【アメリカでも井上尚弥の対戦候補に名が挙がる】

 アメリカの法曹界をリードする超名門、ハーバード大学院出身の弁護士、ボブ・アラムがボクシングビジネスに興味を持ったのは1960年代のことだ。敏腕弁護士らしく周到に準備し、1973年にトップランク社を立ち上げた。

 以来、プロモーターのライバルであるドン・キングと鎬を削りながら、第一人者として、主に中量級のビッグマッチで手腕を発揮してきた。

モハメド・アリの試合をマッチメイクしたこともあったが、希代のカリスマが去ったリングを支えた4名のスター王者―――統一ミドル級タイトルを12度防衛した"マーベラス"・マービン・ハグラー、ウエルターからライトヘビーまで5階級を制したシュガー・レイ・レナード、同じく5階級制覇を成し遂げたトーマス・"ヒットマン"・ハーンズ、パナマの石の拳、ロベルト・デュラン―――をリーグ戦のようにぶつけることで、アラムはボクシング界を活性化させた。

井上尚弥戦の期待高まる中谷潤人 師とのLAキャンプで「次戦は...の画像はこちら >>


 プロモーターとしての地位を揺るぎないものとしたアラムは、1992年のバルセロナ五輪で金メダルを獲得したオスカー・デラホーヤ、1996年のアトランタ五輪で銅メダリストとなったフロイド・メイウェザー・ジュニア、フィリピンから本場に乗り込んで来たマニー・パッキャオらと契約し、歴史に残るビッグマッチを組み続ける。

 現4団体スーパーバンタム級チャンピオン、井上尚弥の一連のファイトもアラムが手掛けている。"モンスター"井上は卓越した力を持つチャンピオンだが、アラムの存在なくして、短期間で2階級にわたる4冠統一には至らなかった。

 2024年7月下旬、そのトップランク社とWBCバンタム級チャンピオンの中谷潤人が契約を締結した。このところ圧巻の勝利を重ね、昨年5月のWBOスーパーフライ級王座決定戦が昨年度の『リングマガジン』の「KO Of The Year」に選ばれるなど、中谷の存在は本場でも注目を集めている。アラムの眼鏡にも適ったのだ。

 日本時間9月3日の井上尚弥vs.TJ・ドヘニー戦も、アラムの計いでアメリカ国内では『ESPN』のケーブルチャンネルで生配信された。とはいえ、番組が始まったのはトップランク社があるアメリカ西部時間の火曜日、午前2時45分。東部時刻では5時45分と、熱狂的なボクシングファンでも観戦するのが難しい早朝であった。

 井上がドヘニーを7ラウンド16秒で下し、花道を引き上げて行く様を映しながら、『ESPN』は今後の対戦候補として中谷の名を挙げた。画面左右にベルトを肩から下げた両選手の写真を用いて、年齢、身長、こなした世界タイトルマッチの数、制覇した階級数、スタンスを報じている。

近い将来、彼らが戦うことは必須と受け取れる比較だった。アラムの胸の内を見る思いがした。

【井上尚弥のドヘニー戦分析と次戦への意気込み】

 中谷は10月14日に組まれたWBCバンタム級タイトル2度目の防衛戦に向け、LAでキャンプ中のため同中継のライブ観戦はせず、トレーニングを終えた空き時間にオンデマンドで目にした。以下がその感想だ。

「井上選手が序盤からプレスをかけて試合を作っていきましたね。ドヘニー選手は下がらされる状況が続き、徐々に疲弊していくのが見て取れました。チャレンジャーもいろいろと工夫して井上選手を惑わせる動きをしていましたし、パンチを当てたシーンもありました。ですが、ダメージが溜まっていたでしょうから、最後に動けなくなったのは仕方ないかなと。ドヘニー選手も頑張りましたが、あの内容では勝利には結びつかないとも感じました」

 自身と井上尚弥戦を望む声には、こう語った。

「井上尚弥選手との試合に関する期待度は感じますが、まずはひとつひとつ、自分(の強さ)を証明しなければいけないと考えています」

 中谷の次戦の相手、タサーナ・サラパットの戦績は76勝(53KO)1敗。2018年12月30日のWBCバンタム級暫定王座決定戦で、井上尚弥の実弟であり、現WBAバンタム級王者である拓真に判定負けしたのが唯一の黒星だ。

 現在、主要4団体のバンタム級はそれぞれ日本人がベルトを巻いている。とはいえ、ほかの3名と中谷の実力には大きな差がある。

アラムが関心を示すのもWBC王者のみだ。自身の価値をより多くの人に認知してもらうべく、ビッグマッチを切望する中谷は、一日も早くバンタム級王座を統一したいだろう。

 サラパット戦の前日には拓真も防衛戦を控えており、近くWBA/WBCの2冠戦が実現しそうだ。中谷は話した。

「サラパット選手は背が高く、独特のタイミングでパンチを打ってきますから、意識して練習しています。また、パンチを放つ時、逆のガードが下がるようなので狙っていきますよ。サウスポーとの対戦は4度目ですが、今は対応しなければならない部分を擦り合わせる作業です。サウスポーにヒットするパンチを数多くモノにしなければいけない。

 軌道、角度、タイミングなど多彩な攻撃を見せたいですね。オーソドックスと戦う時とは違う体の動きがありますから、背中が筋肉痛になったりしています(笑)。ロスでのキャンプも1週間がすぎて、だんだん体が慣れてきました。ようやく時差ボケも克服できましたね」

 中谷は大言壮語するタイプではないが、こう言いきった。

「サラパットには拓真選手以上の内容で、圧倒的な差を見せて勝ちたいと思っています」

【中谷を世界チャンピオンまで育てた師匠】

 筆者が中谷のキャンプを訪れた日、車椅子に座った老人がリングサイドから中谷のトレーニングを見詰めていた。中谷が15歳で単身渡米して以来、今日まで師事しているルディ・エルナンデスの父、ロドルフォである。今年の1月27日に91歳となったロドルフォは、年始に左足切断の手術を受けた。

 言葉はもちろん、右も左もわからないまま「世界チャンピオンになる」ことだけを夢見てルディの家でホームステイを始めた中谷を、ロドルフォいつも笑顔で支えた。

 1933年にメキシコ・グアダラハラで誕生したロドルフォは、祖国でプロサッカー選手となったが、長期契約は結べず、ルチャリブレ(プロレス)のリングに上がる。その後、米軍に入隊しようと1950年にアメリカ合衆国にやってきた。しかし、メキシコ人である彼に入隊は叶わず、靴職人として生活費を作り、3年後にLAのサウスセントラルに家を購入した。

 中谷の師であるルディが当地で生まれたのは、1962年10月27日のことだ。5歳の時、近所の雑貨屋にお使いを言い渡されたルディは、タチの悪い男にカネを巻き上げられそうになる。救いに入った父がボクシングジムに連れて行き、グローブを握らせた。

 ルディは振り返る。

「ボクシングなんか好きじゃなかった。人を殴る、あるいは殴られるなんて嫌だったよ。

でも、父に『やれ!』って言われたら、従うほかなかったんだ。本格的に始めたのは11歳の時さ」

 1977年、15歳のルディに思わぬチャンスが巡ってくる。"ニカラグアの貴公子"と謳われた伝説の王者、アレクシス・アルゲリョとスパーリングする機会に恵まれたのだ。まだプロはおろか、アマチュアの試合も未経験だった時期である。

「私は子どもだったが、まずは3ラウンド拳を交えた。面白いように自分のパンチが当たったよ。『もう1ラウンド追加するか?』と言われて、調子づいて向かっていったら、4ラウンド目にボディブローをヒットされたけどね。終了後、アルゲリョに『お前、何戦しているんだ?』って聞かれたから『まだゼロです』って答えたら驚かれてさ。それで自分には才能があるんだと感じた。プロになることを決意して、18歳でデビューした。学校は真面目に行かず、ボクシングに集中した」

 WBCウエルター級11位が最高位だったルディは、引退後にトレーナーとなり、4歳下の弟、故ヘナロや竹原慎二、畑山隆則、伊藤雅雪らを指導した。

「私の現役時代には、アーチ・グラントというすばらしいトレーナーがいた。

この人以上のティーチャーはいない。テクニックもバランスも、ボクシングの何もかもを理解した人だった。どのタイミングで、いかに選手に声を掛けるかなど、接し方も学んだね」

【リング上で表れる師の教え】

 中谷は会心のKO勝ちを収めても、リングで派手な喜び方はしない。「もっと上がある」という感情があるのと同時に、ルディから釘を刺されているからだ。

「相手があってのボクシング。世界タイトルマッチとなれば、対戦相手の家族や仲間も観に来て真剣に応援している。いつだって、その気持ちを把握しなければいけない」

 中谷は師から常々、そんな助言を受けてきた。

「ジュントがハッピーなら、私も嬉しい。それが一番大事なことだ」

 15歳の中谷を迎え入れ、3階級制覇の世界チャンピオンに育てたあとも、両者のスタンスは変わらない。

 中谷も、自身の歩みを回顧する。

「中学1年生でボクシングを始めた頃は、パンチを放つ際に力を溜めて、どれだけ強く一発一発を打つかを習いました。ルディはパンチの角度や足の向きなど、丁寧に細かくアドバイスしてくれ、『こういうパンチが当たる』という戦術面も指導してくれるんです。

だから、その場その場での発見がありますね」

 中谷は中2、中3で出場したU15のジュニアボクシング大会で日本一となっている。だが、中3の夏に、自身を指導してくれた元OPBF東洋太平洋スーパーバンタム級王者、石井広三が急逝した。その悲しみを癒すため、また、自分が世界チャンピオンとなることが供養になると信じ、プロボクサーとして成功することを掲げて走ってきた。

「高校に進学してインターハイ王者を目指すことなど、回り道でしかない。すぐに本場でプロの練習がしたい。アメリカに行かせて下さい!」

 そう、両親を説き伏せての渡米だった。

 中谷がホームステイしたルディの家は、LAのサウスセントラルにある。1965年8月11日から6日間、すぐ近くのワッツで黒人たちによる暴動が起き、死亡者34名、負傷者1032名、およそ4000名の検挙者を出した。1970年代まで8割の住民が黒人だったこの場所は、現在、およそ3分の2がヒスパニックで埋められる。ギャングの抗争が絶えず、犯罪の温床として知られている。

 サウスセントラルで研鑽を積んだWBCバンタム級チャンプの技術、メンタルは決してブレない。中谷潤人は、今、まさに己の時代を築きつつある。

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