連載 怪物・江川卓伝~球史に残る大投手・江夏豊との投球論(後編)
前編:江夏豊は江川卓に「相当図太い」と感服はこちら>>
単純に「天才」という言葉では収まりきれない多くのものをファンに披露し、感動を与えてくれたのが江夏豊と江川卓である。
左右の違いはあるが、日本プロ野球史上ナンバーワン投手の呼び声が高く、剛球投手でありながらコントロールがよく、クレバーな投球術はほかの名投手と比べても群を抜いている。
【あのインハイのボールは勝てない】
江川は江夏の球質について、このように語っている。
「アウトコースに回転よく低めに伸びる球は、自分の球質と似ている感じがする」
一方、江夏は江川のボールについてこう語る。
「あのインハイのボールは、勝てないと思った」
傲岸不遜(ごうがんふそん)で誰よりも誇り高き江夏が、江川の得意とするインハイのストレートを見て、勝てないと言ったのだ。江夏は決して傍若無人ではない。見た目がひと昔前の渡世人っぽいだけに誤解されやすいが、理知的で絶えず気配り、目配りをし、言葉の重要性を誰よりも理解している。
広岡達朗や野村克也など、かつての名将たちは読書家で自己啓発から哲学書まで幅広いジャンルを読んでいた。江夏も球界きっての読書家だが、読むのは小説のみ。フィクションのストーリーに浸り、人間の機微を知る。これが江夏ワールドだ。尋常では測れない江夏ワールドのなかで、同じ投手として後輩である江川を認めたのだ。
江川が入団したのが1979年で、20勝をマークしたのが81年。その頃、江夏は連続セーブ王を継続中ではあったが、晩年を迎え、往年のストレートの威力とはかけ離れ、キレとコントロールで勝負していた。「当時の自分では」と注釈が入りそうだが、潔かった。
入団時の「空白の1日」の騒動についても、江夏なりの見解があった。
「あまりに次元が違う問題のため、ひとりのプレーヤーがとやかく言うことではなかった。ただプロ野球側の人間として、入ってくることは大いに歓迎していた。それが一番寂しく感じたのは、巨人に入団したこと。日本のプロ野球っていうのは、やっぱり巨人が中心。巨人を倒す喜びを自分は持っていたから、巨人に入ったということは内心ガッカリしたよね。やっぱり阪神に入るとか、他球団に入って巨人を倒してもらいたかった。それくらい巨人は強かったし、ちょうど自分が入った頃は巨人を倒すことがピッチャー冥利、野球選手冥利っていうか......倒すのが楽しみだったからね」
巨人中心の野球界に"怪物・江川"は新風を巻き起こす──そんな世界観を期待した思いがあった。
江夏は1973年夏の甲子園、雨中での作新学院と銚子商の試合をテレビ観戦している。世間が「江川、江川」と騒がしいなか、どんなピッチャーなのかと思い、テレビで見たということだった。「噂に違わぬダイナミックなフォームから、要所要所で威力のある球を投げるなぁ」と思ったという。その日以来、江川という名前が江夏の頭の片隅に刻まれた。
【肩やヒジが痛くても投げ続けた】
昨年、ある雑誌の企画で江夏と江川の対談をセッティングした時、一体どんなハレーションが起こるのか、スタッフ一同、戦々恐々としていた。出会った瞬間に火花が散るのかと変に期待した部分もあったが、そこはもういい大人同士。十数年ぶりの対談ということで、顔を合わせるなり思い出話に花を咲かせる。軽いウィーミングアップが終わり、肩が温まったところで対談がスタートした。
気遣いの江川は、きちんと江夏を敬いながら話を進めていき、投球論、ON(王貞治、長嶋茂雄)に対しての攻め方、オールスターでの9者連続三振の心境などを語り合った。
江夏はテレビでの解説を聞いてもわかるように、後輩に対しては絶対に呼び捨てせずに「くん」づけで言い、丁寧に言葉を選びながら話す。小説を読むのが趣味なだけに含蓄あるものの言い方が特徴で、後輩になればなるほど上から目線で言わないように心がける。
それが江川の時だけは、十数年ぶりに会うというのに終始フランクに話している。超一流投手だけが通じる何かがあり、江夏は後輩の江川を認めているからこその温度感なのだと感じた。
だからと言って、何でも言い合える先輩後輩の間柄ではない。認めているからこそ、時にわざとストレートを投げ込む場面をつくる。
自慢のストレートで、ONを中心とした強打者を倒してきた江夏のプライドは、半世紀が過ぎようとも色褪せることがない。
ケガなどによってモデルチェンジする心境についての話になった時、江川が「僕は4年目で肩を痛めたことによって、コントロールをより身につけようとしました。生きる道を考えると、いろんな球種を投げられないので、コントロールとバッターの性格を知るっていうことに特化していくしかなかった」と語ると、江夏は己の覚悟の度合いを示すかのようにゆっくりと口を開いた。
「(プロで)18年やった人間と、半分の9年しかやってない人間の差が出ているよね。江川くんには失礼だけど、少なくとも江川くんよりもピッチングというものに対して苦しんだ人間だから。肩が痛い、ヒジが痛い......というのは嫌というほど味わった。それでも投げたからね。それこそ脂汗を流して投げて、投げて、投げ込んで、最終的にリリーフでなんとかメシが食えるようになった。たしかに肩が痛いとき、ヒジが痛いときにボールを投げるのは辛いよ。でもオレは、それを乗り越えた。顔を洗えない、箸が持てない、そんな時でもボールだけは持てるんだから」
この時は、本心を見せたかったという部分もあっただろうし、同時にもっと現役に執着してほしかったという思いも含まれていたに違いない。
無四球試合は、江夏(21試合)より江川(23試合)のほうが多かった点について、江夏に尋ねると、こんな答えが返ってきた。
「場合によってフォアボールを出さなければいけない時もあるから、負け惜しみじゃないけど、それがすべてではない」
その言葉を聞いて、江夏の強烈なプライドを感じた。それは、ほかの後輩には絶対に見せない、江川だからこそ見せた姿だった。
そして今まで自信を持って投げた球を打たれたことがあったかという質問に対し、江川は「インハイを勝負球にしている以上、打たれたこともあった」と言うと、江夏は間髪入れずに「打たれたことはない」と断言した。
一流が一流を知るではなく、超一流が超一流を知らしめる。このふたりだからこそ生まれた名勝負は、永遠に人の心のなかで輝き続けるだろう。
(文中敬称略)
江川卓(えがわ・すぐる)/1955年5月25日、福島県生まれ。作新学院1年時に栃木大会で完全試合を達成。3年時の73年には春夏連続甲子園出場を果たす。この年のドラフトで阪急から1位指名されるも、法政大に進学。大学では東京六大学歴代2位の通算47勝をマーク。77年のドラフトでクラウンから1位指名されるも拒否し、南カリフォルニア大に留学。78年、「空白の1日」をついて巨人と契約する"江川騒動"が勃発。