T−岡田インタビュー(前編)

 ついにこの時が来てしまった......。オリックスのT−岡田が、9月24日に京セラドームで行なわれる自らの"引退試合"に臨む。

 履正社高(大阪)1年夏から4番を打ち、まもなくついた呼び名が「ナニワのゴジラ」。松井秀喜がメジャーに挑戦し、大きな話題となっていた頃で、各地に「○○のゴジラ」が出現した。

 そのなかでも岡田は、その愛称に負けない堂々の大器だった。当時、脱サラして数年、ライターとして駆け出しに近かった私は、岡田に惚れ込み、以来、追っかけ生活が始まった。

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【22歳で本塁打王を獲得】

 ドラフト候補として注目されるようになると、大阪桐蔭の平田良介(元中日)、辻内崇伸(元巨人)、近大附の鶴直人(元阪神)とともに「ナニワ四天王」と評され、2005年の高校生ドラフト1位でオリックスへ入団した。

 プロ入りしてから私の"岡田熱"はさらに増し、入団1年目からある野球雑誌が立ち上げたサイトで、『ナニワのゴジラ奮闘記』のタイトルで連載をスタート。今のネット時代とは違い、閲覧者は一日に多くても100人程度。それでもほぼ10日に1回のペースで4年間続け、連載は118回を数えた。

 今よりはるかに取材に自由がきいた時代。オリックス関係者、なにより岡田自身の大らかな対応にも助けられ、さまざまな話を聞かせてもらった。

 大きな期待を背負って入団した岡田だったが、入団直後から苦しんだ。ファームでは、1年目から「4番・ファースト」で多く起用されるも、3年目まではまったく数字を残せず、2、3年目は一軍出場もなし。3年目のシーズン途中には、「来年ダメなら......」という声も聞こえ始めていた。

 それが勝負の4年目、ファームで本塁打、打点のタイトルを獲り二冠王に輝いた。さらに一軍でも7本塁打をマーク。「来年こそはスター選手になる」との期待を込め、この年のオフに連載は終了。

 すると5年目の2010年、登録名を岡田貴弘からT−岡田にし、岡田彰布監督に抜擢されると、シーズン33本塁打を放ち、王貞治氏以来となる22歳での本塁打王を獲得。ここからどこまで成長するのか──岡田の前には、無限の可能性が広がっていた。

【引退試合】T−岡田が振り返る栄光と苦悩の19年 「どうやったら結果を残せるか、バッティングを考えることに疲れた」
2010年には本塁打王のタイトルを獲得したT−岡田 photo by Tanigami Shiro
 その後、岡田との付き合いは緩やかなものになったが、それでも高校時代から数えると22年。どうしても最後にゆっくりと話を聞きたいと思い、引退試合が迫るなか、大阪・舞洲(まいしま)にあるファーム施設の一室で、現役最後の取材を行なった。

【3年ぶりの開幕一軍スタートも】

 まずは、あらためて今の心境から聞いた。

「スッキリしています。やれることはやりましたから」

 そう言ったあと、「ちょっと疲れたのもありましたけど......」と、曖昧な笑顔を浮かべて続けた。

「どうやったら結果を残せるか、ここ何年間ずっと考えてきて、それでも結果は出せなかった。『ああでもない、こうでもない』とやったけどダメで......バッティングを考えることに疲れたというのもありました。それも含め、まあいろいろと疲れました」

 プロ19年目の決断。

そこに至るまでにはさまざまな思い、葛藤があったのだろう。

「ファンの方が球場に来て応援をしてくれて、僕に期待をしてくれているのに結果を残せない。思いに応えられないことが、僕のなかでかなりきつかった。自分自身に腹が立ち、また考えて練習するけど、結果に結びつかない」

 岡田には、今年の開幕前にも話を聞いていた。取材をしたのは、3月8日の巨人とのオープン戦の試合後。その試合で岡田は代打で登場し、左腕のアルベルト・バルドナードからきれいにレフト前にヒットを放っていた。明るい空気のなかで、今季にかける思いを語っていた。

「今年ダメならもうあとがないと思っていますし、結果を出すことがチームのためにも、自分のためにもなる。しっかり成績を残して、シーズンを楽しんで、秋にはみんなと思いきり喜びたいですね」

 シーズンでは3年ぶりの開幕一軍スタートを果たし、ソフトバンクとの開幕戦では「7番・ファースト」で出場するも4打数ノーヒット。2戦目は出番がなく、3戦目は一打同点の場面で代打出場し四球。そこから5試合出番がなく、6試合ぶりに代打で出場し凡退すると、まもなくして登録抹消。4月半ばにファーム降格となった。

【引退試合】T−岡田が振り返る栄光と苦悩の19年 「どうやったら結果を残せるか、バッティングを考えることに疲れた」
若き日のT−岡田 photo by Tanigami Shiro
「徐々に感じはよくなってきて、自分としては『もう少し一軍でチャンスがほしい』というなかでの二軍落ちでした。正直、『ここで抹消か......』というのはありました。でも、チームは勝てていなかったし、一番は開幕で使ってもらったのに結果を出せなかった自分の責任です」

 開幕戦で1本出ていれば、また違う展開が待っていたのだろうか。

 それでもファーム降格直後の中日戦で、岡田はライトへホームランを放っている。一昨年からほぼ岡田を見るためだけに加入した動画サイト『イージースポーツ』で見たが、打った瞬間にそれとわかる会心の一発だった。この時、そう遠くない時期の一軍復帰がイメージできたが、実際にはそうならなかった。

【感じは悪くないのに結果がついてこない】

 その後も定期的に岡田を観戦し続けたが、快打は続かず、数字も上がらない。もちろん、いい感じでとらえた打球もあったが、ファーム本拠地の杉本商事バファローズスタジアム舞洲特有の「アゲンストの風に戻され......」(T−岡田)と、最後まで乗り切れなかった。

「ファームに来てからしばらくの間、感じは悪くなかったんです。でも、『よし!』と思った打球がアウトになったり、感じは悪くないのに結果がついてこなかったり......。そのうち段々と状態が落ちていった。そんな感じでしたね」

 最後に岡田の打席を見たのが、8月13日のファームでの阪神戦。

そこからパタリと出場が止まった。引退会見で、決断した時期について「夏場くらい」と語っているのを聞き、この阪神戦を思い出した。

 この試合、「2番・DH」で出場した岡田は2打数ノーヒット。相手先発は、同じく今シーズン限りでの現役引退を表明した秋山拓巳。1打席目はしっかりとらえた感じのファーストライナーで、強く印象に残ったのは2打席目だった。甘いストレートをとらえ損ね、バットネットにファウルを放つと、岡田は声を発しながら厳しい表情で悔しさをあらわにした。完全なミスショットだったのだろう。結局、この打席はいい角度で打球が上がるもライトフライ。この打席のことを岡田に向けると、「2打席目はバットの先でした」と言った。

【引退試合】T−岡田が振り返る栄光と苦悩の19年 「どうやったら結果を残せるか、バッティングを考えることに疲れた」
プロ1年目、フレッシュオールスターで本塁打を放ち表彰されるT−岡田 photo by Tanigami Shiro
 あの2打席のなかで、"決断"に至った何かがあったのではないか──こちらの勝手な推測を告げると、「あそこで決めたわけではなかったんですけど......」と言って、こう続けた。

「あの試合を最後に出場がなかったのは、次の日にふくらはぎを痛めてしまったからなんです。今もまだ完治はしてないんですけど、それで試合に出なくなったのはありました」

 もし、ふくらはぎの痛みがなければ、その後も試合に出ていたということなのだろうか。

「もう少し出ていたと思います。ただあの試合の時点で、自分のなかでは(引退を)ほぼ決めていました。まだ球団には言っていませんでしたが、いつ伝えようかという感じで。8月になったばかりの頃は、『ここからもう一回』とあきらめてなかったのですが......」

 わずかな時間のなかで、決断のタイミングがあったのだろう。

 ここであらためて、先述した阪神の第2打席について振り返ってもらった。「とらえた!」と思った打球がファウル、あるいは凡打になる。そうしたわずかなズレも、決断したひとつの理由だったのだろうか。

「ここ何年かはずっとその繰り返しでした。目ではしっかりとらえているのに、スイングするととらえきれない。ほんとにその繰り返し。『なんでや!』と、いつも考えてきましたが答えが出ない。ピッチャーの球を速く感じるようになったことはないですし、練習ではいい打ち方ができるのに試合になるとできなくなる。

その差がなんなのか、最後までわからなかったですね」

 岡田同様に、リーグ4連覇を目指したチームももがき続けた。勝てない最大の理由は得点力不足だったが、そんな状況のなか、チームの力になれないという苦悩の日々。

「だから余計に......っていうのはありました。この状況で力になれない葛藤は、常にありましたね。でも、それもすべて自分が打てなかったから。結果がすべての世界で、結果を出せなかったんです」

 ファームでの成績は37試合の出場で81打数10安打(打率.123)、1本塁打、2打点。決断の秋を待たず、岡田は自らの判断で19年の現役生活にピリオドを打った。

後編へつづく>>

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