「銭闘」でプロ野球をザワつかせた4人の男たち。名・迷言で振り返る2000年以降の契約更改「事件簿」
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 プロ野球界ではほぼ全球団の選手が、昨年中に契約更改を終了。年俸の大幅アップに満面の笑みを見せる選手、思ったほどの手応えがなく会見で神妙な表情を浮かべる選手など人間模様はさまざまだが、交渉がまとまらずに「調停」になる選手は出ていない。

 1991年2月、落合博満(当時・中日)が日本人選手として初めて年俸調停を申請して以降、選手と球団の"銭闘"はファンの大きな注目を集めてきた。事前の「下交渉」が行なわれるようになってから「一発サイン」が多くなったのはいいことだが、ついつい1月になると、過去にプライドを露わにした男たちを思い出してしまう。

 そこで今回は、記憶に新しい2000年以降の契約更改で、交渉が難航した事例をピックアップ。選手たちが残した言葉とともに振り返る。

※球団名などはすべて当時のもの

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契約更新で何度も球団と闘った中村紀洋

【「中村紀洋というブランドを終わらせていいのか」中村紀洋(近鉄)2002年】

 2000年に二冠王(ホームラン王・打点王)を獲得するなど、リーグを代表するスラッガーとして活躍。2001年には近鉄のリーグ優勝にも貢献した中村紀洋は、2002年のオフにFA権を行使した。

「中村紀洋というブランドを、近鉄で終わらせていいのか」という発言とともにメジャーリーグへの移籍を画策したものの破断に終わり、4年20億円の大型契約で残留を決めた。

 その後、2004年に近鉄が消滅したことを受け、ポスティングシステムを利用してロサンゼルス・ドジャースと契約。メジャー挑戦の夢を叶えた中村だったが、思うような出場機会が得られずに、わずか1年での帰国を決断する。

 翌2006年には、オリックス・バファローズと年俸2億円の契約を結び、日本球界復帰を果たした。だが、故障の影響もあり出場はわずか85試合、打率.232、ホームラン12本、打点45という寂しい成績に終わった。球団側は同オフに、思うようなパフォーマンスを残せなかった中村に対して年俸60%ダウンの8000万円を提示したが、中村はケガを「公傷である」と主張。6回に及ぶ話し合いは平行線に終わり、退団することになった。

 結果的に、キャンプの練習生を経て中日ドラゴンズの育成選手として年俸400万円で契約。この2007年にかつての輝きを取り戻すかのような活躍を見せ、3年ぶりに規定打席に到達した。シーズン2位から出場した日本シリーズでは、日本シリーズMVPを獲得するなど、中日の53年ぶりの日本一に貢献。「契約してくれるだけでありがたい」という言葉とともに5000万円でサインした。

 中日入団2年後の2008年オフには「他球団の評価を聞いてみたい」と、2度目のFA権を行使して楽天に移籍する。だが、2年で自由契約になると、その後は数カ月の「浪人期間」を経て、2011年5月に横浜DeNAに入団。2014年までプレーを続けた。