連載 怪物・江川卓伝~掛布雅之が振り返る「昭和の名勝負」(前編)
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プロ野球の名勝負といえば、「村山実×長嶋茂雄」「江夏豊×王貞治」、さらには「野茂英雄×清原和博」といったファンの心に残る対決があった。そしてもうひとつ、忘れてならないのが「江川卓×掛布雅之」である。
江川と掛布はともに昭和30年(1955年)生まれの同級生で、高校時代は江川が作新学院(栃木)、掛布は習志野高(千葉)と同じ関東圏だったため、一度だけ練習試合をしたことがある。
江川が「習志野に掛布といういいバッターがいるというのは聞いていた」と言えば、掛布も「怪物・江川の球ってどうなのだろうと思いブルペンの前を通ったら、ものすごいキャッチ音にびっくりした」と振り返った。
のちに"昭和の名勝負"と謳われたふたりの夜明け前、対峙する寸前だった。
しかしダブルヘッダーの第1試合、掛布は先発した作新学院の大橋康延から右ヒザ付近にデッドボールを食らい、そのままベンチに引っ込んだことで江川と対戦することはなかった。互いに意識しあっていたが、対決は次のステージへと持ち越しとなった。
【注目のプロ初対決の行方は?】
巨人・江川、阪神・掛布の初対決は、1979年7月7日の後楽園球場。掛布が3番で出場していたため、初回に打席が回ってきた。掛布が回想する。
「まず1打席目にどのくらいのストレートの速さなのかを確認し、それからの勝負だろうと考えていました。僕自身、相当緊張していたことは覚えています。打席のなかでどんなボールが来ても初球は見逃そうと思っていましたから。初球はカーブから入ってきてボールになったのですが、その時点で勝ったと思いました。初球にストレートを投げてこないことで、(向こうも)相当意識しているんだろうなと。
初球のカーブがストライクだったら、勝敗は逆になっていたかもしれません。ボールになったことでもう1球ボールを見ようと余裕ができたわけです。またカーブだったのかな......2ボールとなって、3球目に外のストレートが来てストライクだったんですけど、自分がイメージしていたよりもそんなに速く感じなかったんですね。その時点で、僕はすごく落ち着いていたと思います。2ボール1ストライクになって、次にまたカーブが外れてカウント3−1。この時には、自分が見たストレートにタイミングを合わせていました」
そして5球目、またしてもカーブが来たが、うまく反応したとらえた打球はライトスタンドに飛び込んだ。
「カーブが投げ込まれたんですけど、それまでに3球カーブを見てますので、目がカーブと判断した瞬間に体が反応しているんですよね。真っすぐのタイミングで打ちにいっているのでちょっと泳がされているんですけど、右のヒザが止まって壁があるのを感じていました。構えているバットが自分の体の前を通っていく感覚っていうのは、今でも覚えています。打った瞬間に入ったという手応えは感じました」
通常、ストレートを待っていてカーブが来れば、タイミングが外れるが、一流打者はそうではない。掛布は自分がイメージしていたストレートよりも速さを感じなかったことで、ストレートを待ちつつカーブが来ても反応できると思っていた。
つまり、ストレートを待っていてカーブが投げ込まれた瞬間、「カーブだ!」と認識しただけで体がうまく反応するというメカニズムを構築していたのだ。
【バットを短く使いたい】
初打席でホームランを打ったが、それでも掛布は江川と対戦する時、常に"怖さ"を抱いていた。
「やっぱりわかっていてもストレートを投げ込んでくる、その怖さですよね。だから、江川も僕も対戦する時は、ひとつのキーワードとして"怖さ"があったかもしれませんよね。ひとつコースを間違えれば、スタンドまで持っていかれるかもしれない。でも、そこに投げ込んでくる江川の怖さを感じながら、カッコよく言わせていただくと"紙一重"の勝負をさせてもらっていた。
ギアが上がった瞬間は、目を見るとわかりますよ。『行くよ』みたいに変わる。それが怖いんですよね。相手にわかるように、わざと目の色を変えながらストレートを投げ込んでくる。だから、裏の勝負はないですよね。すべて表の勝負をしたと思います」
真っ向から唸りを上げて投げ込んでくるストレートに畏怖の念を感じるしかなく、それに対応するためには、いかに自分のベストスイングをするのかだけを心がけていた。
正直、江川のルーキーイヤーはさほど速さを感じなかったが、2年目以降は江川本来のスピンの効いた本物のストレートに戻っていた。
バッターがストレートを待っているのがわかっていても、その球を投げ込んでくる。ただの無鉄砲なのか、それとも自信家なのか......。ポーカーフェイスの江川から投げ込まれるストレートを見れば、その両方とも当てはまらない。江川は"夢想家"なのだ。それも突き抜けた実力を持った夢想家である。
ストレートを待っている打者から空振りを取ることが快感であり、しかも絶対に手を出してくるコースに投げて仕留める。力がなければできる芸当ではないし、自信がなければそんな勇気など湧いてこないはずだ。だからこそ掛布は、江川のボールからしか感じられない"怖さ"を、嫌というほど味わった。
「対戦する時の注意点というか、要はバットを短く使いたいんですよ。バットを長く使うと彼のストレートには対応できません。バットを短く使うってことは、手を短くするってことなんですよね。
だから自分の持っている34インチのバットを、その長さで使おうとは思わないんですよ。遠心力を利用して、もっとスピンを上げるために短く使う。そのためには腕を短くして、ヘッドスピードをコンパクトに上げるということしか考えてなかったんですよ。バットを振りにいったら絶対に負ける。振ろうという意識はなかったですね。コンパクトに回転しようというイメージしかなかった」
江川がデビューした1979年、掛布はプロ6年目で、前年まで3年連続3割をマーク。なかでも78年は、打率.318、32本塁打、102打点の成績を残し、押しも押されもせぬ球界のスター選手へと駆け上がっていた時期だ。
そんな掛布でさえ、ルーキー・江川の存在は大きく、特別な思いを抱いていた。
(文中敬称略)
後編につづく>>
江川卓(えがわ・すぐる)/1955年5月25日、福島県生まれ。作新学院1年時に栃木大会で完全試合を達成。