渡辺正和インタビュー(前編)

 渡辺正和氏は、県内屈指の進学校である佐賀西から筑波大に進み、公立大として初の全国制覇を成し遂げた。その後、社会人野球の東京ガスでプレーし、都市対抗には補強選手として準優勝を経験。

アマチュア時代、華々しい経験を積んだが、当初はプロに行くつもりはまったくなかったという。それが一転、27歳でダイエー(現・ソフトバンク)入り。なぜ渡辺氏はプロの世界へと飛び込む覚悟を決めたのだろうか。

県内屈指の進学校から筑波大に進み全国制覇 プロにまったく興味...の画像はこちら >>

【筑波大で全国制覇を経験】

── 佐賀西高は県内屈指の進学校であり、プロ野球選手も輩出しています。

渡辺 もう大先輩になりますが、24歳上に近鉄で首位打者を獲得した永淵洋三さん、16歳上にヤクルト、近鉄、阪神の3球団で優勝を経験した永尾泰憲さんがいました。僕は高校2夏、3夏と佐賀県大会準決勝で敗れ、あと少しのところで甲子園には行けなかったですね。

── 高校卒業後は首都大学リーグに所属する筑波大に進み、通算58試合21勝13敗、防御率1.81。小林昭則(元ロッテ)との二枚看板で、公立大として明治神宮大会で初の全国制覇を成し遂げています。

渡辺 プロの話もいただきましたが、私は母子家庭でしたし、「安定した職業に就きなさい」と親戚からも反対されました。筑波大は学校教員になる学生が多く、当時プロ入りしていたのは西本和美さん(1981年巨人ドラフト外)ぐらい。プロ入りの思いは全然なかったです。

── ただ、プロ入りした選手とも多く対戦したのではないですか。

渡辺 プロに行くのは日体大や東海大でプレーするような選手だと思っていました。

日体大の園川一美さん(85年ロッテドラフト2位)の切れ味鋭いカーブ、東海大の佐藤真一さん(92年ダイエードラフト4位)の強肩、社会人野球では東芝の丹波健二さん(91年ロッテドラフト3位)の強打には驚きました。

── なぜプロ入りに心変わりしたのでしょうか。しかもプロ入りは27歳のシーズンでした。

渡辺 社会人野球の東京ガスに進み、熊谷組の補強選手として都市対抗野球で準優勝を経験しました。大学、社会人野球で対戦した選手がプロ入りしていくなか、「もしかしたら、自分にもチャンスがあるのでは......」という思いになったのです。社会人4年目の92年秋のドラフトでダイエーから5位指名されました。

【1年目に完投でプロ初勝利】

── プロ1年目から一軍で登板を果たしました。

渡辺 プロ1年目の93年に初勝利を完投で飾り、2年目には中継ぎで4勝。プロでやっていける自信めいたものをつかんだのですが、それも束の間でした。王貞治監督1年目の95年、春先の練習中に利き腕の左肩を強打して、その瞬間、「選手生命が終わったかな」と感じたほどの痛みでした。結果的に肩鎖関節脱臼でした。

── その95年から5年間は未勝利でした。

渡辺 99年にダイエーは初優勝したのですが、一軍登板はなし。

98年オフに結婚した妻と一緒にテレビで王監督のリーグ優勝の胴上げを見ていました。シーズン後の秋季キャンプのメンバーに名前がなかったので、それなりの「覚悟」をしていたのはたしかです。日本シリーズ前の打撃練習の手伝いに行って、尾花高夫投手コーチから「こういう手伝いの時でも何かアピールしなさいよ」と言われました。

── 尾花氏は前任のヤクルトコーチ時代、「野村克也再生工場の現場監督」の異名がとりました。

渡辺 あとで聞いた話ですが、尾花さんが「正和にもう1年猶予をやってくれ」とフロントに頼んでくれたらしいです。「もっとシュートをストライクゾーンに投げなさい。147、8キロのストレートを142、3キロに落としてもいいから、もっと低目に投げなさい」とアドバイスされました。思えば、あれがターニングポイントでした。

【ONミレニアム決戦で奮闘】

── 2000年に60試合登板を果たしました。投球回は85ですから、「イニングまたぎ」も多かったのですね。

渡辺 99年はチームに2ケタ勝利投手が5人いましたが、00年はゼロ。長冨浩志さんや吉田修司ら、ほかの中継ぎ投手とともに「何とか抑えのロドニー・ペドラザ(35セーブ)までつなごう」と話し合っていました。

以降、03年までの4年間で計211試合に登板することができました。

── 00年の巨人との日本シリーズでは、仁志敏久さん、清水隆行さん、高橋由伸さん、松井秀喜さん、清原和博さん、江藤智さん、二岡智宏さんといった超重量打線を相手に4試合に登板しました。

渡辺 三塁側に王貞治監督、一塁側に長嶋茂雄監督。結局2勝4敗でダイエーは敗れたのですが、第2戦で勝利投手になれたのは、ご褒美をいただいたのかなと思っています。

── それ以外、プロで印象深い思い出は何になりますか。

渡辺 プロ1年目、93年の初先発の近鉄戦ですね。9回に崩れて5失点し、目前だった初勝利をフイにしたことです。プロ入り時の根本陸夫監督はキャンプ初日の2月1日から紅白戦をやりました。04年の落合博満監督(中日)が最初だと言われていますが、それ以前からやっていました。読む本を薦められたり、私のことを気にかけてくれました。失礼ながら巷間言われる"コワモテ"とは違う一面がありました。王監督は偉大で近寄りがたい雰囲気もありましたが、「打たれてもいいが、無駄な四球はダメ。

自信を持って投げなさい」とアドバイスしてくれたのが印象深いです。

後編につづく>>


渡辺正和(わたなべ・まさかず)/1966年4月12日、佐賀県出身。佐賀西から筑波大へ進学。87年秋の神宮大会で優勝し、国公立大初の全国制覇を成し遂げる。大学卒業後、東京ガスに進み、92年の都市対抗に熊谷組の補強選手として出場。同年秋、ダイエーからドラフト4位で指名され入団。1年目に先発でプロ初勝利を挙げ、2年目は中継ぎで4勝するも、95年以降はケガに苦しんだ。しかし2000年、中継ぎとして60試合に登板するなど、「勝利の方程式」のひとりとして活躍。03年オフに戦力外通告を受け、現役を引退。引退後が福岡大の大学院に進み、教員免許を取得。その後、福岡大スポーツ科学部講師(バイオメカニクス専攻)に就任し、野球部の指導にも携わるようになる

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