連載 怪物・江川卓伝~"元祖・速球王" 鈴木孝政の矜持(前編)
>>過去の連載記事一覧
1979年、江川卓は入団時の"すったもんだ"により、開幕から2カ月間一軍登録禁止のペナルティーが課され、一軍デビューしたのは6月だった。それもありプロ1年目は9勝10敗の成績だったが、開幕から投げていれば間違いなく2ケタ勝利は挙げていただろう。
翌80年は16勝で最多勝、さらに81年は20勝で2年連続最多勝となり、名実ともに球界を代表する投手となった。
江川の存在が大きすぎるばかりに、それまでセ・リーグを代表する"速球王"は、忘却の彼方に追いやられてしまった。
【幻に終わった江川卓との直接対決】
この"元祖・速球王"の名は、鈴木孝政。1972年、中日にドラフト1位で指名され、プロ2年目の74年から台頭し、リーグ優勝に貢献。3年目の75年に最多セーブ、76年に最優秀救援投手、最優秀防御率の二冠、77年は先発とリリーフを兼任して18勝を挙げ、9セーブも記録し、最優秀救援投手のタイトルを獲得した。
155キロを超えていたと言われる快速球で、セ・リーグの強打者たちを圧倒。21歳から23歳までの3年間、鈴木は間違いなく球史に残るピッチングを披露した。
鈴木は江川の1歳上で、高校時代に二度ほど対戦しかけたことがあった。
「高校3年春の関東大会に、オレがいた成東(千葉)と江川の作新学院(栃木)が出ているのよ。江川は高校2年で、決勝まで行けば当たったんだけど、作新が先に負けて......。それで成東は、どう間違えたのか決勝まで行ったんだよね。その頃から江川の噂は聞いていたから、作新の試合はスタンドからほんの少しだけ見たよ。
それで関東大会後に、作新のグラウンドで練習試合があったのよ。
成東の鈴木孝政と言えば、関東では知らない者がいないほど、速い球を投げるピッチャーとして有名だった。江川が高校3年春の甲子園に出場が決まった際、広島商の監督である迫田穆成は馴染みの記者に、「その江川っていうのは、千葉の鈴木孝政より速いのか?」と尋ねたという。鈴木は甲子園出場こそなかったが、その才能は名将たちにも知れ渡っていた。
「甲子園に出ていたら、抑える自信はあった」
いつも細い目をして朗らかな顔で話す鈴木が、この時だけは真剣な表情で語った。それだけ甲子園に行けなかったことが、悔しかったのだろう。
【明治大進学予定が一転、中日入り】
江川にも匹敵するほどの能力を持った鈴木を、プロをはじめ、大学、社会人が放っておくはずがない。最初に声をかけたのは、明治大だった。
「中村勝広さんが成東から早稲田大に行っているので、オレも早稲田に行く予定だったんだけど、明治大の島岡(吉郎)御大が学校に来て、マネージャーが『島岡自ら学校に来るのは、甲府商業の堀内恒夫以来です』って言うもんだから、うちの監督と部長がビビっちゃって(笑)。
それで明治のセレクションに行くことになったんだけど、明治OBの秋山登さんや土井淳さん、さらに"青バット"の大下弘さんと錚々たるメンバーがブルペンにいるのよ。ピッチャーだけで20人近く参加していたのかな。ブルペンで何球か投げると、島岡御大が『よし、わかった』とうれしそうに言って、ピッチングを止められた。ほかの参加したピッチャーは、オレと比べられて気の毒だなぁと......それくらい自信があったね」
ドラフトの目玉でもあった鈴木に、プロからの勧誘もしつこくあったため、「在京球団ならプロ入り」と宣言し、半ば明治大進学が既定路線となっていた。
"たら・れば"を言ったらきりがないが、もし鈴木が明治に入っていたら、江川率いる法政大は4連覇を達成していなかったのではないだろうか。現に江川が法政に在学していた4年間、明治は2回優勝している。明治の鈴木、法政の江川の対決は、東京六大学きっての超目玉カードになったのは間違いないだろう。
ドラフト当日、全体の2番目指名で中日は果敢に鈴木を1位指名してきた。その日から中日がスカウト陣を総動員し、"鈴木詣"が始まった。そして最後は、トレンチコートを着た当時のヘッドコーチである近藤貞雄が使者としてやって来た。
「まぁ近藤さんの口説きが、うまいのなんのって。それまで反対していた親父は、近藤さんの口車に乗せられてOKしたんだから。
頑固一徹の鈴木の父・武男は苦労人だった。11歳の時に父が亡くなり、4人兄弟のうち武男を含む3人が奉公に出され、幼き頃より社会の厳しさを身にしみて経験している。武男は、4年間あれば立派に社会勉強できるという考えだったため、大学進学さえも反対だった。こんなエピソードがある。
鈴木のプロ1年目のゴールデンウィーク前、鳴り物入りで入団したといってもまだ18歳。見知らぬ土地での生活、ドラフト1位というプレッシャーは相当なものだった。当時のナゴヤ球場は、レフト側の先には通過する新幹線が見え、鈴木は球場で練習するたびに新幹線が視界に入っていた。
そしてある日、何を思い立ったのか、鈴木は練習が終わると名古屋駅に行き、新幹線に乗って千葉の実家に帰ってしまったのだ。
「久しぶりに会ったのに親父は仏頂面で『相手の敷居が高くなるから、明日の朝イチで帰れ』と。末っ子のオレが帰ってきても、うれしそうな顔などまったく見せなかった」
ホームシックになって帰ってきた鈴木を、本当は温かく出迎えたかったはずなのに、武男は心を鬼にして突き放したのだ。
(文中敬称略)
つづく>>
江川卓(えがわ・すぐる)/1955年5月25日、福島県生まれ。作新学院1年時に栃木大会で完全試合を達成。3年時の73年には春夏連続甲子園出場を果たす。この年のドラフトで阪急から1位指名されるも、法政大に進学。大学では東京六大学歴代2位の通算47勝をマーク。77年のドラフトでクラウンから1位指名されるも拒否し、南カリフォルニア大に留学。78年、「空白の1日」をついて巨人と契約する"江川騒動"が勃発。最終的に、同年のドラフトで江川を1位指名した阪神と巨人・小林繁とのトレードを成立させ巨人に入団。プロ入り後は最多勝2回(80年、81年)、最優秀防御率1回(81年)、MVP1回(81年)など巨人のエースとして活躍。