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黄金期をもたらした猛練習と「横浜高校あるある」

 高校野球界の名門・横浜高校で、多村仁志(元横浜・ソフトバンク)や斉藤宣之(元巨人・ヤクルト)と外野陣を形成し、甲子園に春夏連続出場(1994年)を果たした山本哲也氏。

 1998年、松坂大輔を擁して甲子園春夏連覇を成し遂げているが、強い横浜高校の基盤は山本氏らが在籍していた時代から始まったとも言われている。

確固たる強さを誇るようになった理由、さらには同校ならではの裏話などを山本氏に聞いた。

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横浜高校に黄金期をもたらした、小倉清一郎元野球部部長(左)と渡辺元智元監督(右)

――早くから横浜高校は全国区の強豪でしたが、山本さんや多村さんたちが在籍していた1992年~1994年あたりが「黄金時代の始まり」とも言われていますね。

山本哲也(以下:山本) 確かにその前から全国区な高校でしたし、僕らの1学年上の世代も甲子園に出場していますが、その頃が本当の意味で強くなり始めた頃でした。その要因のひとつが、小倉(清一郎)コーチの存在だと思います。

 横浜高校で監督を務められた経験があって(1977年に横浜高校野球部の監督に就任するも、1年で辞任)、その後はY校(横浜商業)でコーチを務めていたんですけど、横浜高校に戻ったんです。

 そこから横浜高校を強くしてくれて、2014年にコーチを退任されました。
続いて2015年には渡辺監督が退任されて、平田(徹)が監督になって時代が変わっていった。小倉コーチはその後、アマチュアの指導で全国から引っ張りだこで、今は山梨学院高校でコーチを務めていると聞きました。

――小倉コーチからはさまざまな指導を受けられたと思いますが、印象に残っていることは?

山本 なんと言ってもアメリカンノック。ひたすら走らされるんですけど、小倉コーチはノックがめちゃくちゃうまいんですよ。捕れるか捕れないかの、絶妙なところに打つんです。何回か捕れるまで終わらないんですが、そういう妥協しない練習が後になって生きましたね。



 松坂(大輔)も、小倉コーチのアメリカンノックが野球の練習で唯一つらかった、と取材などで話していますね。松坂のフィールディングや牽制のうまさは、小倉コーチの指導の賜物(たまもの)だと思います。

――アメリカンノック以外の練習はどうでしたか?

山本 体力面を鍛える練習もそうですが、細かいプレーの座学も、夜に寮などでとことんやりましたね。(インタビューに持参した当時のノートをめくりながら)たくさんメモしていますけど、対戦校の投手や打者の特徴、戦術など、"野球学"を徹底的に叩き込まれました。「お前はバカで書かないと忘れるから、とにかく書け!」と言われたりして(笑)。

 あと、練習の最終メニューで「ダービー」というのがあって、小倉コーチの仕切りでグラウンドをずっーと走るんですけど、タイム以内に入れないとエンドレス。
僕は長距離が苦手だったので何回もやりました。その光景が夢にも出てくるぐらいで、本当に嫌でしたね。

 ダービーをやる頃は日も落ちていますし、あたりが暗くなっていて、コーチがいる位置から遠くを走る選手がよく見えないんです。1年生はしっかりとフェンス沿いを走るのですが、3年生になると距離をごまかすため、ビューッとショートカットしたり。僕もそれでやっとタイム以内に入れました(笑)。渡辺監督にはメンタル面を鍛えられ、小倉コーチには技術を教わりました。
本当にゴリゴリしごかれましたよ。

松坂大輔も音を上げた。野球部OBが振り返る小倉コーチの猛練習と横浜高校あるある

当時、山本氏が使っていたノート(写真/山本氏提供)

――小倉コーチとのエピソードは、まだまだ出てきそうですね。

山本 小倉コーチにえらい怒られたこともよく覚えています。僕らは練習がしたくないので、小雨の日なんかはとにかく「雨、降ってくれ!」と願っていました。グラウンドがびしょびしょだと練習が中止になって館内で筋トレするだけでいいですから。

 時には3年生の指示で1年生がグラウンドに先回りして、ホースで水をまくこともありました。
それで「グラウンドが使えません!」と報告するんですが、たまたま小倉コーチに見つかったことがあって、えらい怒られました(笑)。結局、部員全員でスポンジを使って、水を吸い取る作業をして。「1、2年だけで練習するから、お前ら(3年生)はいい」と言われましたよ。

 朝は必ず寮のテレビで天気予報を見ていましたし、授業中も「雨降んねぇかなぁ」って思いながら外をずっと眺めていました。雨が降った時のうれしさは、今でも忘れられません(笑)。

――部室や寮での生活など、練習以外のエピソードはありますか?

山本 僕らは寮でしたけど、部室は"通い組の城"でした。
通い組はみんなが部室で遅くまで残ってワイワイやってましたね。通い組の1年生は、朝早く来て先輩のグローブなどを持って横一列に並びます。通い組の3年生が登校してくると、「おはようございます!」と挨拶をして用具を渡すんですが、ビッとしていて異様な光景でした。横浜高校の部員間での用語で「ビッとしてる」というのは、「しっかりしてる」という意味なんですけど、それは最高の褒め言葉なんです。

「解禁制度」というのもありましたね。何かの課題をクリアすると、やれることが増えていくという。例えば寮生が食事をする時、食卓にはしょうゆやソース、マヨネーズなどがある。だけどそれらは3年生が使うので、1年生は使ってはいけないんです。そういう伝統だったんですよ。ただ、グローブやスパイクを磨いたり、マッサージをしたり、返事に元気があったりすると、「頑張ってるから、これはOK」と、調味料の使用を許可されていくんです。

 他にも、アンダーシャツの半袖解禁、ジャージのチャックを下ろしていいとか、いろいろありました。もちろん昔の話ですし、今は変わっているでしょうね。僕たちにとってはもはや、いい思い出です。

――野球部の3年間で濃密な時間を過ごしたと思いますが、1番の思い出を挙げるとしたら?

山本 甲子園に出場したこともそうですけど、1番の思い出はやっぱり寮生活かなぁ。甲子園は緊張している間に終わっていましたし、夢の中にいるみたいな感覚でしたから。

 1年生の時はつらかったですけど、毎日朝から晩まで仲間と一緒にいて、同じ釜の飯を食べて、自分たちで朝ごはんを作って。共同生活って大人になった今ではなかなかできないことですし、とても貴重な経験をさせてもらいました。

 僕の部屋に集まってゲームをしたりもしました。消灯の時間が21時か22時と決まっているんですが、扉から遠い奥の部屋に集まって隠れながらやるのが楽しかった。夜、見回りをしていた小倉コーチに見つかって、「何してんだ!」って怒られたこともありましたけど。

 もちろんグラウンドでの日々の練習、個人的には甲子園で三塁打を打てたことも鮮明に覚えています。でも、あんなにいい仲間たちに出会えたということが、1番の思い出ですね。