仁志敏久インタビュー(前編)
1990年代後半から2000年代初頭、巨人のリードオフマンとして大活躍した仁志敏久氏。その一方で99年から4年連続ゴールデングラブ賞を獲得するなど、守備の名手としても名を馳せた。
【ポジショニングの極意】
── 仁志さんと言えば、打球方向を予測して守る"ポジショニング"が有名で、1999年から4年連続してゴールデングラブ賞を受賞されました。
仁志 投手の配球や打者の打球傾向などを総合的に判断して、限りなく確定に近い形で守っていました。科学的に証明されていたわけではないですが、自分なりに根拠を持って守っていたつもりです。
── 当時、他球団の二塁手には立浪和義選手(中日)やロバート・ローズ選手(横浜)らがいました。目標にする選手やライバルはいたのですか?
仁志 結果的に4度ゴールデングラブ賞をいただきましたが、プロ入り時、守備は大の苦手で、鍛えられてなんとか守れるようになったんです。だからライバルとか目標ということではなく、若い頃は自分自身に磨きをかけることばかり考えていました。
── よく「ショートが内野で一番難しい」といったことを聞きますが、二塁手は左右逆方向にスピードを要求される動きが多いのでかなり難しいと思うのですが。
仁志 学生時代まではショートを守っていましたが、当時は自分の身体能力だけでプレーしていたような気がします。プロでは最初はサードでした。セカンドの細かい動き、技術に関しては、実際にやってみないとわからないこと、やらないと覚えられないことがたくさんありました。
── 守備でもっとも気をつけていたことは何ですか?
仁志 スタートをいかに早くきるか、ということです。先述のポジショニングに関しても、ある意味、そこに含まれます。
【打席で気にしていたのは捕手のクセ】
── 盗塁についてですが、2000年は11盗塁で失敗が19。2001年は20盗塁で失敗が3。そして2002年は22盗塁で失敗なし。成功の秘訣を会得したのでしょうか。
仁志 2000年の時は、カウント3ボール2ストライクの自動スタートの状況で"三振ゲッツー"が何度かあり、盗塁に至らない不運も重なったような気がします。成功率が上がったのは、超強力打線への移行期ということもあって、「一か八かのスタートはよくない」という考えが自分のなかにありました。むやみにスタートをきって、アウトになってはいけないと。投球モーションを見て、スタートできるか否かを判断していました。なかには、セットポジションに入る前からクセが出ている投手がいました。
── やはりクセを見抜くのですね。
仁志 動けば動いただけクセは出ます。
── バッティングについては「目つけは真ん中外寄り、ストレート系をセンター中心に打つ」ことを意識していたと聞いたことがあります。
仁志 アマチュア時代はクリーンアップを打つタイプだったので、どうしても球を運ぶようなイメージがありました。ただ、プロ入り後はバットを比較的短く持って、パンチショットみたいに上から叩くような感じになりました。それでも自分の個性を削ってまで単打を打とうとは思っていませんでした。
── 一時期メジャーを席巻した"フライボール革命"についてはどう思いますか。
仁志 もちろん間違いではないですが、人ぞれぞれの考えや感覚もあるので、個人的にはあまり流行りに乗らないほうがいいと思います。大谷翔平くん(ドジャース)のように、そういうスイングができて、あれだけのスイングスピードがあれば問題なくできると思いますが、試合で結果を出すとなると簡単ではないでしょう。あのスイングが絶対に正しいと思ってやると、失敗する危険性があると思います。本当に自分に合ったスイングを探すのが、一番の正解だと思います。
── 仁志さんは配球を読んで打つタイプでしたか。
仁志 打席に入る前はいろいろ考えるのですが、いざ打席に入るとそれが飛んでしまう。
【シーズン259発打線のリードオフマン】
── 2004年の巨人打線はタフィ・ローズ選手、高橋由伸選手、小久保裕紀選手、ロベルト・ペタジーニ選手、清原和博選手、阿部慎之助選手といった長距離砲が揃い、シーズン259本塁打の日本記録を樹立しました。リードオフマン(1番)を務めた仁志さんも28本塁打を放ちました。
仁志 2ケタ本塁打を打つ選手が多くいて、ある程度打たないと置いていかれてしまう......そんなことを思っていました。2000年から2年連続20本塁打のあと、2年連続8本塁打でした。だから2004年は最後の賭けのつもりで、軸足(右足)に体重を残して、逆方向に打つぐらいボールを呼び込むことを意識したら28本打てたんです。
── FAやトレードで大砲を獲得することを「生え抜き」としてはどう思っていましたか?
仁志 毎年のように誰か加わるので「来年は誰が来るんだ?」って感じでしたが、自分はなんとも思わなかったですね。ただあの時は、ローズがいて、ペタジーニがいて、さすがに獲りすぎですよね。「守るところがないだろう」って(笑)。
── 2004年は「259発打線」でも優勝はできませんでした。
仁志 長いプロ野球の歴史で、投手力の弱いチームが優勝したことはあまり例がありません。
後編につづく>>
仁志敏久(にし・としひさ)/1971年10月4日生まれ、茨城県出身。常総学院から早稲田大、日本生命を経て95年のドラフトで巨人から2位指名(逆指名)を受け入団。1年目から114試合に出場し、打率.270、7本塁打、24打点の成績を残しセ・リーグ新人王に輝いた。2004年には28本塁打を放つなど、強打のリードオフマンとして活躍。また名二塁手としても名を馳せ、99年から4年連続ゴールデングラブ賞を獲得。07年に横浜(現・DeNA)に移籍し、10年には米独立リーグでプレーしたが、故障などもあり同年6月に現役引退。その後は野球解説者としての活動の傍ら、侍JAPAN U−12監督などを歴任。21年から3年間、DeNAの二軍監督を務めた