清水エスパルス・西部洋平氏インタビュー(前編)

 浦和レッズを皮切りに、清水エスパルス、川崎フロンターレなどで活躍した西部洋平氏は、2022年に24年にわたる現役生活に幕を下ろした。

 現在は古巣である清水の広報スタッフを務めている。

Jリーグ通算395試合出場(うちJ1は313試合)を誇るGKは、なぜセカンドキャリアにクラブ広報を選んだのか。

 インタビュー前編では24年間の現役時代を振り返りながら、引退を決断するまでの経緯、そして古巣に戻ってくることになったキッカケなどを話してくれた。

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── 2022年に現役を引退されましたが、24年間にわたる現役生活は西部さんにとって、あらためてどういったものでしたか。

「いろいろ思い出がありすぎて振り返るのは大変ですけど、ひとつ言えるのは、すごく人に恵まれたサッカー人生だったということ。もちろん、サッカー選手として人一倍努力したと自信を持って言えますけど、ひとりの力だけでは24年間も現役を続けられなかったと思います。

 周りの方に育てられましたし、サッカーというスポーツ自体に育てられた部分もある。引退してあらためて、それを感じますね。本当に昔はクソガキでしたから(笑)」

── 悪い子だったんですか?

「でしたね(笑)。プロのキャリアをスタートさせた浦和時代で言うと、当時のGKコーチだった土田尚史さんに悪態をついて、胸倉を掴まれたこともありました。若い頃は感情をうまくコントロールできなかったですし、熱くなりっぱなしみたいなところがあって。

 でも、そんな選手に対しても、土田さんはしっかりと向き合ってくれました。また、エスパルスに来てからも、まだまだ精神的に大人になりきれない部分もあったんですけど、当時の長谷川健太監督が見捨てることなく、いろんなことを伝えようとしてくれました。

 健太さんもたぶん、『こいつに言ってもわからないだろうな』と思っていたと思うんですけど、いつかわかってくれるだろうと粘り強く指導してくれたのは、本当にありがたかったですね」

【42歳まで現役を続けられた要因は...】

── 多くのクラブを渡り歩いたなかで、最も充実していたのはキャリアの半分を占める、通算12年間在籍したエスパルス時代になるのでしょうか。

「そうですね。浦和の時も試合に出ていたんですけど、正直、勢いだけでしたからね。自分でも試合に出ていることが不思議なくらいで。

 2004年に清水に来た時は、もちろんポジション争いもありましたけど、最初から主軸という形でずっと使っていただきましたから。一度は離れましたけど、2016年にまた取ってくれたこともありがたかったです。サッカーもそうですし、人間性も含め、エスパルスでいろんな経験をしながら成長できたと思っています」

J1通算300試合以上に出場した名ゴールキーパーは、なぜエスパルスの「広報」という仕事を選んだのか
現役時代(2008年/清水エルパルス)の西部洋平氏 photo by AFLO
── フロンターレ時代はどうでしたか?

「フロンターレには4年いたんですけど、風間八宏監督の下でプレーできたのも大きかったですね。風間さんのサッカー理論はすごく独特で、本気でバルサに勝つと言っていましたからね(笑)。はじめは半信半疑でしたけど、その意識を日常にしてくれたので、僕たち選手もその気になって取り組んでいました。その成果が、今のフロンターレに表れているのかなと思います。

 あと、それまでの僕は身体能力に頼っていた部分があったんですけど、風間さんと出会って、足もとの技術のところを徹底的に取り組みました。その時はもう31歳だったのでなかなかうまくいかなかったですけど、あの時期に足もとを練習したことが、42歳まで現役を続けられた要因のひとつになったと思います。ここでもやっぱり人に恵まれましたね」

── 24年ものキャリアを過ごされたので難題かと思いますが、最も印象深い試合をひとつ挙げるとすれば?

「2019年の天皇杯の準々決勝ですね。

ジュビロ磐田とのダービーマッチだったんですけど、その年はなかなか試合に出られていなかったんですよ。だけど、クサらずに日々の練習に取り組む姿をしっかりと見てくれていたんでしょうね。重要な試合で使ってもらったので、起用に応えたい気持ちは大きかったです。

 その試合はPKまで行って、そこで2本止めて勝つことができました。自分がやってきたことが報われたような気がして、今でも記憶に残る試合です」

【ライセンス試験を受けたが現実は甘くなく...】

── 2022年に引退を決めた理由は、どういったものだったのでしょう?

「2020年にエスパルスを契約満了になった時に引退しようと思っていたんですけど、もともとエスパルスの社長だった左伴繁雄さんが、カターレ富山の社長になるということで電話がかかってきて、『もうちょっとやってみないか』と誘われたんです。その時に『お前が辞めたいタイミングで辞めたらいいよ』と言ってもらえたのも、ありがたかったですね。

 結局、富山では2年プレーして辞めたんですけど、理由としてはふたつあります。ひとつは僕がいることで、若い子たちが伸びない気がしたんです。試合に出る、出ないは別として、結局西部さんが言ってくれるとか、やってくれるみたいな、受け身の空気があったんですよ」

── 自発的な言動がなかったと?

「そうです。それが自分のスタイル的に、ちょっと許せなくて。若い選手たちが自主的に試合に向かっていくような雰囲気を作ってほしかったんですけど、僕がいることで若手が遠慮しているような感覚があったんですよね。それを感じた時に、そろそろ潮時だなと。

 もうひとつは家族の問題です。2年間、単身で富山に行っていたんですが、3人目の子どもが生まれたばかりだったので、そろそろ近いところで妻をサポートしなければいけないなと考えて、引退を決意しました」

── 昨年(2023年)はどのように過ごしていたんでしょうか。

「引退した時にエスパルスからGKコーチのオファーをいただいていたんですが、それと同時に僕の知り合いの方がマネジメント会社を立ち上げるから、一緒にやってみないかと誘われたんです。僕自身、引退するタイミングでこれからは選手のサポートをしたいという気持ちがあったので、GKコーチよりも代理人を目指すほうが自分らしいんじゃないかと思ったんです。

 それで昨年は、代理人になるための勉強をしていたんですが、その年にライセンス制度が始まったんですよ。ライセンスの試験も受けたんですが、現実はそんなに甘くはなくて。それで1年が経って、自分が本当にやりたいことは何だろうかとあらためて考えた時に、やっぱり12年間も在籍させていただいたエスパルスのために働きたいと思ったんです」

(後編につづく)

◆西部洋平・後編>>何も知らずに広報マンの道へ「思っていたより10倍大変」


【profile】
西部洋平(にしべ・ようへい)
1980年12月1日生まれ、兵庫県神戸市出身。1999年に帝京第三高校から浦和レッズに入団。2006年から清水エスパルスでプレーし、その後は湘南ベルマーレや川崎フロンターレに在籍し、2022年にカターレ富山で現役を引退。24年間のプロキャリアに終止符を打ち、2024年より清水の広報スタッフとしてクラブに復帰する。2007年にはアジアカップの予備登録メンバーに選ばれ、J1リーグ通算313試合出場の実績を残す。ポジション=GK。

身長187cm。

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