セ・リーグの優勝争いが熱い。首位を走っていた広島が9月に入って急失速。
【2003年の阪神優勝に貢献】
そのなかで注目を集めているのが、球団初の連覇に挑むのが阪神だ。巨人と並ぶ名門球団でありながら、その歴史を紐解くと優勝回数は驚くほど少ない。
昨年リーグ優勝を果たした阪神だが、その前は2005年。ただこの頃の阪神は、球団史のなかでも短期間の間に2度の優勝を果たしており、2003年にもリーグ制覇を達成している。1990年代の「暗黒時代」のあとの、ほんのつかの間の「黄金時代」と言ってもいいだろう。
その2003年と言えば、闘将・星野仙一氏のもと「Never Never Never Surrender」(通称:ネバサレ)のスローガンで、1985年以来18年ぶりのリーグ優勝を飾り、日本中を熱狂に巻き込んだ年である。
そして今回、その優勝の立役者のひとりである助っ人が、日本プロ野球外国人OB選手会の企画により、現役引退以来、じつに20年ぶりに来日した。
その助っ人とは、ツルツルの坊主頭と髭がトレードマークだったトレイ・ムーア氏だ。2002年にアトランタ・ブレーブスから阪神に移籍。先発の柱として、2年連続で2ケタ勝利を挙げた左腕だ。
現在51歳のムーア氏は、現在、学校の教師を務める夫人、両親とともに故郷・テキサスの田舎町に住んでいる。マイナーリーグのチームもない、まさに田舎で、現役時代の稼ぎで手に入れた牧場で馬と鶏を飼っている。
「引退してからは、中学校や高校でコーチをしているんだ。野球だけじゃなく、アメフトも教えているよ。野球はピッチング、バッティング、走塁とすべて教えているよ」
夫人とはコーチングをしている学校で知り合った、いわば「職場結婚」だ。
アメリカから東京に到着後、まずはかつての同僚・川尻哲郎氏が営むバーで、ファンとともに阪神戦を観戦。あらためてファンの「熱さ」を感じるとともに、後輩たちの戦いぶりにエールを送った。
「スタンディング(順位)はアメリカでもチェックしているんだけど、どんな選手がいるのかまでは知らないからね。でも、見ている分には若いチームだという印象だね。誰がどんな選手なのかまではまだわからないけど、背番号8が目立っているんじゃないか。きっといい選手に違いないね」
最近、ディフェンス面で騒がせている佐藤輝明だが、ムーアはそのスター性をすぐに感じ取ったようだ。
【来日に合わせてヒゲを復刻】
一夜明け、いよいよ大阪入り。この日は、今回の来日のメインイベントである甲子園でのファーストピッチを行なうことになっていた。
のちにメジャーでもプレーすることになる藪氏は、当時からそのことを念頭に置いていたのか英会話が堪能だったようで、ムーア氏も「ヤブとはコミュニケーションが取りやすかったので、いろいろ世話になったよ」と語る。
抱擁を交わす両氏。顔を上げた藪氏が、夫人を見つけ会釈をすると、夫人も「Nice to meet you.(初めまして)」と返す。怪訝な顔をした藪氏が、「セカンドタイム?(2度目じゃないの?)」と確認すると、ムーア氏が「それは前の女房だよ」と返答。藪氏が慌てて口をふさぐという一幕もあった。
阪神時代はよく買い物にも行ったという両氏。腕時計が欲しいと言うムーア氏を、藪氏が某高級時計店に連れて行くと、ダイヤをあしらった時計を3本も購入したという。
「2つはプレゼントだったんだ。ひとつは父親、もうひとつは息子にね。その息子ももう31歳。彼も学生時代は野球をやっていたんだけど、ヒジと膝を故障してね。
藪氏との対談のなかでもっとも盛り上がったのは、チームを18年ぶりの優勝に導いた星野仙一監督の話だった。
「彼はとても存在感のある人物で、いつも威厳があったね。競った試合では、いつもエキサイトしていたね(笑)。でも、常に選手たちをリスペクトしていたよ。僕にも丁寧に接してくれていたよ」というムーア氏に、「おまえは、本当の星野さんを知らない!」と藪氏が突っ込むと、取材スタッフ一同が沸いた。
そして話題は、トレードマークのヒゲへ。今は白いものが混じってはいるが、ヒゲ面はあの日のままだ。しかし、これは今回の来日に合わせて「復刻」したのだという。ファンのイメージを大切にしたいという思いから、体重も10キロ近く減らしてきた。
アメリカではあごヒゲだけにしたり、頬ヒゲも生やしたりしていたのだが、口ヒゲだけは剃っていた。
「女房がキスする時に嫌がるんだ」と、ムーア氏が愛妻家ぶりを発揮すると、再び場が沸いた。
【日本では二刀流で活躍】
阪神時代のムーア氏は、ピッチングだけでなく、バッティングでもたびたびチームを救った。日本での通算打率は2割9分5厘。
「打撃はアマチュア時代から、僕のプレーの一部だったんだ。高校、大学とすべてのポジションを守ったからね。ただし、大谷翔平みたいにはいかないけどね(笑)。彼はベースボールの歴史のなかで誰もやったことのないことをしているし、今後も彼みたいなプレーヤーは現れないだろう」
来日1年目の2002年には、神宮球場でのヤクルト戦で三塁打を放っているが、ムーア氏はその三塁打よりも東京ドームの巨人戦で放った三塁打が記憶に残っているという。
ムーア氏にとっても巨人戦は「別物」だったようで、不動の4番だった松井秀喜氏は当時の日本の打者で最も印象に残っているという。
ムーア氏の打力はチームメイトも認めるところで、テレビ局での取材の際には、ビデオレターに登場した2003年優勝メンバーの赤星憲広氏も、その打力を絶賛していた。相手チームにとっては脅威であり、味方にとってはこれほど心強いものはなかった。
当時、投手の前の8番バッターを務めることの多かった藤本敦士氏(現・阪神コーチ)には、後ろにムーアが控えている際、しばしばバントのサインを出されたという裏話を赤星氏が披露。それを聞いてムーア氏は、「星野さんは、僕にはバントのサインは出さなかった。僕も打つのは好きだったので、その点でも僕にとってはいいボスだったよ」と、闘将の采配を振り返った。
【まさかの試合中止とサプライズ】
そしていよいよ甲子園へ。「今回は球場の周りを散歩したいな」というムーア氏は、球場前のホテルにチェックイン。
そんなファンのひとりと目が合ったムーア氏は軽く会釈をしたが、目の前にいるアメリカ人がまさかレジェンド助っ人とは思わず、会釈されたファンの方がキョトンとするシーンも。しばしの休憩後、甲子園に向かう途中では、この日のファーストピッチの情報を得ていた熱心なファンに囲まれたが、ムーア氏は気さくにサインや写真撮影に応じていた。
球場入りすると、「ファンの前でぶざまな格好は見せられないからね」と、控室で背番号17のユニフォームに着替えると、ブルペンに向かい、肩を温めた。
ところが、突然の豪雨によってセレモニーどころか試合も開始前に中止が決まった。悪天候のため、試合前ノックなどもなかったため、現在もユニフォームを着ているかつての同僚たちとの旧交を温めることもなく、甲子園をあとにした。
しかし、これには続きがあった。翌日はプライベートで観戦の予定だったムーア氏に阪神球団が粋な計らいをしてくれたのだ。ファーストピッチはすでにタレントがすることに決まっていたのだが、そのファーストピッチでムーア氏が打席に立つことになったのだ。まさに投打「二刀流」だったムーア氏だからこそ実現できたサプライズだった。
【2年連続2ケタ勝利もクビに】
ファンに強烈な印象を残したムーア氏だが、意外なことに阪神でのプレーは2年間のみ。長年タイガースでプレーしながら優勝の美酒を浴びることなくユニフォームを脱いでいく選手が多いことを考えると、彼の野球人生は「もっていた」と言えるだろう。
しかし優勝を果たした2003年、2ケタ勝利を挙げたものの、シーズンオフにオリックスへ移籍となった。
「あれはトレードじゃなく、クビになったんだ。たしかに2シーズン連続して10勝したけど、負けも多かったからね。それにしても、当時のセ・リーグとパ・リーグは全然環境が違ったね。オリックスはお客も少なかったし......それにパ・リーグはDH制だし、打席に立つこともなかった。ピッチングスタイル的にも、僕はセ・リーグのほうが合っていたと思う」
オリックスでは契約に打撃査定も盛り込まれたが、結局、打席に立つことはなかった。それでリズムを崩したというわけでもなかったのだろうが、6勝を挙げたものの防御率は6.24。シーズン終盤は二軍暮らしとなった。
2004年シーズンが終わると、近鉄との合併を前にオリックスは外国人選手を整理。ムーア氏にもリリースが言い渡された。韓国リーグからオファーがあったが、収入を半減させてまで助っ人生活を続けようとは思わず、31歳で引退を決めた。
「本当はMLBの球団からもオファーはあったんだけど、今さら招待選手やマイナーでプレーするつもりもなかったしね」
それから20年。故郷テキサスでは好きなことをしながら悠々自適の生活をしているようだ。クルージングが趣味で、引退後に結ばれた今の夫人とアラスカやメキシコ、フロリダへ出かけているという。来日中、ファンに取り囲まれたムーア氏を見て、「まるでムービースターのようだわ」と驚いていた夫人も惚れ直したことだろう。
最後に、日本での一番の思い出を尋ねると、ムーア氏は即答した。
「もちろん優勝さ。メジャーでも経験がないからね。日本の場合、胴上げがあるだろう。あれもアメリカにはない習慣だから、面白かったね。今のタイガースもなかなかタフな状況だけど、ネバー・サレンダーさ。ぜひ優勝してほしいね。なにしろ『ハンシンファンハ、イチバンヤー』なんだから」
スキンヘッドを光らせながら、ムーア氏はエールを送った。
トレイ・ムーア/1972年10月2日、アメリカ・テキサス州出身。2001年モントリオール・エクスポズ(現ワシントン・ナショナルズ)からアトランタ・ブレーブスに移籍、02年に阪神に入団 。来日1年目から先発ローテーション投手として27試合に登板し10勝をマーク。翌年も10勝を挙げる活躍で、チーム18年ぶりの優勝に貢献。打撃のセンスにも長けおり通算打率は.295と野手顔負けの記録をマーク。トレードマークの口ヒゲと、お立ち台での「阪神ファンは一番や!」の絶叫で人気を博した。04年にオリックスに移籍するも1年で退団し、現役を引退した