ホームランに憑かれた男~孤高の奇才・門田博光伝
第5回

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 今から7、8年前のこと。門田博光の現役時代にまつわる品を保存している一室を訪ねたことがあった。

場所は大阪。門田の知人宅の一部を利用したスペースで、そこはまさに「門田博光記念館」だった。

 現役時代にモデルチェンジを繰り返した歴代の南海ホークスのユニフォーム、タイトル獲得時の記念品の数々、特注品で相手チームからクレームがついたという特大グラブに手袋、スパイク、遠征用のスーツケース......。コレクター垂涎の品が並ぶなか、中央のショーケースには門田の代名詞である1キロのバットが存在感たっぷりに横たわっていた。

門田博光のバットへのこだわり。野村克也に学び清原和博に聞かれ...の画像はこちら >>

1キロのバットを使いこなせるまで7年の歳月を要した門田博光

 見るからに重みを伝えてくる現役時代の相棒を前に、今の選手たちのバットについて話題を向けてみた。すると門田は、素っ気なくこう言った。

「あんな箸みたいなバットでよう飛ばさんわ」

 この「箸みたいな......」というフレーズは、ここ10年ほど、門田との会話のなかで何度も耳にしてきた。門田の全盛期のバットが1キロということは広く知られているが、最近の選手たちのバットは900グラム前後が主流である。

「己を改革したらもう一段上に行けるかもしれんのに、なんで挑戦せんのや」

 門田にとって1キロのバットは、己に挑み、自己改革を成し遂げた証そのものだった。

 門田が活躍していた1970年代から80年代には、930~940グラムのバットを使う打者が多くいた。ただ、福本豊や藤原満が使っていたヘッドもグリップも通常の型より太く、重さが1100~1200グラムと言われた"つちのこバット"は別として、長打を求められる打者が1キロのバットを使うというのは、当時でも常識外だった。

 しかし門田は挑んだ。

理由はただ「ホームランを打ちたかったから」と明快だ。それも強く、速いライナーで、外野スタンドに並ぶ椅子を下から突き上げるような弾道のホームランを打ちたかった。

 そしてもうひとつ、このバットを使いこなせたら"アメリカの戦車(外国人選手)"と戦えると考えたからだった。

 1キロバットの挑戦を思い立ったのは、1979年にアキレス腱を断裂するよりも以前のことである。入団時からホームランへの思いは誰よりも強く抱いていたが、10年目までは入団2年目の31本塁打が最多で、なかなか数を伸ばせなかった。

 そこへパ・リーグは、門田のプロ6年目の1975年からDH制を採用。

打つことだけを求められる外国人のパワーヒッターが中軸に座るという流れが各チームにできあがっていった。当時、門田はまだ守備に就いていたが、頭のなかは "アメリカ戦車"へと向いていった。彼らといかに戦うか......。

「ボールを飛ばすには速いヘッドスピードと、バットは軽いより重いほうがええ。南海に入った時にノムさん(野村克也)を見て、40発打つにはそれだけの胸厚があるし、40発を打つバットがあることを知ったんや。だから40発打てる相棒を7年がかりでつくったのが1キロのバットやった。

 最初はキャンプだけ、次はオープン戦の途中まで、そしてオープン戦の最後まで、開幕から1カ月、3カ月......とやっていって、シーズン最後まで扱えるようになるまでに7年。1キロを1年間振れるようになって、やっと外国人に劣等感を感じんようになった。そんなことを知らんヤツは『門田は怪物や』『別格や』と言うけど、170センチのこんな体で何もせんと打てるわけないやろ」

 重さだけでなく、バットの長さも試した。当時も今も34インチ(約86センチ)近辺が主流だが、門田は「長いバットを扱えるならそっちが有利」と34.5インチ(約88センチ)に挑戦。さらに探究心は止まず、80年から4年間、日本ハムの「4番・DH」を務めたトニー・ソレイタが桁外れに長いバットを使っていると知り、興味を持った。

「37インチで重さが940から960グラムくらいのバットやった。

これが握らせてもらったらとにかく重い。1インチ長くなると、だいたい20グラムずつ重さがついてくるから、感覚的には34インチの1キロか、それ以上に感じるんや。でも、このバットでソレイタが飛ばしてるなら、オレもこれくらい扱えるようにならんと勝負できへんとまた燃えてな。それで『ヘイユー、プレゼントOK?』で1本もろうたんや」

 門田はそのバットを早速使ってみた。大分での近鉄戦、1打席目は普段なら先っぽに当たるはずの球をとらえてセンター前ヒット。「ええな」となりかかったが、2打席目に内角球をボキッ。

根元から折れ、「こっちはアカン」と長さへの挑戦はここで終わった。

 その一方で、1キロへの挑戦は続いた。

「バットはバランスによって、同じ重さでも重く感じるものもあれば、そうでないものもある。自分で扱えるバランスのなかで重みがあるのがええわけや。そのなかでオレにあった1キロを見つけて、1年振れるようにやっていった。

 オレは上背がないから、余計に『あと半インチ長くしたらどうなる?』『もう100グラム重くしたらどうなる?』と、そんなことばかり考えとった。佐々木小次郎もこんな感じやったんとちゃうか。もっと長い刀を使ったらどうなる、と挑戦しているうちに物干し竿になっていったんやろう」

 佐々木小次郎は当時の将軍・徳川家康が刀の長さは2尺8寸(約87.5センチ)までとする御触れを出していたなか、3尺ほど(約1メートル)の刀を使い、その刀に「物干し竿」の呼び名がついたとされる。それを指しての話だったが、とにかく自分でやってみるのが門田だった。

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 1キロのバットが広く知られるようになった頃、西武戦で一塁へ出塁した際、清原和博から質問を受けたことがあった。

「夏場はバットを軽くするんですか?」

 これに門田はこう返した。

「普通はそうや。ただな、疲れが出てきた時に軽いのを使うほうがいいとは誰でも考えることや。逆に、重いバットを使って、その重みを利用して振るのも手なんや」

 実際、門田は絶不調時に1350グラムという超規格外のバットを使い、自らのバッティングがどうなるのかを試したことがあった。未知なるものには常に可能性を求め、経験したからこそ信じることができた。

 ひと昔前にくらべて、打球の"飛び"ということに限れば、バットの性能が上がり、選手たちを軽量化へと向かわせた。軽いバットのほうが細かな変化球や150キロが当たり前になったスピードボールにも対応しやすいというのが、今の選手たちの主張だ。これに門田は首を傾げる。

「じゃあ、4割を打つ選手が出てきたか? 3割打者がどれだけ増えたか? 要は打てる球をどれだけとらえられるかの勝負。そこはいつの時代も変わらんし、どうしたら一番飛ぶかといえば、重いバットを速く振ることなんや。ならば、そこに挑戦するのがプロやないんか」

 これが門田の持論であり、追い求めたのはプロとしてのあり方。あとに続く選手たちから挑む姿勢が伝わってこないことに門田は物足りなさ、寂しさを感じていた。

 門田のバットへの思いはもちろん、強く、そして深い。現役引退の翌1993年に『吾輩はバットである』(海越出版社)という著書を出版している。タイトルどおり、主人公のバットが主人である門田へのボヤキや感謝の思いを口にしながら話は進む。

<ご主人様は調子が悪くなってきたとき、ワシについているマークを後ろによくした。そうするとワシが長く見えて、ボールが当たりそうな気がするらしい>

<ご主人様はワシに「助けろよ、しっかりボールを見ろよ」とよくマジックで目を書くが、今回は超特大の目を黒々と書いた。そこでワシも「よし」と気合を入れ直した>

 照れ屋の本人に代わって語るバットの言葉からは、随所に門田の本音が伝わってくる。また、後半のあるページでバットはこう呟いている。

<ワシの身長は34.5インチ、体重は950グラムから1キロあった。背の低めのご主人様にはちょっと荷が重い。無理しなくても、と思ったものだったが「重いバットを速くスイングして遠くへ飛ばす。それは俺の夢をかなえる方法」と、一途に練習するご主人様を見て、感動した>

 まさに門田博光の真髄。プロとして理想の打球を求め、"アメリカの戦車"と戦うために挑んだのが1キロのバットであった。

 そして門田は現役スラッガーに対して、こんな願いを口にする。

「令和の時代に『このおっさんは何を言うてるんや』と耳を塞がんと、一回でもいいから発想を変えて重いバットを使ったらどうなるんかと挑戦してほしい。キャンプの数日間からでもええ。910や920と1キロではまた違う理論ができあがる可能性があるんやから......箸みたいなバットは少し置いて、重いバットに挑戦する選手が出てきてほしい」

 常識を打ち破らんと挑むホームランアーチストの登場を、"昭和のモンスター"はまだあきらめきれずにいる。