学びと経験と人との出会いがアスリートを育てる。それは成長のプロセスにおいて普遍的なことかもしれないが、宮澤夕貴の話を聞いていると、あらためてその大事さに気づかされる。

 宮澤が女子バスケットボールチームのENEOSサンフラワーズの中心選手になり、日本代表の主力になったのは、才能にプラスこのプロセスを踏んできたからだ。「自覚と責任」という言葉を胸に東京五輪での活躍が期待される"日本の3番(スモールフォワード)"は、どのようにして成長を遂げてきたのだろうか──。

憧れはイチロー。宮澤夕貴がバスケ日本代表屈指のシューターとな...の画像はこちら >>

日本代表でも活躍するENEOSサンフラワーズの宮澤夕貴

 宮澤は、神奈川のバスケットボールの強豪・県立金沢総合高校に入学。その時、チームを指導していたのが星澤純一監督だった。

 宮澤は横浜市立岡津中学時代、星澤監督の指導を受けたいと"カナ総"への進学を決めた。2年で主力、3年時にはキャプテンになり、2011年の高校総体で優勝。

星澤監督の定年に花道を飾った。

「星澤先生には『自分自身で考えろ』とよく言われました。先生がヒントをくれて、あとは選手が考えて行動する。それに『コート上では優しい人ではダメだ。強い人間になれ』とも。その言葉は今もずっと残っています。

いろんな意味で選手として、人として、すごく成長させてくれた先生でした」

 その一方で、高校時代に後悔した経験もいまに生きていると宮澤は言う。

「高校時代は朝が苦手で、朝練とかあまりやらなかったですし、試合に出ていない選手の気持ちもわからなくて、トゲトゲしい言葉をかけたりしていました。それはすごく後悔しています。卒業後は自主練も積極的にするようになりましたし、選手一人ひとりに対して思いやりをもって接することができるようになりました」

 高校卒業後、宮澤はENEOSサンフラワーズに入社する。女子バスケ界の王者に君臨していたチームを選んだのにはこんな理由があった。

「日本代表で3番をやりたかったんです。

それにはセンターがしっかりしたチームでないとできない。ENEOSはセンターがしっかりしていたのと、ずっと優勝していたので、偉大な先輩たちがいるなかで自分がどれくらいやれるのか挑戦したい気持ちがありました。あと、バスケットをする環境もすごく整っていたので決めました」

 期待に胸を膨らませて入部したが、すぐにトム・ホーバスコーチ(現・女子日本代表ヘッドコーチ)から「ワンハンドにしろ」と指摘を受けたという。

「身長もありましたし(181センチ)、ワンハンドのほうがツーハンドよりもシュートが安定するんですけど、全然届かなくて......。みんなが3ポイントやシューティングをしているのに、自分だけゴールの下で黙々とワンハンドシュートの練習をしていました」

 コツコツと努力を重ね、3年目にはミドルシュートの確率が上がり、5年目には3ポイントシュートをマスターした。今では、3ポイントは宮澤の代名詞にもなっている。

「3ポイントは相手が一番怖がるし、自分の武器ですよね。3ポイントがあることで相手が出てくるし、そこでドリブルしてシュートを狙う」

 攻撃力を高め、2015年にはWリーグのベスト5に選出。そして2016年には大きなターニングポイントとなる大会を経験する。それがリオ五輪である。

 この年のシーズン、宮澤はリーグ戦でなかなか試合に出場できず、パフォーマンスも満足するものが出せていなかった。

「(代表)メンバーから落ちるだろうな......」

 そう思っていた宮澤だったが、代表に選出された。

試合に出て活躍していた選手が落選し、涙を流している姿を見ると、宮澤の気持ちに大きな変化が生じた。

「最初は『あっ、選ばれちゃった』という感じだったんです。でも、落選した選手の涙を見て、『そんな気持ちじゃダメだ』って。その時、自覚と責任というのが自分のなかで芽生えてきました」

 リオ五輪では6試合中、宮澤が出場したのはグループリーグのブラジル戦と準々決勝のアメリカ戦の2試合に終わった。試合にはあまり絡めなかったが、リオ五輪を経験したことで自分の意識が変わったことを実感したという。

「『自分がやらなきゃ』って思いましたし、目標をしっかり考えられるようになりました。

プレーでもその頃から3ポイントを積極的に打ち始めるようになって......」

 リオ五輪後、心技体が整った宮澤は、2017年はWリーグのベスト5、18年は皇后杯MVPとWリーグ・ベスト5、2019年も皇后杯MVPと結果を出し続けた。しかし、昨年はコロナ禍の影響で活動自粛となった。そんななか、宮澤は自身のツイッターに「もののけ姫」などの絵を投稿し、話題になった。

「中高は美術が好きで......自粛期間は時間があって、ジブリが好きなのでよく描いていました。鉛筆削りを貸してもらったら、細かいところまで描けるようになって、すごくクオリティが上がりました(笑)」

 リーグ戦が始まり、シーズンが深まっていくとケガ人が増えた。林咲希、大沼美琴、梅沢カディシャ樹奈が相次いで故障し、12月16日の皇后杯準々決勝の富士通戦ではエースの渡嘉敷来夢が右膝前十字靱帯断裂の重傷を負った。

 決勝のトヨタ自動車戦は6人ローテーションを余儀なくされたが、宮澤をはじめ、中村優花らの活躍で勝利し、8連覇を達成。コート上でインタビューを受けた宮澤は「過去9回の優勝のなかで一番うれしかった」と涙をこぼした。

「昨シーズンはケガ人が多くて、皇后杯は『当たって砕けろ』みたいに思っていたのですが、ENEOSはスター揃いなので『勝たなきゃダメだろ』とか『勝って当たり前』とか言われて......。自分たちはどのチームよりも練習していると思っているし、どんな状況でも力があることを証明したかった。それを証明できて、すごくうれしかった」

 続くリーグ戦のプレーオフ決勝もトヨタ自動車が相手だった。宮澤は右肩の状態が悪く、痛み止めを服用して出場した。ケガ人が多いゆえ、12連覇がかかった大事なファイナル。宮澤まで欠けるわけにはいかなかったが、試合は敗れてしまった。

「準優勝に終わって悔しい思いはありましたが、やり切った感じはありました。あの試合でのパフォーマンスは自分でも100%だと思いますし、チームとしてもあのメンバーでやれることは全部できた。だから、もっとできたとは思わなかったですし、結果を受け止めて前に進んでいこうと素直に思えたんです」

 激動のシーズンを終え、宮澤はまたひとつ成長できたという。ただ、その代償として右肩など、体には大きなダメージが残った。宮澤は当面、右肩の治療とパフォーマンスを取り戻すことに注力している。

「昨シーズンはパフォーマンスが落ちたと思っていますし、それは見ている人もわかっていると思うんです。だから、右肩はもちろんですが、自分のパフォーマンスを早く取り戻さないといけない」

 そう思うのは、東京五輪が控えているからだ。エースである渡嘉敷の復帰は予断を許さない状況だが、女子日本代表はリオ五輪で8位だったように、頑張ればメダルに届く距離にいる。宮澤はチームの主力として期待されている。

「東京五輪は、以前は自分のためにと思っていたんですけど、今は周りの人のためにという気持ちが強いです。今まで支えてくださった方、家族、友人、先生、監督への恩返しだと思っています。自分が頑張ることで『私も頑張る』と言ってくれる人がいるので、そういう人たちのためにも一生懸命プレーしたいと思います」

 東京五輪が無事に開催されれば、圧倒的な声援を受けて女子日本代表が歴史的な大躍進を果たすかもしれない。皇后杯で主力が抜けても全員で優勝を勝ち取った経験が、宮澤の背中を押す。

 ちなみに、前回のリオ五輪が終わったあと、宮澤は記念に指輪を購入したという。もし東京五輪で女子バスケ史上初のメダルを獲得すれば、どんなご褒美になるのだろうか。

「なんですかね......リオの時は買う予定はなかったんですけどね。東京五輪のあとは、これからも頑張れるようにと思いを込めてご褒美を買うと思うんですけど。なんだろう? その時の気分ですね(笑)」

 なんにせよ、胸に輝くメダルがあればそれに勝るものはなく、宮澤が偉業達成に貢献すれば、憧れの選手に一歩も二歩も近づけることになる。

「イチローさんに憧れているんです。すごく気持ちが強く、前向きじゃないですか。自分は落ち込む時がありますし、それがいっぱいいっぱいになると止められなくなって。みんなが『えっ、どうしたの?』ってなるので大変なんですけど(笑)。ただ、できるだけそういう姿は見せたくない。常に前向きに物事を考え、ポジティブにいられる選手でいたいなと。プレーがダメでも、自分がいればとか、コートに立ってさえいてくれればというプレーヤーになりたいと思っています」

 イチローのように各世代に大きな影響を与え、常に必要な存在でいられるだろうか。少しずつでもその領域に近づきつつあるように思えるが、誰もが認める圧倒的存在感を見せつけるよう、さらに成長していく姿を見せてくれるはずだ。

宮澤夕貴(みやざわ・ゆき)
1993年6月2日、神奈川県生まれ。小学生の頃からバスケットボールを始め、岡津中学から金沢総合高校へ進学。高校3年時の2011年に高校総体優勝。卒業後は女子バスケットボールの強豪・ENEOSサンフラワーズに入部。2015、17~19年にWリーグ・ベスト5に選出され、2018年から2年連続して皇后杯MVP獲得。ポジションはフォワード、コートネームは「アース」