連載 怪物・江川卓伝~角盈男が語った孤高のエースの素顔(後編)
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「江川(卓)さんをリリーフすることを目標にしていたし、それによって自分のレベルが上がってくるんです」

 角盈男の思いは、真っすぐで潔かった。

江川卓と桑田真澄──角盈男が一時代を築いた巨人のエースを比較...の画像はこちら >>

【江川卓はピッチャー版ON】

 角と同級生の西本聖は、江川に追いつけ追い越せと、勝ち星をひとつでも上回るためにコントロール重視のピッチングで対抗した。角は中途半端なボールでは太刀打ちできないと思い、自身の役割であるリリーフ業を極めるために一球一球、丹念に投げ込んだ。

 江川、西本とともに三本柱のひとりである定岡正二はマイペースなためよくわからないところがあったものの、江川を意識しなかったことはなかった。みんなが自分の役割を理解し、江川に負けじと研鑽した。

 角が当時を振り返る。

「そもそも投げるボールが違う。根本的に才能がずば抜けているんです。たとえるなら、江川さんは大ジョッキの八分目ぐらいで、余裕しゃくしゃくでやっているのに対し、オレらは中ジョッキが溢れるぐらい一生懸命やっている感じ。もともと、キャパが違う。野手の人が、王貞治さん、長嶋茂雄さんの"ON"を見るのと同じだと思いますよ。ピッチャー版ON、まさにスーパーヒーローです。

 打者として王さんには追いつけないけど、目標にすることによって50本塁打は無理でも、30本、40本を打てるようになっていく。それと同じで、江川さんを目標としてやっていけば、各々のレベルも上がっていくんです」

 江川の身体能力は、誰もが舌を巻くほどすさまじかった。見るからに重そうな体をしているのに、本気を出せば盗塁王の松本匡史に次ぐ足の速さを持ち、長距離走だって速い。

 またキャンプ中に投手陣で遠投をしようということになり、ホームベースからバックスクリーンに向かって投げると、ほとんどの投手がフェンスに当てるのが精一杯なのに、江川ひとりだけ楽々とバックスクリーンに当てる。

 法政大時代には5番を打つほどバッティングもよく、まさに三拍子揃ったスーパーアスリートだった。だが、元来のやさしい性格もあり、周りに合わせてしまう傾向があった。しかも入団した経緯が経緯だっただけに、余計に人の目を気にしてしまい、変に突出した力を見せまいとしていた。

「あのホリさん(堀内恒夫)だって、江川さんのことをすごいピッチャーだと認めていたはずです。でも、プライドがあるので絶対に本音は言わないだろうし、自分より上か下なんて口が裂けても言わないと思います」

 プロの選手から見ても、規格外のポテンシャルを持つ江川を目の当たりにして、同僚たちはその実力を認めざるを得なかった。

【江川卓と桑田真澄の共通点】

 角の話で興味深かったのは、江川と桑田真澄との比較である。

「江川さんもそうですけど、甲子園で優勝を義務づけられ、成績を残したピッチャーっていうのは、バッターとの駆け引きがうまい。江川さんなんかも、ランナーが二塁に進んでから全力投球。桑田もそんな感じでした」

 桑田はPL学園時代、1年夏から実質エースとして5季連続甲子園出場を果たし、優勝2回、準優勝2回、ベスト1回と驚愕の成績を残した。

「一度、桑田にこう言われたことがあるんです。バッターとして対戦していて、アウトローでストライクを取ると『角さん、なんで初球から一生懸命やるんですか? バッターの打ち気がないとわかれば、力を抜いてポンと投げればいいじゃないですか』と。

僕は1本のヒットも打たれたくないなかでやっていたから、そういう思考がないわけです。でも桑田は、平気でそういうことを言う。とにかく、並外れた洞察力があったんだろうね」

 江川にしても、高校時代から相手打者の力を見極めて投げていた。チームのなかで一番センスのいい選手がトップバッターに座るという持論から10段階で評価し、それをベースにしながら2番以降も分析しながら投げていた。

 そうでもしないと、高校時代の過酷な遠征、大学時代のリーグ戦と、まともに投げていたら簡単に肩はぶっ壊れていただろう。おそらく、高校時代の桑田も同じ経験をしたのだろう。

 そして角は、桑田についてこんなエピソードも教えてくれた。

「もうひとつ頭にきたのは、オレがコーチだった1997年、あいつが投げていて、途中でフォームを変えるんです。『桑田、変えたね』って言うと、『わかります』みたいな返事をする。要するに、自分がこのピッチングコーチを信頼できるかどうか試していたんです。1年夏から名門・PLのマウンドを託され、優勝を義務づけられていたわけですよ。あの体でやるっていうのは、やっぱりそのぐらいの気概ないと......自分で自分を守っていかなきゃいけないからね」

 また桑田のフォームに関して、ほかの人には教えられないと角は言う。

「あのフォームは、大きい人間に勝つための投げ方ですから。車でたとえるなら、軽自動車なのに3ナンバーのエンジンが入っている感じ。手を真上に上げて振り下ろすんだけど、リリースポイントが高い。通常、あのサイズで、あの投げ方をすると、どこかでパンクしてしまうんです。でもあいつはストイックに練習を重ねて、壊れない体をつくり、フォームを築き上げた。だから、あいつのフォームは人に教えられないです。江川さんのフォームも、誰も真似できない。ただ、江川さんは初めから恵まれた体を持ち、ふつうにF1のエンジンを積んでいた。そもそもスタートの地点で違うんです」

 努力により開花した桑田と、生まれ持った素質で投げ抜いた江川。対照的なふたりをわざわざ比べるものではないのかもしれないが、それよりも江川と比べる者がいないというのが現実なのだろう。その才能は、まさに唯一無二であった。

(文中敬称略)


江川卓(えがわ・すぐる)/1955年5月25日、福島県生まれ。

作新学院1年時に栃木大会で完全試合を達成。3年時の73年には春夏連続甲子園出場を果たす。この年のドラフトで阪急から1位指名されるも、法政大に進学。大学では東京六大学歴代2位の通算47勝をマーク。77年のドラフトでクラウンから1位指名されるも拒否し、南カリフォルニア大に留学。78年、「空白の1日」をついて巨人と契約する"江川騒動"が勃発。最終的に、同年のドラフトで江川を1位指名した阪神と巨人・小林繁とのトレードを成立させ巨人に入団。プロ入り後は最多勝2回(80年、81年)、最優秀防御率1回(81年)、MVP1回(81年)など巨人のエースとして活躍。87年の現役引退後は解説者として長きにわたり活躍している

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