昭和の名選手が語る、
"闘将"江藤慎一(第6回)
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1960年代から70年代にかけて、野球界をにぎわせた江藤慎一という野球選手がいた(2008年没)。ファイトあふれるプレーで"闘将"と呼ばれ、日本プロ野球史上初のセ・パ両リーグで首位打者を獲得。
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1967年9月20日の中日―巨人戦。判定をめぐり放棄試合寸前に
江藤慎一の2年連続(1964年、1965年)となる首位打者獲得はONの全盛期に成し遂げられた快挙だけにその評価は高く、本人はチーム内でも不動の地位を築いていく。脂ののった主力スターの元には選手も記者も集う。
江藤の長女である孝子は当時の家のなかの様子をこう語る。
「私はまだ幼かったのですが、おじいちゃんもおばあちゃんもおじさんたちも熊本からやって来ていて、その大家族が父のバットに一喜一憂するような家族だったというのは強烈に覚えています。皆でテレビの巨人戦を見ていて、『今日は勝ってるから、機嫌がいいぞ』とか盛り上がっていて......。機嫌がいいということは、ものすごい人数の客人を連れて帰ってくるっていうことなんですよ」
首位打者を獲得した不動の4番は年俸も倍々ゲームで上昇していったが、散財の仕方も半端ではなかった。給料については、現金支給であった当時、江藤の月給袋は札束で分厚く膨らんでいて文字どおり立った。
マネージャーの足木敏郎は、毎月25日の給料日になると経理担当から監督以下全選手分の給料袋を受け取り、風呂敷に包んで球団事務所から、原付バイクに乗って15分ほどの距離にある球場に運び込むという大任を担っていた。家が一軒建つくらいの大金の運搬にも関わらず、警備がつくわけでもなく、足木は試合終了後まで肌身はなさず風呂敷を抱え、選手たちが戻ってくると、ロッカーで一人ひとりにねぎらいの言葉をかけて袋を渡し、領収書にサインをもらった。
1964年当時、チーム一の高給取りは、日本球界最高の年俸で契約をしていた元メジャーリーガーのジム・マーシャルであったが、江藤は茶目っ気を出してその最も厚い給料袋を「ああ、こいつが俺のだな」と言っていつも持って行こうとして足木を慌てさせた。マーシャルほどではないにせよ、一般的な会社員の10倍近い江藤の現金収入は家族のみならず周囲の人々のために還元された。
江藤家では、ホームで試合がある時は大宴会が毎夜のように催された。孝子が言う。
「新聞記者さんとか、柿本(実)さんや権藤(博)さんなどの選手は、とにかく毎晩飲んで食べてのどんちゃん騒ぎで、おばあちゃんと母親と、あとお手伝いさんが何人かその時だけはヘルプに来ていました。子ども用のビニールプールがあるじゃないですか。あれを庭先に出して氷水を入れてビールを大量に冷やしていました。それを記者さんたちが好きなように取ってガンガン飲みまくる。そういう世界でした。だから私はいつも、あれは私のプールなのになって、思っていたのを覚えています」
当時、江藤家は東山動物園の裏にあった。
「夏場は庭で毎晩バーベキュー大会ですよ。父は機嫌がよくなってギターを弾いて大声で歌いまくって、多分騒音で何回も通報されているはずなんです。私は寝ぼけまなこでなぜかうちにはお巡りさんがよく来るなって思っていました。選手とは仲がよかったですね。
マーシャルと組んだ4番、5番は、相手チームにとっては脅威だった。そして最高年俸はメジャーリーガーに譲ってもあくまでも4番の座は江藤のものであった。それは当時の社会通念的にも認められていた。
漫画『巨人の星』のなかで、原作者の梶原一騎は、中日のコーチとして登場する星一徹から超人アームストロング・オズマに対して「お前を明日から5番を打たせる」と告げさせ、さらにこう言わせている。
「いまさらガラにもない謙遜は無用 5番はおろかONと並ぶ江藤がおらにゃ4番でも通用するっ」
見えないスイングで大リーグボールを打つオズマでさえも江藤を差し置いて4番に据えることには剛腕梶原一騎も気が引けたと言えようか。
それでありながら、江藤は決して裏方のスタッフなどに尊大な態度はとらず、丁寧な物腰で接した。筆者は当時を知る記者や選手に話を聞いたが、ボールボーイや用具係、マネージャーに対しても分け隔てなく態度を変えることはなかったという。
本連載第1回で記したが、マネージャーの足木に電話する時は、必ず「お世話になっております。江藤でございます」とのあいさつから始まった。
いかに年上と言えどもマネージャーは移動の切符や試合のチケットの手配など、選手の雑務も代行するという職制から、ぞんざいな口を利く中堅選手も少なくない。中日が別府でキャンプを張っていた時代、あまりの豪雪で急遽、名古屋に帰ることになったことがある。足木が必死の思いで50人分の切符を3本の列車に分けてかき集めたのも束の間、自分の席が寝台列車の上段ということで、「俺が何でなんだよ!」と食ってかかってきた選手がいた。ベテランは下段という不文律があり、選手にはプライドがあるのもわかる。しかし、急な手配で配慮もできない事態のなかで自分よりも若い者に怒鳴られるのはつらい。一方、江藤はチームでの立場が上がっても裏方や新人記者に敬語を絶やさなかった。
長女の孝子に集めてきたこの事実を告げるとこんなことを言った。孝子は今、アーティストをプロデュースする、誰もがその名を知る大手エンターテイメント会社で要職に就いている。
「私もプロデューサーとして表に出る人たちを輝かせるためにいろんなことを仕事でやるわけです。それはたったひとりのアーティストでもバンドや照明、PA(音響)、いろんなスタッフが何十人、何百人といてやっと輝くんです。アーティストの才能を引っ張り出すにはそういう人たちの協力が絶対に不可欠なんです。現場に入った時に、この裏方の人たちのことを真っ先に考えてよくしてあげるというのは、私の仕事の信条の1番目にあります。それは恐らく父親がそうしてきたからじゃないかと、40歳ぐらいになって気づきました。
自然にアーティストには、『あの人に必ずお礼を言ってね』、『この人はあなたの知らないところでこういうことをやってくれたんだよ』、キャリアのある人でも新人でも等しく全部説明します。恐らく父がそういう振る舞いをしていたのを、見ていたからだと思います。若い記者にも丁寧だったし、ボールボーイの方とか、グランド整備の人たちにサインをすぐ書いてあげていた。そういうのをすごく記憶しています」
江藤は1967年のオールスターゲームで王と長嶋を前後に従えてオールセントラルの4番を打った。その絶頂期とも言えるこの年に新人投手として中日でプレーした人物に往時のことを聞くことにした。場所は神宮球場。眼前では東京六大学秋季フレッシュトーナメントが行なわれている。人物は井手峻(いで・たかし)東京大学硬式野球部監督である。
江藤慎一のエピソードを語った井出峻監督
井手は新宿高校から一浪後、東大に入学してシュートを武器とする主戦投手として活躍する(ちなみに後に名球会に入るスラッガー、谷沢健一の早稲田時代の初対戦投手が井手であった。結果はライトフライ)。卒業時に三菱商事に内定をもらっていたが、ドラフト3位で中日に指名されて入団している。
過去、東大出身のプロ野球選手は6人いるが、そのなかで最も実績を残している。投手として1勝を上げ、野手に転向後は巨人戦において延長で決勝アーチを放ち、守っては往年の英智よろしく俊足と強肩でチームを救ってきた。アスリート性に優れたれっきとした二刀流の選手だった。井手もまた変わり種のプロ選手で中学時代は運動部にさえ所属しておらず、遊びでソフトボールをするくらいだった。
「母親が受験をしろと厳しくてね。父はまったくスポーツをしなかったですから、自分は突然変異かもしれません」。父は『青い山脈』などのシナリオを書いた東宝の脚本家の井手俊郎である。
「新宿高校に入った時も野球を許してもらえず、ようやく入部したときはショートでした。でもピッチャーをやっていた奴がグレちゃって学校に来なくなったんで僕が投手になった」。進学校の新宿高校でもグレる奴がいたのですか?と聞くと「いや、だって学校の場所が歌舞伎町の目の前じゃないですか」と笑った。
浪人時代は「俺の夢は東大に入って野球部を六大学で優勝させることだ」と息巻く五浪中の友人と予備校で野球部を作った。井手が東大卒業後にプロ野球に進むと聞いた父親は、「俺は映画だが、お前までヤクザな道に行くのか」と嘆いたという。
井手が飛び込んだ世界は、その時代と相まってまさに常軌を逸した世界だった。
「僕が入った時は1番が中(暁生)さんで、2番が(高木)守道さん、3番が葛城(隆雄)さん、それから江藤さんでしょ。ONがいた巨人には勝てなくて万年2位の時代でしたが、すごい打線で江藤さんはそのなかの侍大将ですよ。中さんのほうが年上だったけど、大人しかったから、江藤さんがチームの大将。今は、20歳過ぎまで球団も禁酒を守らせますが、当時は高卒新人もガンガン飲まされていました。僕ら新人がちょろちょろ飲んでいると、こっち来いって呼ばれるのですが、とにかく飲み方が豪快でね」
井手は遠征時の旅館での様相を話してくれた。
「試合が終わってから、着替えもせずにユニフォームのまま江藤さんたちが飲んで食べてる。それでそのうちギター持って来いってなるわけです。こっちはこっちで菱川(章)なんかとその弾き語りを聞いているんだけど、それを11時頃までやっていてコーチの杉山(悟)さんに怒られました。『お前らユニフォームのままでそれはねえだろう』って」
山賊の酒盛りのような飲み会の中心に江藤はいた。しかし、首脳陣もまた江藤を頼った。
以下もまた明晰な井手の記憶の1ページである。
「僕が入団した年、西沢(道夫)さんが監督の時に審判の判定で揉めて放棄試合になりそうな試合が1回あったんです」
それは1967年9月20日に中日球場で行われた巨人戦だった。7回表、3対1でリードする巨人の攻撃で1塁に金田正一を置いて柴田勲がレフト線に長打を飛ばした。柴田はツーベースを狙って快足を飛ばしたが、投手の金田が自重して二塁にいるのを見て慌てて一塁に駆け戻った。この間、レフトの葛城隆雄、サード伊藤竜彦と中継されたボールはファーストの江藤のミットに収まり、柴田の右足にタッチされた。塁審の円城寺満はアウトを宣告。しかし、これに怒った柴田が円城寺を突き飛ばした。現在ならば、この段階で退場であろう。
しかし、更には一塁コーチの荒川博、ヘッドコーチの牧野茂も円城寺を追い回すかたちで手をかけた。すると審判は暴力に屈するかのように判定をセーフに切り替えたのである。
今度は中日側が激怒する。タッチした江藤、西沢監督、杉山コーチが血相を変えて抗議に走った。温厚で知られた西沢が激高して突いた。しかし円城寺は場内マイクで「タッチの要らないフォースプレーと勘違いしていた。セーフだった」と釈明。VTR判定のような明確な根拠もなく、抗議によってアウトがセーフに切り替わったことで円城寺は「私が審判を辞めて責任を取ります」と説明し、場内は球団役員やファンを巻き込んでさらにヒートアップした。
あらためて審判に暴力を振るったとして柴田と西沢に退場が宣告されたが、判定はセーフのままであり、事態は収拾がつかない。憤懣(ふんまん)やるかたない中日の選手たちはベンチに戻るどころか、試合途中で帰宅してしまおうと動き出した。しかし、放棄試合になると球団に莫大な負担がかかってくる。
「その時ですよ。退場になった西沢さんが江藤さんに『ここは悔しいが、慎一やってくれ。頼む』と言ったんです」
タッチプレーの当事者であり部類の負けず嫌いの江藤の無念さはいかばかりであったか。2点差で負けていてさらに1塁2塁とピンチを背負う。
「でも江藤さんが、笑って『仕方ない。よし、みんな行くぞ!』と声をかけたおかげで帰りかけた選手が守備位置に散ったんです」。すんでのところで放棄試合は免れた。
「リーダーシップがありましたね。そしてチームが好きだったんでしょう」
後述することになるが、江藤はこの2年後に水原茂監督との確執で中日を去ることになる。
井手は投手を3年やったあと、内野手にコンバートされ、権藤博や伊藤竜彦とサードのポジションを競うも芽が出ず、野球を辞めようかと考えていた時にその身体能力の高さをヘッドコーチであった与那嶺要に評価された。「俺が来年監督になったらお前を外野で使うから辞めるな」と言われて1972年から、新しい守備位置に挑戦する。やがて外野の守備固めには欠かせない存在となり、1974年の中日の優勝に大きく貢献する。
この年、優勝を決めた10月12日の試合におけるとっておきのエピソードを井手は披歴してくれた。
「中日球場での大洋ホエールズとのダブルヘッダーで、2試合連勝すれば優勝。それができなければ最終節の後楽園での巨人戦2試合に持ち越されるという試合でした。さすがにそこまで行ってしまうと分が悪いのでここでどうしても決めたかった」
前日は神宮でのヤクルトとの一戦、9回表に起死回生の高木守道の同点タイムリーが飛び出して、マジック2。中日有利となっての帰名ではあった。
「それでも不安でしたよ。前日がナイターで翌朝の新幹線で移動してデーゲームからの連戦ですから、正直、選手の身体はへばっていました。もしも先に点をとられたら、プレッシャーにやられてしまっていたかもしれません」
2連勝で20年ぶりの優勝は決まるが、換言すれば連勝しなければ、10連覇を目指す経験豊富な相手と圧倒的に不利な敵地での決戦となり、実質的に覇権を逃すことになる。井手もベンチにいる周りの選手が、固くなっていることに気がついていた。星野(仙一)も高木も大島(康徳)も......。そこに相手の選手がひとり、ふらりとやって来た。大洋に移籍していた江藤だった。
「『お前ら、頑張れよ。今日は大丈夫だからな。任しとけ』と明るく宣言してくれたんです。あの頃はそういうもんなんですよ。打倒巨人にみんな燃えてるでしょ。だから、巨人以外のチームが優勝に近いとなると、他のチームは応援してくれるんです。もちろん、俺が手加減を加えて勝たせてやるから、ということではないですよ。実際、試合では江藤さんはヒットを打っていますからね(笑)。ただ、数年前までうちの大将だった人が来て、勝ち負けは任しとけって言ってくれた(笑)。その言葉で一気に緊張が解けたんです。何となく優勝はできるんじゃないかと思っていても、不安があるじゃないですか。そこで江藤さんが大丈夫だということで何か確信になったんですね」
試合は2連勝で中日は20年ぶりの優勝を決めた。
闘将は自分の声掛けが、かつての後輩たちにどういう影響を及ぼすか、もちろん知った上で行動を起こしたのであろう。井手はその気持ちを今でも忘れられないでいる。
「僕はフロントを含めて50年近く、ドラゴンズにいましたが、自分にとってはさっきの入団した年とこの優勝した年のオーダーは、ずっと忘れられずにいるんです。きっとふたつがつながっているんですね」
(つづく)