、ピクシーが監督としてクラブ史上初となるリーグ優勝に導いたことは記憶に新しいところだ。

 同じく、浦和レッズの「助っ人バンディエラ」として現在もクラブと深いつながりを持ち続けているのが、2005年から6シーズンにわたって攻撃の中心として活躍し、今も変わらずサポーターから愛されているロブソン・ポンテだ。

 ポンテが在籍した期間は、レッズの黄金時代。2005年の天皇杯初優勝を皮切りに、2006年には初のJリーグ年間優勝と天皇杯2連覇を果たし、2007年には大会名称変更後に日本勢として初のアジアチャンピオンズリーグ優勝を成し遂げた。

 まさに、クラブ史上最も輝いていた時期にあたる。レッズサポーターの心のなかに、今もポンテが宿る最大の理由だ。

 そもそも来日前は、ドイツのレバークーゼンで欧州チャンピオンズリーグの舞台でもプレーするなど、ワールドクラスの選手として活躍していた。そんなブラジル人が来日したのは、当時レッズを率いていたドイツ人ギド・ブッフバルト監督の熱心な誘いがあったからだ。

 そのブッフバルトも、在籍期間は4年ながら、日本ではレッズひと筋を貫いた助っ人バンディエラのひとり。結局、ポンテもその後継者として離日するまでレッズにこだわり、現在もポルティモネンセ(ポルトガル)の幹部に在籍する傍ら、レッズの外国人選手の移籍をサポートし続けている。

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 昨年J1王者のF・マリノスにも、サポーターの記憶に刻まれる助っ人バンディエラがいる。2001年から2006年、そして2012年に再来日して2シーズンにわたってF・マリノスで活躍したブラジルの鉄人ドゥトラだ。

 公式戦268試合に出場し、サイドバックながら12ゴールを記録。加入初年度にクラブ史上初のナビスコカップ(現ルヴァンカップ)優勝に貢献すると、2003年・2004年は岡田武史監督の下でリーグ連覇に貢献するなど、チームに不可欠な戦力として活躍した。

 ドゥトラがサポーターから熱烈な支持を集める理由は、2006年に一度は戦力外となってブラジルに帰国しながら、38歳になった2012年に再びF・マリノスに加入したことにある。

 当初不安視された年齢的衰えを微塵も感じさせないパフォーマンスに、多くのサポーターは魅了された。2014年7月27日に瑞穂競技場で行なわれたラストマッチの名古屋戦にも多くのファンが詰めかけ、功労者に対して最後まで惜しみない声援を送っている。

 ヴィッセル神戸のボッティ、横浜フリューゲルスのモネールも、忘れられない存在だ。

 2007年に加入したボッティの在籍5年は、外国人としてはクラブ史上最長記録。リーグ戦140試合8得点を記録したブラジル人は、中盤で違いを生み出す典型的な10番として、ヴィッセルサポーターの記憶に刻まれている。

 また、Jリーグがスタートする以前の1988年に来日したモネールは、フリューゲルスの前身にあたる全日空で3年プレーしたあと、スペインのアトレティコ・マドリードに移籍。しかし、Jリーグ開幕年の1993年に再来日を果たすと、フリューゲルスで2年間プレーし、さらに2002年からはフリューゲルスを後継する横浜FCにも2シーズン在籍するなど、フリューゲルスの系譜を象徴するレジェンドのひとりとなった。

 一方、晩年に他のJクラブに在籍したものの、準バンディエラとして各クラブのサポーターから崇められる外国人選手としては、FC東京のアマラオ、川崎フロンターレのジュニーニョ、サンフレッチェ広島のミキッチ、柏レイソルのフランサ、ベルマーレ平塚(現湘南ベルマーレ)のベッチーニョらが挙げられる。

 とりわけ、FC東京の前身にあたる東京ガス時代から12年にわたってプレーしたアマラオは、のちに「キング・オブ・トーキョー」としてサポーターから敬愛される別格の存在。自伝的ドキュメンタリー映画も制作されるなど、クラブの歴史の一部となっている。

 Jリーグ過去28年の歴史を振り返っても、ここに挙げたような外国人バンディエラは数えるほどしか存在しない。今シーズン活躍する外国人選手のなかにも、のちに語り草となるような「助っ人バンディエラ」が生まれることを期待したい。