松坂大輔 オリンピック壮絶秘話(前編)

 それにしても、よく投げてきたものだ。

 春のセンバツで618球、夏の甲子園で782球、NPBで25319球、メジャーリーグで13720球──大舞台でおよそ4万球を投げた『平成の怪物』松坂大輔が、今シーズン限りで現役を引退する、とライオンズが発表した。

 横浜高校でもライオンズでも、レッドソックスでもメッツでも、そしてドラゴンズでも、松坂が見るものの心を震わせた1球はいくらでも蘇ってくる。しかし、この4万球に含まれない大舞台での怪物投手の姿もまた、記憶の中に鮮烈に刻みつけられている。

 それは、日の丸を背負う松坂のピッチングだ──。

松坂大輔、悔し涙で終わったシドニーの427球。人知れず「もが...の画像はこちら >>

シドニー五輪の3位決定戦に先発した松坂大輔だったが、韓国に敗れメダルを逃した

 そもそも松坂が初めて日の丸のついたユニフォームを着たのは、14歳の夏のことだった。めっぽう速い球を投げていた丸顔の中学生は1995年、ブラジルで行なわれたIBA(国際野球連盟)主催の「第2回ワールドユースチャンピオンシップ」、いわゆるAAクラス(14歳~16歳)の世界大会に出場していたのである。その時、18名の選手たちが想いを託した寄せ書きに、松坂はこう書き記している。

「最強のエース、松坂大輔」

 しかし、全国のシニアリーグから選抜された18名のメンバーの中にはピッチャーが9人いた。その中の松坂は球の速さでは注目されていたものの、ピッチャーとしてチームのど真ん中にいたわけではなかった。

 そして準決勝進出がかかった台湾戦で2番手として急遽マウンドに上がった松坂は、フォアボールを連発してしまう。45球を投げて被安打は0、与えたフォアボールは5つ、失点6。まさに自滅だった。結局、11-16で台湾に敗れた日本は準決勝進出を逃し、日本は5位に沈んだ。

この時の松坂は「最強のエース」にはなれなかった。松坂は当時をこんなふうに振り返っている。

「世界の壁、というものを思い知らされました......」

 そしてその5年後、松坂にリベンジの機会が巡ってくる。

 2000年、シドニー五輪に出場する日本のエースとして、20歳になったばかりの松坂は南半球の地に降り立った。オリンピックという舞台で日本代表のど真ん中に身を置いた松坂は、感じたことをこんなふうに表現した。

「やっぱり、出てみないとオリンピックのすごさはわからないんだなって思いました」

"オリンピックはすごい" ──。

 1本のヒット、1つのミス、1点の価値、そして1敗の重み。松坂はシドニーに来て、鳥肌が立つような恐怖感と日の丸がもたらす緊張感にシビれっぱなしだった。

「オリンピックに出るってすごいことだったんだなって......アマチュアの人がどんなにオリンピックを待っていたか、どんな気持ちでここに来ているのか。そういう執念は、出てみて話を聞かないとわからなかった。食事会場でアマのみんながそういう話をしていました」

 アマチュアのものだったオリンピックの野球に、初めてプロの選手が参加したシドニー五輪の日本。しかしこの時の"全日本"は、オリンピック史上初のメダルなし、という屈辱を味わわされた。

 しかもその時、松坂は迷走していた。

「プロ2年目は、僕、完全にもがき苦しんでましたからね。何かを目指している作業のなかで苦しんでいる時って、周りにはわからないじゃないですか。苦しんでるか、そうでないかというのは、結局、成績でしか見ないでしょ。悪い結果だと苦しんでる、結果が出れば苦しんでないって言われますけど、そうじゃない。2年目はホントに苦しかった......」

 最多勝、ベストナイン、最多奪三振まで獲得したプロ2年目を苦しかったと表現するのだから、たしかにその苦しみは結果からは窺い知ることはできないものだった。

 ただし、その苦しい2年目のなか、本当に結果を残すことができなかったのがシドニー五輪での3試合だ。松坂は初戦のアメリカ戦、予選突破をかけた韓国戦、3位決定戦となった決勝トーナメントの韓国戦の3試合に先発した。しかし日本はその3試合、ひとつも勝つことができなかったのである。

 それでもオリンピック・パークのマウンドに立った松坂は、そんな言葉とは裏腹に、凄まじいボールを投げていた。シドニーでの彼のボールには、迷走していたプロ2年目の苦しみを振り払おうという、獰猛な荒々しさがあった。ただ同時に、その荒々しさを最後まで貫けない、松坂らしくない迷いも垣間見られた。

 とりわけ印象的だったのは、銅メダルが懸かった3位決定戦の韓国戦だ。

 0-0で迎えた8回裏、松坂はツーアウト二、三塁のピンチを背負っていた。打席には3番の李承燁(イ・スンヨプ)。予選リーグの最初の対決こそ彼に手痛い一発を浴びてしまったものの、その後の6度の対決ではノーヒット、5三振と、完璧に抑え込んでいた。

 その5つの三振は、ストレートで奪った三振が1つ、スライダーが1つ、フォークを決め球に使ったのが3つ。とくにここまでの李承燁は、松坂のフォークにまったくタイミングが合っていなかった。しかし松坂はこの打席、ストレートで空振りを2つ取り、李承燁を追い込んだ。

 そして、フルカウントからの勝負球。

 松坂はキャッチャーの鈴木郁洋のサインに3度も首を振る。松坂は迷っていた。

「ホームランを打たれたのが真っすぐだったので、あそこでスッと真っすぐを投げられなかったんです」

 迷った挙げ句、松坂が選んだのはやっぱりストレートだった。しかし迷いが怪物の手元を狂わせたせいか、高めを狙った153キロは甘く入ってしまう。大事な、大事な場面でのコントロールミス。これが左中間への2点タイムリーとなって、日本の銅メダルは幻となって消えた。

 3位決定戦での敗戦が決まった瞬間、真っ先にグラウンドに背を向けたのは松坂だった。メダルなしが決まって、選手たちが泊まっていたホテルで行なわれるはずの祝勝会は、慰労会となった。20歳になったばかりの松坂は、手にしたグラスにビールを注がれる。

「いやぁ、最後に飲まされました......ビール一杯だけですけど」

 その一杯のビールのように、松坂にとってはほろ苦い427球だったに違いない。悔し涙とともに松坂のシドニー五輪は終わる。そしてその4年後、松坂にまたも世界一への"リベンジ"のチャンスがやってくることになる。舞台となるのは古代オリンピック発祥の地、アテネだった―― 。

(後編に続く)