連載 怪物・江川卓伝~石毛宏典の忘れられない衝撃(後編)

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 石毛宏典は、江川卓とシーズン中での対戦はないものの、日本シリーズ、オールスターと名勝負を演じている。にもかかわらず、本人は記憶の住処がはっきりしないと語る。

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【オールスターでの8連続奪三振】

 江川のオールスターといえば、1984年の8連続奪三振だ。7番・ショートでスタメン出場した石毛は、6人目の打者として三振を喫している。

 超満員のナゴヤ球場のスタンドは、江川の奪三振ショーに拍手喝采。「いいぞ、江川!」「三振記録狙え!」と声援が飛び交う。いつもナゴヤ球場ではヤジしか聞いたことがなかっただけに、江川は妙な感覚にとらわれていた。

 石毛にとってはルーキーイヤーから数えて4回目のオールスターということもあり、独特の雰囲気を味わいながらもだいぶ慣れた頃。だからといって気楽にプレーするのではなく、めったにない全国ネットということあり、無様なプレーは見せられないとの思いが強かった。

 セ・リーグの2番手としてマウンドに上がった江川は、先頭打者の福本豊、簑田浩二、ブーマー、栗橋茂、落合博満と5者連続三振を奪った。江川は2年前に肩を痛めてからピリッとした投球ができず、"一発病"に見舞われていると言われてもいたが、ストレートはうなりを上げ、パ・リーグの猛者たちのバットが面白いように空を切った。

 ベンチでは「おい、マジかよ」「調子が悪いって聞いていたぞ」と、ざわつき始めた。ここは9連続奪三振を狙ってくるのが当然だ。それでも石毛は変に力むことなく、打席に入った。

 江川は「なぜだかわからないけど、朝起きた時に肩の痛みがなかった」と述べ、このオールスターの試合だけは痛みを気にすることなく投げられたという。

 石毛と対峙した江川は、初球は高めのストレートを投げ込みボール。2球目も同じ高めのストレートを打つも、バックネットにファウル。ポンポンとテンポよく投げる江川はキャッチャーからボールが返ってくると、グラブを右脇にはさみ、両手でボールをこねたあと、再びグラブをはめ、右手でロジンを拾う。

 サードの掛布雅之から声をかけられると、朗らかな笑みがこぼれた。グラブをはめ直すとともに、再びスイッチを入れる。3球目は小さく曲がるカーブでストライク。そして最後は、外に大きく逃げるカーブで空振り三振。

「全然覚えてない。カーブで三振したのと、最後に大石大二郎がカーブをちょこんと当ててセカンドゴロだったのは覚えている。オールスターに出る本格派のピッチャーって、大体真っすぐ一本で来るじゃないですか。9連続奪三振の江夏豊さんだって真っすぐ、真っすぐで押してね。江川にしても、当然あれだけの速い球があるんだから真っすぐで勝負してくると思ったんだけど、案外カーブを決め球にして三振を取ってくる感じだった」

 1ボール2ストライクとなった4球目、石毛は完全なストレート狙いで待ち構えていた。

そうでもなければ、好打者の石毛があそこまでアゴを上げて空振りすることはない。でも石毛は、最後に空振り三振したことは覚えているが、そのほかのことはまったく覚えていないという。

【江川のボールに匹敵した投手は?】

 80年代、パ・リーグの好投手たちと幾多の名勝負を繰り広げてきた石毛に、江川のボールに匹敵するピッチャーがいたのかどうか尋ねてみた。

「(郭)泰源(西武)に近いかな。泰源も江川さん同様に、力感のないフォームからピュッとくるストレート。(西武時代の)同僚のなかでは、泰源と(渡辺)智男が速かった。あの当時のパ・リーグの審判に『工藤公康、渡辺久信、郭泰源、渡辺智男、誰がいいんだよ?』って聞いたら、『渡辺智男がすごい』って即答しました。

 智男は高校時代(伊野商)に甲子園でPL学園の清原(和博)を3三振させているわけでしょ。表現としては、ボールがワーッと大きく見えてくる感じだって。いわゆる初速と終速の差があまりないようなピッチャーだったんじゃないですかね」

 最速158キロのストレートを武器に"オリエンタル・エクスプレス"の愛称で、85年に西武へ入団した郭泰源。細身でしなやかな手足からスリークォーターから投げ込まれるボールは、地を這うようなスピンの効いた快速球だった。石毛が言う江川の軌道とは少し違うが、力感のないフォーム、コントロール、投球術、スピードなど、投球スタイルは似ていた。

 一方の渡辺智男は、ダイナミックなオーバースローから鋭く伸びる豪速球を投げ込んだ。あの清原が高校時代、唯一球威で打ち取られたピッチャー。ヒジに爆弾を抱えていたため短命に終わったが、強烈なインパクトを残した。

 とにかく、プロ野球関係者に「江川の球質と似ているピッチャーは誰か?」と聞いても、答えに窮するのが常だった。江川本人は「藤川球児くんの高めの球と似ていた感じがします」と言っていたが、全盛期の江川の球を見た人間からすれば、あくまで似ているだけで、江川のボールは唯一無二だったと断言する。

 石毛は感慨深くこう話した。

「江川さんはプロでの投手人生をスパンで考えて、言い方は悪いですが打算的に考えて、そんなに無理せず、毎年2ケタ勝てば給料は上がっていくだろうっていう雰囲気に見えました。だって高校(作新学院)から大学(法政大)に入った時も、そんなにレベルは高いと感じなかったんじゃないかな。当時の大学野球で明治大は強かったですけど、それでも7、8割の力で抑えられたわけですよ。いざという時だけ『抑えりゃいいんだろ』というところもあったみたいだし、人並み以上の力があったがゆえに、計算できるようになってしまった。

 そうなると、意気に感じてやってやるみたいなものがなかったような気がするんですよね。それでも勝てたピッチャーなんですよ。

甲子園に出た時は、やっぱり目一杯投げていただろうし、大学時代が江川卓という怪物のひとつの分岐点になったのかなぁ。球史に残るピッチャーだったのは間違いない。大学、プロと目一杯投げていたらどうなっていたんだろうか......」

 最後の言葉がすべてだった。要するに、江川の目一杯の姿をプロでも見たかった、ということだ。

(文中敬称略)


江川卓(えがわ・すぐる)/1955年5月25日、福島県生まれ。作新学院1年時に栃木大会で完全試合を達成。3年時の73年には春夏連続甲子園出場を果たす。この年のドラフトで阪急から1位指名されるも、法政大に進学。大学では東京六大学歴代2位の通算47勝をマーク。77年のドラフトでクラウンから1位指名されるも拒否し、南カリフォルニア大に留学。78年、「空白の1日」をついて巨人と契約する"江川騒動"が勃発。最終的に、同年のドラフトで江川を1位指名した阪神と巨人・小林繁とのトレードを成立させ巨人に入団。

プロ入り後は最多勝2回(80年、81年)、最優秀防御率1回(81年)、MVP1回(81年)など巨人のエースとして活躍。87年の現役引退後は解説者として長きにわたり活躍している

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