昭和の名選手が語る、
"闘将"江藤慎一(第3回)
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1960年代から70年代にかけて、野球界をにぎわせた江藤慎一という野球選手がいた(2008年没)。ファイトあふれるプレーで"闘将"と呼ばれ、日本プロ野球史上初のセ・パ両リーグで首位打者を獲得。ベストナインに6回選出されるなど、ONにも劣らない実力がありながら、その野球人生は波乱に満ちたものだった。一体、江藤慎一とは何者だったのか──。ジャーナリストであり、ノンフィクションライターでもある木村元彦が、数々の名選手、関係者の証言をもとに、不世出のプロ野球選手、江藤慎一の人生に迫る。
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徳島商業の板東英二は1959年に中日ドラゴンズ入団。江藤慎一と同期入団だった
鹿児島の湯之元キャンプを翌日に控えた昭和34年1月31日深夜未明。四国から宇高連絡船でやって来た板東英二は、岡山駅の下りホームでひとりぽつねんと急行高千穂を待っていた。前年の夏の甲子園で準優勝投手となり、未だに破られていない大会通算83奪三振の新記録を打ち立てたこの徳島商業のエースには大きなトラウマがあった。列車を待っていると、「置いて行かれるのではないか」という恐怖が全身を覆い、発車時刻までたとえ1時間以上あったとしても乗車位置を離れることができないのである。この日もそうだった。
契約金2000万円、年俸120万円という史上最高額で中日ドラゴンズと契約を交わした板東は、その資本である身体を冷やさないためにも真冬の深夜に吹きさらしのホームにいることは避けなくてはならないのだが、どうしても待合室に足が向かなかった。