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「令和に語る、昭和プロ野球の仕事人」 第23回 中利夫・前編 (シリーズ記事一覧を見る>>)

 球史に残したい「昭和プロ野球人」の過去のインタビュー素材を発掘し、その真髄に迫るシリーズ。俊足巧打の外野手として中日一筋18年間の現役生活を送り、引退後には監督も務めた中利夫(なか としお)さんは"ドラゴンズ・レジェンド"のひとりと言っていい。

 しかし、その球歴は少し変わっている。東大を目指すような生徒が集う名門進学校で成績優秀、野球のかたわら陸上競技の短距離走もこなすスーパー高校生だった中さんは、3年の夏が終わって受験勉強を始めたものの大学に進学することなく、あっさりと中日の誘いに乗って入団してしまった。結果的にその選択は大正解だったわけだが、高卒でのプロ入り決断は、よほど野球の実力に自信があったのだろうか......。

県トップの進学校から高卒でプロ入り。中日の監督まで務めたレジェンド
1番・センターで中日を牽引した中利夫(当時の名は暁生)。1969年。(写真=時事フォト)

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 中利夫さんに会いに行ったのは2012年12月。極私的な話になるのだが、僕の父が中学球児だったとき、練習試合で対戦した相手校に中さんがいた。1951年、群馬・高崎市内にある中学校の校庭で行なわれた試合。

いかにも、のちにプロ入りする選手らしい「伝説」を父から聞いたことが取材のきっかけになった。

「中さんが打ったホームランが校舎の屋根を飛び越えた。校舎っていっても平屋だけどさ、屋根を越えるなんてオレたちは一度も見たことがなかった。あの人は足も速くてね、陸上の記録を持ってたから。とにかく試合はボロ負け、コテンパンにやられた」

 左打ちの中さんが引っ張った打球が、ライト後方にある校舎に向かって飛んでいった。当時2年生でショートを守っていた父は、その弾道を目で追い、度肝を抜かれた。

ふだん自分が通う学校で目にしたことがない光景。中さんと同じ3年生でも、そんなバッティングをする先輩は自校の野球部にいなかった。

 僕自身は78年、中学1年のときに初めて、中利夫という野球人を意識して見た。俊足巧打の外野手として活躍した現役時代は憶えていないのだが、その年、中さんが中日の監督に就任。球歴を見ると、何度も改名していて違和感を覚えた。本名が利夫で、三夫、暁生と変えている(84年から90年は登志雄に改名)。

なぜそんなに? と思ったのだ。

 その一方、中さんが群馬・前橋市に生まれ、"マエタカ"こと県立前橋高からプロに入った事実は知らずにいた。前橋高といえば、県内最古の歴史ある高校で全国屈指の進学校ながら、78年春のセンバツ甲子園大会、完全試合を達成した松本稔がすぐに思い出される。

 また、同じく投手で、日本大を経て巨人に入団、[8時半の男]と呼ばれた宮田征典(ゆきのり)もマエタカ出身。希少ながらも球史に名を刻む人材が輩出しているわけだが、そのなかで中さんが残した実績は飛び抜けている。

 中日一筋18年で1877試合に出場して通算1820安打、347盗塁。

タイトルは首位打者を1回、盗塁王を1回獲得し、歴代6位の81三塁打を記録している。さらにベストナインに5回選出され、オールスター出場も6回ある。進学校から直接のプロ入りで、これほど輝かしい実績を積み上げられるものだろうか。

 まして中さんの場合、東大合格圏内の学力を持っていたというから、ハイレベルな文武両道ぶりに感服するしかない──。果たして、マエタカの秀才はいかにして名選手になり得たのか。興味津々で愛知・名古屋市内のご自宅を訪ねた。

 夫人に案内されて応接間に入ると、中さんがソファに腰掛けて待っていた。オールバックの白髪にふちなしの眼鏡をかけた風貌は76歳(当時)という年相応に見える反面、キリッとした細い目と引き締まった口元は、写真で見た現役時代の印象と変わらない。挨拶を交わした後、「今日、東京から?」と中さんは言った。低く張りのある声が静かな室内に響いた。 

 ソファに座って向き合って間もなく、僕は父の話を切り出した。途端に中さんは「えっ?」と驚いて笑い、生まれ年を確認して「じゃあ、僕より1年下だからやってますね。

確かにやってます」と言った。度肝を抜かれた父とは正反対、中さんにすれば楽勝した試合。特に記憶には残っていないはず、と予想したとおり、60年も昔の話はそれ以上、続かなかった。

 ただ、「ショートからホームランを見たんだそうです」と伝えた言葉に対して、「ショート? 僕はだいたい、ピッチャーか、センター」と反応してくれたのはありがたく、すんなりと対話に入ることができた。中学時代の話の流れから、中さんを地元の有名人にしたという「陸上の記録」について聞く。

「中学3年のときに100メートルで。それから何年かあとに記録は破られました。高校でも両方やってましたね、夏休みだけ。野球で負けたら陸上に行って。ははっ」

 エースで、4番で、主将。さらには生徒会長まで務め、陸上部の助っ人として400メートルリレーで国体にも出場した中さん。それでいて学業もトップクラスだったとは......。ある文献には、実際に東大志望といわれたほどの秀才、と記されていた。

「いやいや、東大っていうよりも東京六大学。ラジオで六大学の野球ばっかり聴いてたから。だいたい、大学行くんなら、たぶん野球やりますからね。だから夢は持っていたけど、3年の夏に負けたあと、まだどの大学に行くなんて考えないですよ。それで夏休みが終わった時点で、試験勉強、始めるわけです」

 往年の名選手の取材で、高校3年時に受験勉強を始めた、という話はいまだかつて聞いたことがない。新鮮な印象を持ちつつ、マエタカは本当に全国屈指の進学校なのだ、と実感する。

「勉強始めてね、『どこ行く?』ってみんなで話してて。そのときにプッとこう、来たんですよ、ドラゴンズが。志望校決める前に。ああ、これから試験勉強かーって考えたときにね、タイミングよく、ポーンと来たから。それじゃあ、プロでやってみようかなあって。簡単に決めちゃった。ははっ。

 好きな野球がやれるんなら、そっちのほうが楽ですもんね、勉強やるより。でも、ドラゴンズが来たのは、まぐれって言うとおかしいけど、運でしかないんですよ。本当は別の選手を獲りに来てたんだから」

 スカウト役は、当時、中日の二軍監督だった宮坂達雄。茨城高からノンプロの高崎理研に入った大和田明という外野手を狙っていたが、一足違いで西鉄(現・西武)に獲られてしまう。が、宮坂はその後すぐには名古屋に帰らず、明治大時代の同級生が前橋の銀行にいる、と思い立って会いに行くと、「前橋高に足の速いのがいる」と教えられたそうだ。

 現在のように情報網が張り巡らされていなかった時代。もしも中日が先に大和田を獲っていたら、中さんはそのまま受験勉強を続けていた可能性が高い。そうならなかったのは「運」だとしても、中日球団が中さんの足の速さを評価したのは確かだろう。

「だけど、プロなんて何もわからんから。プロ野球、観たことないですからね。うぬぼれじゃないけど、野球が好きだっていうだけで、やってみようかっていう。そしたら、西鉄と日本シリーズやるからって、球団が」

 54年、中日は天知俊一(あまち しゅんいち)監督のもとで球団初のリーグ優勝を果たし、西鉄との日本シリーズも制覇した。その第1戦と第2戦、中さんは球団に招待されて観戦したのだという。まずは、プロ野球最高レベルの試合を観る機会に恵まれたのだ。

「2試合とも中日が勝ちましたしね。でも、観たら本人がっくりですよ。初めて観たプロ野球が最高レベルじゃ、そんなとこでレギュラーになれるなんて思わんし。一軍に入ろうとか、そんな問題じゃないんです」

 確かに、日本一になった戦力のなかでは出番に恵まれそうにない。それでも中さんは55年、高校出1年目にして17試合に出場。3安打と2盗塁(盗塁刺なし)を記録している。

「日本一のチームといっても、けっこう選手はおとなしかったんです。だから僕もそのまんまスッと入って。運がいいのかどうか。足が速いということで。それで公式戦の初ヒットがね、ノーヒットノーランをやられかけたときなんですよ。広島戦で、松山昇さんに」

 4月14日、中日球場で行なわれた中日対広島6回戦。中さんは二軍から上がってきたばかりだった。

「8回まで0対6で負けてて、9回にも1点取られて、僕ら1本もヒット打ってなくてその裏。ベンチに座ってたら、監督の野口明さんが『おまえ行けー!』って。どうしたらいいかわからんわね、『はい』って言ったけど。でまあ、打席に入る前は、セーフティーバントがいいなと思って、コンとやった。それでヒット1本。松山さんに恨まれたけどね」

 淡々と語っているが、なかなか楽に決められる場面、状況ではない。何しろ、まだ公式戦2打席目だったのだ。

「ということは、打つ、となったって見当つかないですもんね。公式戦で、プロのピッチャーをどう打つのか。だったら、打つよりは当てることならできると」

 監督にはバントヒットが念頭にあって、俊足の中さんを代打で起用したのだろうか。

「いやいや、そんな考えはないですよ。だいたい僕、高校時代はバント禁止ですから。打ったほうがいいって。1回、セーフティーバントやって怒られたし。だからセーフティーの練習なんてほとんどしてなかったですけど、自然に身についたんでしょうね」

 プロ初安打をノーヒットノーラン阻止で飾る、という表現が適切か否かはともかく、中さんは早々と非凡さを見せていた。「どうしたらいいかわからん」のに閃(ひらめ)いて、自身の持てる能力を最大限かつ瞬時に発揮した。それも練習したことを実戦で試すのとは違って、「自然に身についた」と思われる技術を生かして結果につなげたのだ。"天賦の才"という言葉を思わずにいられない。

 実際、2年目の中さんは開幕から1番・センターで起用され、一気に119試合に出場して規定打席に到達。チーム事情で巡ってきたチャンスをしっかりと生かした。残した打率は2割6分台とはいえリーグ9位の数字だから、もう十分にレギュラー級と言える。

「野口さんが最初から使ってくれて。ただ、6月ぐらいまで頑張れたんですけど、やっぱり......疲れますね。30試合ぐらいでバテバテ。でも、なんか使ってくれて、経験にはなりましたけど......、僕、偏平足なんです。だから長く持たない。ここんとこがバリバリになっちゃって」

 言いながら、両足の脛(すね)のあたりをさすっている。土踏まずがない偏平足だと脛の内側が痛み、疲れやすく、短距離を速く走れる中さんも長距離は苦手だった。そこで、キャッチャーミットに入れるパンヤを二つ折りにして土踏まず部分に貼り付け、輪ゴムで足を巻いてからストッキングを履いたという。クッションを挟むようなものだろうか。

「そう。3年目ぐらいに気づいて、自分でクッションを作って、だいぶ楽になった。ところが3年目、4年目、天知さんのときは使ってくれなかったんです」

 57年、かつて中日を初の日本一に導いた天知監督が復帰。本多逸郎、原田督三、西沢道夫、杉山悟といった54年の主力メンバーを中心に起用する方針のもと、若手は出番が減っていた。前年は中さんのポジションだった1番・センターには、8年目の本多が定着した。

「でも3年目、昭和32(1957)年のオールスター、名古屋でやったときに転機がありました。天知さんに『おまえピッチャーやってたんだから、練習手伝いに行け』って言われて、オールスター休み、取り上げられて。

 結果的には打撃練習で投げなくて済んだんですけど、川上さんと与那嶺さんのバッティングをネットのすぐ横で見とったんですよ。スイングがどうのとか、タイミングがどうのこうの、まだその頃の僕はわからんですけどね。腕見たら、こんなんですよね、二人とも」

 ボールを持つように開かれた両手が、胸の前で素早く左右に引かれた。巨人の川上哲治、ウォーリー与那嶺の体を初めて間近で見たことが転機になった。

「スイングもすごいんだけど、腕見て、ガクッとして。自分の腕と見比べてね。ほっそいなーと。それで運命というのか、次の年に国へ帰ったとき、巡り合わせがあってね」

 地元に帰った中さんが前橋高の監督に会いに行くと、たまたま、ボディビルダーの大会で準優勝した先輩がいた。早速、「野球で打つのにはどこの筋肉をどうやって鍛えればいいか」とその先輩に聞いて、同年のオフから筋力トレーニングを始めたという。「ボディビル」と聞くと、胸の筋肉が目立つような体格がイメージされるが、どこを鍛えたのだろうか。

「胸にはいらないんですよ。上腕、前腕、あとは背中。その3つぐらい、『一日置きで鍛えるといいんだ』って教えてもらって、10月の末から次の正月の15日、自主トレが始まるまでちゃんとやった。そしたらパンチ力がついて、それまでフェンスの2~3メートル手前で落ちてたフライが全部、入っちゃうんです」

 以前、西本幸雄さん(元・毎日)に取材したとき、「阪急の監督のときは体力のない選手が多かった。だからボディビルを採り入れた」と聞いた。実際に打球の飛距離が向上したそうだが、当時の球界では、筋力トレーニングは不要とされていた。それを中さんが個人で実践し、しかも阪急が採り入れたのは63年以降だから、それよりもずっと早かったのはすごい。

「で、杉下さんのとき、4月、ホームラン・キング獲ったですからね、セ・パで」

 現在の月間MVPに相当するものだろうか。当時のスポーツ紙が企画した表彰だったようだが、杉下茂監督に交替した59(昭和34)年、中さんは4月だけで両リーグトップの7本塁打を記録。いわば"筋トレ効果"で飛躍的に打力が向上し、同年、初めてオールスターに選ばれる。ただし、年間トータルでは15本と特別にホームランを量産したわけでもなかった。

「オールスターに出て、これならプロでやれるだろうって自信つけたあとすぐ、8月、デッドボールでダウンした。巨人戦でぶつけられて、左の手のひら、小指をパキーンと折られて。手術して、休んじゃったんですよ」

 もしや、台頭してきた若い選手を威嚇しようと、巨人バッテリーが厳しいところを攻めてきたのだろうか。

「あ、当時の巨人はやりますからね。そのときは左投手のシュートで。だいたいわかってるけど、文句は言えないですから。ピッチャーのボール、たまに間違ってくることもあります。だけど、僕にとっては痛かった。そのあともね、よう、巨人はやりましたよ」

県トップの進学校から高卒でプロ入り。中日の監督まで務めたレジェンド
プロ入りの経緯を振り返る、取材当時の中さん

 感情の浮き沈みなく語られているが、「巨人は」と繰り返すあたり、悔しさが今も内面に残っているように感じられる。それにしても、ホームランの魅力に取り憑かれてバッティングの調子を崩す、といった話をよく聞くが......。

「それはなかったですね。例えば、後楽園は狭かったから、打撃練習ではよく入る。一回、ボンボン入れて、そのゲームは4ゼロ、4打数無安打でした。ははっ。だから、僕がホームラン狙う意味はないと。僕の体力なら、そこまでする必要はないんです、ほかにいるんだし。

 中日では森徹さん、江藤慎一さんが4番、5番を打っていて、巨人には長嶋さんがおって、ワンちゃんがいて。そういう人たちと違って、意識してのホームランじゃないですもんね、僕のは。まともにうまく当たって、それがスタンドに入るというようなことで」

 長嶋茂雄王貞治の名前が出た。中さんにとってのONは、65年以降=昭和40年代に首位打者を争うことになるライバルだった。

(後編につづく)