常総学院・島田直也監督 インタビュー 前編(全3回)

 2020年から高校野球の強豪・常総学院(茨城)の監督を務めている、同校OBで元プロ野球選手の島田直也氏。島田氏は高校時代、名将・木内幸男監督が率いる常総学院のエースとして、1987年夏の甲子園で準優勝を果たしている。

前編では、甲子園の思い出と「木内マジック」の裏側を語ってもらった。

常総学院「木内マジック」の裏側...1987年夏の甲子園準優...の画像はこちら >>

【最下位グループからのスタート】

 僕が中学3年(1984年)の夏、甲子園で桑田(真澄)・清原(和博)が2年生だったPL学園(大阪)を破り、茨城県に初優勝をもたらしたのが取手二です。

 率いていたのは、木内幸男監督。僕は千葉で軟式野球をやっていましたが、木内さんが直後に私学の常総学院に移籍するという。それを聞きつけた幼なじみが常総へ行くと言い出し、それなら僕もと学校創立3年目だった同校への進学を決めました。

 入学してみると、僕らと同じように考える選手が山ほどいて、1年生だけで120人。まずはおおよその力量でグループ分けされ、体が小さかった僕は箸にも棒にも引っかからない最下位グループでのスタートでした。

 当然、監督と話をする機会などゼロ。でも、そんなことはまったく気にならなかった。もともと負けず嫌いな性格で、「絶対認めてもらうんだ」と心のなかはそれだけです。自分の得意をアピールすべく、この時、誰よりも自信があったのが肩と足。練習ではそれを常に意識して臨んでいました。

 やがてバッティングピッチャーに呼ばれ、上のグループに入り、すぐに春の県大会、関東大会のベンチ入りメンバーにも選ばれました。

 といっても、それ以降はなかなかメンバーに選ばれず、投手以外のポジションも経験したのち、エース番号をもらえたのは新チームになった2年の秋です。

【初の甲子園で砕かれた根拠なき自信】

 その間、熾烈なレギュラー争いのなかで僕の頭にあったのは、とにかく木内さんの野球を理解すること。木内さんは四六時中ブツブツとしゃべっている人で、それを聞きながら何が求められているのかをいつも考えていました。

 でもあの独特の茨城弁、わかりたくてもわからない(笑)。いつもワーワーと吠えている感じで、だから聞き流す選手も多かったんですが、僕はニュアンス的にこういうことを言っているんだろうなと自分なりに解釈し、その積み重ねで木内さんの野球を吸収していきました。それができた選手が、最終的にレギュラーになったんだろうと思います。

 2年秋に関東大会に出場し、準々決勝で敗れた常総は、翌年の第59回センバツ大会の補欠校になります。一度はあきらめた甲子園。ところが、大会直前に不祥事から出場を辞退する学校が出て、急遽出場が決定。思わぬかたちで夢の舞台に立てることになりました。

 結果は、明石(兵庫)を相手に初戦敗退(0−4)。でも振り返ると、このセンバツ出場は僕にとって、そのあとの人生を左右するほどの大きな出来事でした。

 全国のレベルを肌で知り、いつも自分が一番だと思っていた自信が、いかに根拠のないものだったかに気づかされたんです。

 最後の夏に向けて、これじゃダメだとギアが入りました。春の経験がなければのちの甲子園準優勝や、ひいてはプロの門を叩くこともなかったのではないかと思います。

【「大丈夫だ」やる気にさせた監督の話術】

 夏も県大会を制し、常総は甲子園に春・夏連続出場しました。春は初マウンド、初打席で思わず足が震えましたが、一度経験済みなので心境としては怖いものなしです。

 それは抽選会での出来事も大きかった。相手校が決まった時に隣にいた木内さんが、手元にあるデータを見ながら「大丈夫だ」とはっきり言ったんです。

 僕は現在、常総の監督を務めていますが、目の前の選手にそんなことはとても言えない。でも、この時の木内さんは、本心から大丈夫と判断して言ってくれた気もするし、話術で選手を乗せることに長けている人だったので、僕の性格を知ったうえでやる気にさせてくれたのかもしれません。真意のほどはわかりませんが、その言葉でかなりラクになったのは確かです。

 思っていたとおりの展開で福井商(福井)を破り、初戦突破。一度勝ってしまうと、欲が出て、もっと勝ちたいと思う自分がいました。2回戦の相手は沖縄水産(沖縄)で、エースは1年の時から甲子園に出場して注目されていた上原(晃/元中日ほか)です。「無理、打てないよ」と周りが言うなかで、僕だけはそうは思っていなかった。

 モチベーションになったのは、「上原と投げ合って勝てば、俺も注目されるんじゃない!?」。子どもの頃からの夢は、プロ野球選手になること。その時の自分には、そんな単純な考えこそ勝つための大きな原動力になっていました。

 沖水有利との下馬評を覆し、7−0。常総は会心のゲームで3回戦に進出します。ただこの一戦は2回戦最後の夕方の試合で、その次は翌朝の第1試合というスケジュールでした。

 それでも木内さんは慌てるでもなく、「3回戦の2日目を引いたら決勝まで4連投になる。3回戦最初の試合なら、準々決勝まで1日半の猶予。いいくじを引いたな」と。

 翌朝は4時起床でしたが、10時頃には試合が終わっていたので、そのとおり体を休められました。常総のマウンドをひとりで守ってきただけに、決勝進出に向けてプラスに働いたのは言うまでもありません。

【伊良部秀輝ら名投手と対戦...試合ごとに成長できた】

 その3回戦の相手は、これまた大会ナンバーワンとも評された伊良部(秀輝/元ロッテほか)を擁する尽誠学園(香川)でした。

この試合も6−0と連続完封。真夏の甲子園での連投も、体力的なしんどさは不思議と感じませんでした。

 当時の僕は、他の投手が先発して崩れた時など、連投であってもすぐに「自分が行きます!」というタイプ。今は投球制限もあってそうはいきませんが、そもそも投げることが大好きな選手でした。そんな僕を、監督も使いやすかったんじゃないのかなと思います。

「今度は伝統のある学校と当たりたいな」とか話していたら、準々決勝で顔を合わせたのは愛知の中京(現中京大中京)。先発投手はのちに巨人で活躍する2年の木村(龍治)です。

 この試合は、さすがにそれまでの試合のようにはいきませんでした。初回、いきなりの先制パンチ。4点を取られ、「さすが古豪は違う」と脱帽です。のちに後輩と話をしていて知ったのですが、彼が言うには1回表を終えてベンチに戻ってきた時、僕がいきなり「来年頑張れよ」と言ったそうです。まったく覚えていませんが、さすがに負けを覚悟したんでしょうね。

 ところが、試合はそのままでは終わらなかった。初回に僕は、左肘にデッドボールを食らいます。すごく痛かったけど、実はそのおかげで力みが取れたんです。1日半もらった休養で体も軽かったため、逆にエンジンがかかって球が走るようになりました。そのあとは得点を与えず、終わってみたら7−4の逆転勝利でした。

 だから、今の選手にもよく言います。たとえ初回に点を取られても、「攻撃はまだ9回もある」と。慌てず1点ずつ返すつもりでいけば、それは自然と相手へのプレッシャーとなりチャンスにつなげることができます。タフな試合を乗りきるには、こうした考え方がすごく重要だと思います。

 それにしても、夏の甲子園では好投手と次々対戦しました。常総のバッターは全体的に小柄で飛び抜けた選手はいませんでしたが、彼らを打ち崩せたのは、試合ごとに選手が成長していったからだと思います。

 たとえば、のちにメジャーリーグでもプレーした伊良部に対応できたのは、その前に沖縄水産の上原を攻略できたから。

上原はスピード、球のキレでいうとダントツでしたが、コントロールが今ひとつで球が適度に荒れていた。その球筋を見られたことが、次の試合でも活かされました。

 そして、普段対戦できないようなチームと戦えるのが甲子園。格上に勝つことで自信をつけ、それが一気に成長につながっていく。高校生はいつ伸びるかわかりません。木内さんが言った「甲子園は選手を成長させてくれる場所」は、まさにそのとおりになりました。

中編<名将・木内幸男の「唯一の失敗」とは...1987年夏の甲子園決勝・PL学園戦を常総学院のエース島田直也が振り返る>を読む

後編<常総学院・島田直也監督の手応え「僕がいた甲子園準優勝時のチームに似ている」 名将木内幸男から受け継ぐ「準備と状況判断」>を読む

【プロフィール】
島田直也 しまだ・なおや 
1970年、千葉県生まれ。常総学院高3年春にエースとして同校の甲子園初出場に貢献。夏の甲子園では準優勝と大躍進した。日本ハムファイターズを経て、横浜ベイスターズ(移籍時は横浜大洋ホエールズ。現横浜DeNAベイスターズ)で開花。1995年には中継ぎとして自身初の2桁勝利を記録し、1997年には最優秀中継ぎ投手のタイトルを獲得。1998年にはチーム38年ぶりの日本一にも貢献した。引退後は日本ハムの打撃投手、四国アイランドリーグPlusの徳島インディゴソックス監督、横浜DeNAの二軍投手コーチなどを歴任。2020年から母校・常総学院のコーチに就任し、同年7月より監督。2021年と2024年のセンバツに出場し、ともに初戦突破を果たす。

編集部おすすめ