──北海道日本ハムファイターズのリーグ優勝が決まったのが2012年10月2日。クライマックスシリーズファイナルでホークスを下したのが19日。
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「新刊書籍『栗山英樹の思考 若者たちを世界一に導いた名監督の言葉』(ぴあ刊)より本文を抜粋してお届けします。【強行指名は非礼だと感じていた】
ドラフト会議前にメジャーリーグに挑戦することを表明した翔平を、ファイターズは強行指名しました。
翔平はメジャー以外考えていない、と宣言していましたが、私はファイターズに来てくれると思っていました。日本のプロ野球には行かない、と表明した高校生を無理やりに指名したことで、高校の関係者にはものすごく迷惑をかけました。若者の信念のある行動に対しての強行指名ですから、非礼だとも感じていました。
しかし、18歳でメジャーリーグに行くよりも日本のプロ野球で基礎を固めてからメジャー契約でアメリカに行くほうがいいと我々は思っていたので、その思い、考えをぶつけさせてもらいました。ファイターズのためではなく、翔平のためだと考えました。だから、こちらも信念を持ってお願いにいくだけでした。大谷翔平なら理解してくれると思っていました。
私が話をするとき、翔平はいつも何も言わずに聞いていました。リアクションはまったくなし。大事な話をする時はいつもそうなんです。表情を少しも変えることなく耳を傾けてくれて、説明をし終えた時に「ありがとうございました」とだけ言いました。
こちらの話を聞きながら、一生懸命に考えてくれているように見えました。その時はどんな決断を下すのかはわかりませんでしたが、彼を信じて待つだけでした。
入団の記者会見ができたのは、指名から1カ月半近く経った12月9日。その時、私は「もっと喜べると思ったけど、全然喜べない」と言いましたが、それは本音ですね。あれだけの選手を預かるんですから、当然のこと。
もし翔平に故障をさせたら大変なことになる。壊してしまったら責任なんて取れないですから。5年後にメジャーリーグに送り出す時、どれだけほっとしたことか。
世の中が非常に苦しいなかで、人々に元気を与える存在を、神様がこの世に送り出そうとしていたんじゃないかと思います。100年前のベーブ・ルース(元ニューヨーク・ヤンキース)のように。
大谷翔平という選手を世に送り出すためにいろいろな駒が必要だったわけですが、私もそのひとつだったんだと。彼を強行指名したあとに、ファイターズへの入団をサポートする役割を私がすることになったのです。
翔平に初めて会ったのは、彼が高校2年生の時。2011年3月11日に起こった東日本大震災の1カ月ほどあとだったと記憶しています。取材者として、被災したキャッチャーの家族について、翔平にインタビューをするためでした。
人の生死に関わることだし、質問するこちらも慎重になったのですが、翔平は取材の意図を汲み取ってくれて、的確に答えてくれました。その前に花巻東の先輩である菊池雄星投手(現ヒューストン・アストロズ)から、「僕よりすごい選手です」とも聞いていました。野球の能力とは別のところで、翔平には"考える力"があるなと感じました。
【二刀流は日本野球のためでもある】
──入団に際して、大谷に投手と打者の二刀流を提案したのはファイターズだった。栗山は「誰も歩いたことのない、大谷の道を一緒につくろう」というメッセージを贈り、高校卒でのメジャーリーグ挑戦を表明していた大谷は、最終的にファイターズ入団を決断する。プロ1年目の2013年の開幕戦で8番・ライトで先発出場を果たした(2安打1打点)大谷は、ルーキーイヤーに投手として3勝(防御率4.23)、打者として打率.238、3本塁打、20打点をマークした。
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翔平は、自分の体がどうこうよりも、目の前の試合に勝ちたいという選手。こちらが抑えないと、どんどん試合に出てくる。まだ18歳で体もできあがっていないから、絶対に壊してはいけない。こちらでコントロールすることを心がけました。
私たちは、「翔平なら二刀流ができる」と信じていました。はじめは否定的な意見もたくさんありましたが、彼がプレーすることでそういう声が出なくなった。やっぱり、あいつがすごいんです。本当によくやりました。
翔平の二刀流を進めることは本人のためでもありましたけど、チームとしても必要でした。エースと四番打者の役割をひとりでやってくれるわけですから、こんなに頼りになる選手はいません。
ただ、二刀流をすることで、ほかのチームメイトに影響があったのは事実です。ローテーションがずれる投手もいたし、翔平に出場機会を奪われる選手も出てきました。「特別扱い」によってチームが揺らぐことも想定しましたが、私はあまり気にしませんでした。なぜなら、「大谷翔平に二刀流をやらせる」という大義があったから。
翔平が二刀流で活躍することは、日本の野球のためである。本人のためでもあるし、ファイターズが勝つためでもありました。チームに波風が立ったこともあったけど、大義の前では何ともない。なにより、彼が自分のプレーでみんなを黙らせたというのが大きかったですね。誰に何を言われても「やる!」という強い気持ちを感じました。
栗山英樹(くりやま・ひでき)/1961年生まれ。東京都出身。創価高、東京学芸大学を経て、84年にドラフト外で内野手としてヤクルトに入団。89年にはゴールデングラブ賞を獲得するなど活躍したが、1990年にケガや病気が重なり引退。引退後は野球解説者、スポーツジャーナリストに転身した。2011年11月、日本ハムの監督に就任。翌年、監督1年目でパ・リーグ制覇。2016年には2度目のリーグ制覇、そして日本一に導いた。2021年まで日ハムの監督を10年務めた後、2022年から日本代表監督に就任。2023年3月のWBCでは、決勝で米国を破り世界一に輝いた