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【人の倍以上、ランニングしていた大エース】

――前回に続いて、今回も往年の大エース・松岡弘さんについて伺います。松岡さんは1978(昭和53)年、ヤクルト初優勝の年の沢村賞投手です。

この年の松岡さんの印象はいかがですか?

八重樫 松岡さんは、後の尾花(高夫)と一緒で、球数の多いピッチャーなんです。せっかくツーナッシングまで追い込んでも、そこからクサいコースを狙ってフルカウントになってしまう。でも、初優勝した1978年は変化球のコントロールの精度が上がって、追い込んでから三振をとれるケースが増えた気がするんですよ。ランナーを出しても、連打が少なかったのが、あの年だったな。

あと9勝で200勝も松岡弘はなぜ引退したのか。八重樫幸雄が感じた「心のスタミナ切れ」

1978年10月、沢村賞決定にナインの祝福を受ける松岡弘

――日本シリーズでの好投も含めて、この年の松岡さんは絶好調だったんですね。

八重樫 前の年ぐらいから、突然変化球のコントロールがよくなった印象です。
原因はよくわからないけど、マウンド上でも自信を持っているのがよくわかりました。それに、とにかくタフでした。30歳を過ぎてからも、人の倍ぐらいランニングをしていましたから。それは引退直前まで変わらなくて、松岡さんといえば、ずっと走っているイメージなんですよ。

――現役引退後の今もずっとスリムな体形ですけど、体はかなりタフなんですね。

八重樫 体全体はもちろん、肩と肘もタフでした。
松岡さんが肩や肘を故障したっていう記憶はないですから。関節部分が人よりも非常に強いんじゃないのかな?

――松岡さんの通算成績は191勝190敗。200勝まであと9勝としながらの現役引退でした。1983年に11勝して、「残り10勝」としながらも、1984年はわずか1勝、そして1985年は0勝で引退しました。現役晩年の頃の松岡さんの状態はどうだったんですか?

八重樫 ストレートの勢いは全盛時よりは衰えていたけど、変化球のコントロールはよかったので、5回くらいまでは抑えられるんです。でも、その後に崩れてしまうことが多かった。
だから、「7回を投げ切る思いで投げないと勝ち星はつかないですよ」って激励をしていたんですよ。

【200勝まで、残り9勝での引退劇】

――確かに1980年代初頭の松岡さんは、序盤はいいんだけど、中盤以降に崩れるケースが多かった記憶があります。

八重樫 そうなんだよね。5回を過ぎたあたりから、右腕をぐるぐる回して、肩を気にする仕草が多くなってくる。そうすると、ピッチングコーチがベンチから出てきて、「おいマツ、大丈夫か?」って聞くんです。普通だったら、「はい、大丈夫です」って答えるところを、この頃の松岡さんは、一拍間を置いてから小さな声で「大丈夫です」と答えるようになっていたんだよね。



――それは、自信のなさの表れなんですか?

八重樫 たぶん、そうだと思います。少なくとも僕にはそう見えました。そういうことが何度か繰り返された後、松岡さんが肩を気にし出したら、すぐに交代というケースが増えていったんだよね。リードしたまま、後輩ピッチャーがマウンドに上がるんだけど、後輩たちは「松岡さんの白星を消しちゃいけない」と緊張でガチガチだったんだよ。

――松岡さんの200勝が間近だということは、当然知っていますからね。

八重樫 もちろん、みんな知っていました。
それで結局、若いピッチャーが打たれて、逆転されて松岡さんの白星が消えていく。そんなケースは何度もありましたね。

――めちゃくちゃ記憶にあります。「サッシー」こと、酒井圭一さんが松岡さんの白星を消して、幼心に憤慨したことをよく覚えています(笑)。

八重樫 でも、あんな場面で投げなきゃいけなかった酒井もかわいそうですよ。だから、松岡さんに言ったことがあります。
「松っつぁん、とにかく7回まで頑張りましょう。そうしないと200勝は見えてこないよ」と励ましたんだけどね。

――1984年は24試合に登板、そのうち13試合は先発したのに1勝5敗でした。まさに、この頃の出来事ですよね。

八重樫 そうですね。そういう状態が数年続いて、結局スタミナも持たなくなってきた。それで、200勝まで残り9勝で引退してしまったんです。あの頃は、チーム全体で「松岡さんに200勝を達成させたい」という思いを持っていたんですけどね。本人もかなりのプレッシャーがあったんでしょう。だから、勝ち投手の権利を得たら「早く代わりたい」と思ったのかな? 本当のところは本人にしかわからないけどね。体の限界もあったのかもしれないけど、体よりも心のスタミナが切れてしまったような印象です。

【カラオケでは吉幾三と石川さゆりを熱唱】

――それにしても、200勝を達成してほしかったですね。

八重樫 スワローズでは金田正一さん以来、200勝投手はいないでしょ。その最初の人が松岡さんになると思っていたから、僕も本当に残念でした。残り4~5勝までいっていれば、心のスタミナが切れることなく、石にかじりついてでも達成できたかもしれない。その点は本当に残念だったな。

――これは以前、松岡さんご本人から伺ったんですけど、「みんなは残り9勝で惜しいと言うけど、僕は191勝したことよりも、190敗したことを誇りたい」と言っていました。その理由を聞くと、「普通は190敗もしたら、試合で投げさせてもらえない。でも、それだけチームから、みんなから信頼された証だから」と言っていました。

八重樫 そうだね。みんな松岡さんを信頼していたね。「他に投手がいなかった」というのも事実だけど、実際に1970年代の松岡さんは本当によく投げていました。勝っても、負けても、全力で投げていた。確かに「190敗」という数字は誇れるものかもしれないですね。

――結果的に1985年シーズンを最後に、松岡さんは191勝190敗で現役を引退。その後すぐに二軍投手コーチになりました。当時の八重樫さんはまだ現役選手でしたが、引退後の松岡さんの印象に変化はありましたか?

八重樫 現役時代のようにピリピリした感じがなくなって、角が取れたというか、ちょっと明るくなりましたね。二軍のコーチというのが性に合っていたのかもしれない。真っ黒になって練習していたようですから。

――ところで、プライベートの松岡さんはどんな方なんですか?

八重樫 僕がコーチになってから、コーチ同士でカラオケに行くこともあったんだけど、松岡さんは自らマイクを持って、なかなか離さないんですよ(笑)。何枚もレコードを出しているだけあって、本当に上手でね。

――以前、「若松さんは裕次郎が十八番だ」と聞きましたが、松岡さんは何を歌うんですか?

八重樫 何でも歌うけど、印象に残っているのは吉幾三さんの『酒よ』とか、石川さゆりさんの『津軽海峡冬景色』かな? あとは、松岡さんが歌った『頑張れスワローズ』も。

――八重樫さん、『とびだせヤクルト・スワローズ』ですよ(笑)。古巣の応援歌のタイトルを間違えちゃダメですよ!

八重樫 あっそうか、間違えちゃった(笑)。若手が勝手に『とびだせヤクルト・スワローズ』をカラオケに入れるんですよ。先輩が若手に「おい、あの曲入れとけ」って合図を出すと、ちゃんと松岡さんが歌ってくれる。すぐ顔が赤くなるけど、楽しいお酒ですよ。

(第63回につづく)