『氷上のフェニックス』(小宮良之:著/KADOKAWA)の続編、連載第5話

 岡山で生まれた星野翔平が、幼馴染の福山凌太と切磋琢磨しながら、さまざまな人と出会い、フィギュアスケートを通して成長する物語。恩師である波多野ゆかりとの出会いと別れ、そして膝のケガで追い込まれながら、悲しみもつらさも乗り越えてリンクに立った先にあるものとは――。

 今回の小説連載では、主人公である星野がすでに現役引退後の日々を送っている。膝のケガでリンクを去る決意をしたわけだが、実はくすぶる思いを抱えていた。幼馴染の凌太や橋本結菜と再会する中、心に湧きあがってきた思い...。

「氷の導きがあらんことを」

 再び動き出す、ひとりのフィギュアスケーターの軌跡を辿る。
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第5話 実家での夕飯


 生放送での現役復帰発表後、星野翔平は岡山の実家に戻った。次の日は早朝の新幹線で移動し、大阪、名古屋、東京で、それぞれあわただしく取材や番組出演が入っていた。

気が重くなるスケジュールだが、この潮が引いたらトレーニングに集中できる。

 夕飯の準備ができていた。食卓にはパンが陣取っている。父、星野英輔が営むベーカリーの特製パンである。知り合いは実家に帰ると、母親のお味噌汁や肉じゃがで「我が家の味」を堪能するらしいが、星野家の場合はパンだ。

 翔平が子供の頃に好きだったカレーパン、照り焼きチキンパンが並んでいた。

親の記憶は時間が経っても、更新されない。
 
 母の星野美紀子はパンに合わせ、おかずをせっせと用意していた。自然と洋風になった。グリーンサラダ、カボチャのクリームシチュー、マッシュルームのアヒージョ、明太子入りポテトグラタン。母も料理は上手なので、父のパンに負けじと、とっておきのレパートリーだ。

 母はもともと洋食の料理は苦手だったらしいが、粘り強く少しずつ上達した。

その長所は息子にも受け継がれている。辛抱強く取り組んで、技を上達させる、トライアンドエラーだ。

 母は子どもの頃から、翔平が「これ、やりたい」とお願いしても必ず条件を付けた。それをクリアできないと、やらせてもらえない。何でも与えられてばかりいると、ありがたみが麻痺するからだという。スケート教室に通うのも、縄跳びの二重跳びを3回跳ぶのが条件だった。


 
「きついことをして乗り越えていないと、生きている気がしないでしょ、私も翔平も」

 母は勝ち誇ったように言う。何度も聞かされてきた言葉だ。

 翔平としては、「自分は、そんなマゾではない」と反論したかった。しかし、その話を周りに明かすと、意外な言葉が返ってきた。「さすが、お母さんはよくわかっているし、似た者同士の親子だ」と言うのだから、あながち間違っていないのだろう。
 
 ほとんどのジャンプは、いきなり跳べるわけではない。

無数の小さなトレーニングの積み重ねが、そこにつながる。氷を押せるようになってスピードを付けて、跳ぶ直前の恐怖心からスピードダウンしないように何度も踏み切りを繰り返し、バックスクラッチでジャンプの軸を取れるようになって、着氷を安定させる。他にも、あらゆる練習が一つのジャンプにかかわってくるのだ。
 
 課題を乗り越えることが嫌いだったら、すぐに挫折していただろう。
 
 引退後、バレエを習った時も、課題克服の楽しさを感じた。バラエティ番組の企画で2週間だけだったが、みっちりと鍛えてもらった。
レッスンは厳しかったが、課題をクリアしていく日々はそれなりに充実していた。
 
 フィギュアスケートが疾走感の中で点を作っていくのに対し、バレエは氷の上のようなスピードは出ず、より狭い舞台で、点そのものの美しさを競うところがあるように思った。動きで緩急をつけるし、そこでのディテールも必要なのだが、静止した形が悪かったら話にならない。静止した姿でのバランス感覚を身につけることで、他の複雑な体のポーズや感情を託す振り付けも生き生きとした。

 バレエでは新しい動きをすぐに習得し、その精度を上げていく。その追い立てられる感じも、自分は嫌いではなかった。やはり、母の言うとおり、そういう性分なのだ。
 
 点における濃密さはフィギュア以上で、フィギュアに生かせるかもしれない、と思う自分がいた。すでに現役を引退していたのに、フィギュア競技者としての習慣を捨てられていなかった。
 
「パン、うまいじゃろ?」

 父がビールを片手に得意げに訊いてきた。

「うん、おいしい」

 明日から炭水化物を抜かないと、と優しさに水を差すようなことは言えない。

 個人的にはバゲットをちぎってアヒージョに浸して食べるのが好きだ。味がこもったオリーブオイルとパンがよく合う。食べすぎると太るので、サラダやシチューとまんべんなく食べる。

「お兄ちゃん、パンとかバクバク食べてええの?」

 妹の桃が余計なことを言う。
 
 6歳下で、関西の大学を卒業後は地元に戻って就職するはずだったが、「とりあえず、お父さんのパン屋、継ぐ」と宣言し、父の店で見習いをしている。父は「とりあえず、なんて、パン屋をどんなもんだと思っとんかの」と怒りながら、うれしそうでもある。
 
 翔平にとっても、パン屋の跡継ぎ問題は気になっていたので、ありがたい気もした。
 
「もう少し、外側をカリカリにした方がおいしいと思うんじゃが」

 妹がバゲットにかじりつきながら、偉そうに言う。

「中をふっくらさせようとすると、それが難しいのもわからんのか。ちいと勉強せい」

「でも、改善する姿勢が大事なのではないですか、師匠?」

 妹がふざけた口調で言う。

「知ったような口を」

 父が怒ったように答える。これぞ、パン屋の会話だ。

 デザートは一口サイズのメロンパン。これも、翔平の好物だった。母がキッチンで入れたコーヒーと合わせる。一風変わった実家の風景だろう。

「今回はどんな衣装?」

 立ったり座ったりしていた母は、ようやく落ち着いてテーブルについて、グラタンを小皿に取りながら訊いてきた。

「ショートは、黒っぽいシャツに赤やゴールドの刺?が入った衣装。タンゴはブラックとレッドってイメージだし。まだデザイン段階だけど、かっこいい感じになっているよ」

「下は?」

「黒いパンツだよ。シンプルに」

「翔平は光るラインストーンや羽根とかの飾りは、あまりつけたがらないものね。落ちると怖い、減点になるって」

「よく覚えているね。まあ、着たことはあるけど」

「フリーは?」

 母が訊く。

「上下ともに黒だよ」

「翔平はほんま、黒っぽいの好きね」

「黒一色と言っても、いろんな黒があって。襟が少し立つ感じでデザインを工夫してもらっているし、立体的に映る黒い衣装でかなりスタイリッシュだよ」

 翔平は母に説明した。

「フリルのひらひらはつけないの?」

 妹がからかってきたが、翔平は無視した。

「早く衣装を着て滑っているところが見たいわ」

 母が言った。

「もうすぐだよ。8月には間に合わなそうだけど、10月には。それまでは昔着ていた衣装を使うつもり」

 体形は変わっていなかったので、サイズは問題ない。

「調整はうまく行っとるの?」

 仲間に入りたそうな妹が、自分で入れたドリップコーヒーを飲みながら言った。

「まあまあ」

 翔平がやや面倒くさくなって答える。

「何なん、その答え。人がまじめに訊いとるのに」

 妹がプンプンと怒った。

 不安だったおろしたてのスケート靴は、使っているうちに革が馴染んできていた。同じメーカーでも、それぞれのスケート靴で微妙に相性は違うもので、これは自分の中では朗報だった。シーズンを通して戦える準備が整ってきていた。
 
「お前に言ったって、なんもわからんじゃろ」

「むかつく、もう知らん」

 妹は興味なさそうにスマホを取り出し、友達に兄の言動を愚痴っているのかもしれない。もしかすると、彼氏でもできたのか。小さかった妹の姿を思い出しながら、時の流れを考えた。

 32歳で現役に復帰する、という自分がおかしく思えてきた。なぜ、そこまで競技にこだわるのか。多くの戦友たちが競技人生を終え、他の道に進もうとしている。自分は今も昔と同じように、スケートを滑ることだけに没頭したいだけだが、子どものままだ。

 それでも、翔平は後戻りする気はなかった。今、自分が感じている不安は、ポジティブなものだと捉えていた。緊張がなかったら、最高の演技はできない。

 12歳の時、初めて行った野岳山合宿もそうだった。スケート連盟の関係者が見守っていて、すごく緊張していたはずなのに、しばらくすると一緒に滑っている選手のレベルも高くて負けそうになりながら、そんな技もできるんだって力が湧いてきた。

「野岳山マジック」

 そう呼ばれるお馴染みの現象だったという。いつもどおり、重ねてきた練習の成果が出た。加速しながら右足を振り上げ、同時に足と腕をたたみ、高速回転をかけ、いつも以上のアクセルが跳べたのだ。

「生まれ変わった気持ちで、新鮮な気持ちでスケートを楽しみたい」

 テレビのインタビューで翔平は言ったが、フィギュアを始めた頃の感覚を取り戻していた。これができない、こんなことができるのか、その発見だ。

「お風呂は私が一番先だから」

 妹がそう言って、飲み干したコーヒーカップを片付けだした。

 父は酔いが回ったらしく、食卓から移動してソファに座った後は居眠りをしていた。母はすでに食事を終えて、キッチンで洗い物をしているようだった。変わらぬ風景に愛おしさを覚える。

「なんか手伝おうか?」

 流しに立った母に向かって、翔平は声を掛けた。

「一人でやった方が早いからいい」

 母は素っ気なく言う。

「お兄ちゃんは、スケート以外はなんもできんじゃろ」

 妹が生意気な口を利く。

「早く、お風呂入れ。先に入ってまうぞ」

「駄目じゃ」

 妹はそう言って、バスルームへ駈け込んで行った。

 母は鼻歌を歌いながら、流しをきれいに拭いていた。父は小さくいびきをかき始めた。少しだけ開いたカーテンから、丸く輝く月が見えた。